劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
「必要ならば、博望付近へ見張りを置くこと」
俺は、襄陽から届いた木簡のその一文を指で押さえた。
「必要でなければ、置かなくてもよいのですね?」
「はい」
県丞が答えた。
「必要かどうかは、誰が決めるのですか」
「玄徳様にご確認いただきます」
「どうやって?」
「博望へ赴き、道と周辺の状況を調べていただきます」
「必要でないと判断するためにも、博望まで行く?」
「はい」
「行った結果、必要だと分かったら?」
「見張りを置きます」
俺は木簡から指を離した。
「どちらに転んでも仕事があるじゃないか!」
県丞は答えなかった。
卓の向こうでは、単福がすでに博望方面の地図を広げている。
「必要でないと証明する方が難しい」
「朝から絶望を補強しないでください!」
単福は、昨日から当然のように軍議へ座っている。
仕官したわけではない。
俺も雇っていない。
それなのに、地図を広げる手つきだけは、完全に仕事を始めた人間のものだった。
「念のため、先に言っておきます」
俺は全員を見る。
「今日は見るだけです」
「砦を作りません」
「兵を置きません」
「敵を探しに行きません」
「日が暮れる前に戻ります」
張飛が尋ねた。
「敵がいたら?」
「見なかったことにする」
「報告しなくてよいのか」
「……見たことだけ報告する」
単福が言った。
「敵が来ぬ場所だと分かれば、見張りを置かずに済む」
「そう、それを確認しに行くんです!」
「そのような場所があればよいな」
「出発前から希望を折るな!」
◆
「道も林も水場も調べるなら、人手が多い方が早い」
張飛が、門前に集まった男たちを見ながら言った。
「この者たちを皆、連れていこう」
「視察です。出陣ではありません」
「人が多ければ、視察も早く終わる」
単福が首を横へ振る。
「大勢で歩けば、こちらが博望を調べていると敵へ教えることになる」
「敵がいれば、捕らえればよい」
「敵を探しに行かないと言ったばかりだろ!」
同行者は必要な者だけに絞った。
俺。
関羽。
張飛。
廖化。
単福。
北の荷道を知る元御者。
水場と畑を知る農民。
足跡や潜伏場所を見分ける元賊。
地図と記録を担当する若者。
それに最低限の護衛だけ。
甘氏は、同行する者たちの家族記録を確かめた。
糜氏は、新野から外せない役目を持つ者が混じっていないかを見る。
「旦那様も、本当に行かれるのですか」
甘氏が尋ねた。
「俺が行かないと、張飛が道を見る前に戦う場所を決めそうだから」
「敵がいれば、そこが戦場だろう」
「いなくても戦場にするな!」
糜氏は、一日分の食料と水だけを用意した。
「宿泊の支度はしておりません」
「よし。日が暮れる前に必ず戻る」
単福が顔を上げる。
「調べ終わらなければ?」
「日が暮れる前に戻る!」
「敵は、そなたの予定に合わせて動かぬぞ」
「敵より先に、あなたが予定を壊さないでください!」
◆
関羽は当然のように、赤兎馬の手綱を引いてきた。
単福が赤兎馬を見る。
「その馬を本道へ出せば、遠くからでも関羽殿の所在が分かる」
関羽の眉が動いた。
「友を置いていけと申すか」
「友であれば、危険な道へ不用意に姿をさらさぬことも必要だろう」
関羽が赤兎馬を見る。
赤兎馬も関羽を見る。
しばらく沈黙が続いた。
「関羽と赤兎馬の話を、一回で進めた……」
俺が呟く。
張飛が笑った。
「兄貴では、いつも三回ほどかかるからな」
「俺の説得力が低いみたいに言うな!」
赤兎馬を完全に新野へ残す案には、関羽も赤兎馬も納得しなかった。
そこで条件を付ける。
本道へ出さない。
高所へ上げない。
博望の南側で待機。
緊急連絡と退路確保だけ。
敵へ姿を見せない。
糜氏が木簡へ書き始める。
「赤兎馬、博望視察――」
「まだ勤務記録へ入れないで!」
「出発した時から役目は始まっている」
関羽は真顔だった。
「馬だけ移動時間まで勤務扱いなの?」
赤兎馬が鼻を鳴らした。
当然だと言っているように聞こえた。
◆
新野を出て、北へ向かった。
同じ道を歩いているはずなのに、全員が違う場所を見ている。
元御者は、道幅と曲がりを確かめた。
「ここなら、荷車が二台すれ違えます」
少し先へ進む。
「こちらは一台ずつです。長い車列なら、先頭が止まると後ろまで詰まります」
同行した農民は、水場と泥の深さを見る。
元賊は、林の斜面と乾いた水路を示した。
「人を隠すなら、あの斜面です」
「追われた時は、こちらへ入れば足跡が見えにくくなります」
廖化は、それぞれが示した場所をつなぎ、本道を使えない場合の帰路を確かめていた。
単福だけは、道そのものより、そこを通る敵を見ているようだった。
「この坂で先頭が止まれば、後続は前を見られぬ」
「水場が一つなら、兵はここへ集まる」
「高所へ物見を置くなら、あの丘だ」
張飛が周囲を見回した。
「道は、ただの道ではないのか」
単福が答える。
「逃げる者には退路だ」
「追う者には近道だ」
「荷を運ぶ者には、車輪が沈まぬ場所だ」
「待つ者には、敵の列が細くなる場所だ」
張飛が道を睨んだ。
「面倒な道だな」
「道が面倒なんじゃない。見る人が増えたんだよ」
俺も、もう道がただの道には見えなくなっていた。
前までは、歩きやすいか、遠いか、疲れるかしか見ていなかったのに。
◆
博望へ近づいたところで、単福が道の先を指した。
林に挟まれた曲がり道である。
「敵の騎馬が一騎、あの曲がりの向こうへ逃げたら、張飛殿はどうする」
「追う」
「その先に十騎いれば」
「十騎とも倒す」
「百騎なら」
「兄者を呼ぶ」
関羽が答えた。
「勝手に呼ぶな」
張飛が単福を睨む。
「何が言いたい」
「張飛殿は、敵を捕らえるには最も速い」
張飛の胸が少し上がる。
「だが、敵に連れ出されるのも最も速い」
胸が元へ戻った。
「俺が罠へかかると申すか」
「張飛殿を守る場所から離したければ、一騎を見せればよい」
「その一騎を捕らえれば済む」
「捕らえた場所で囲まれる」
張飛の手が槍へ動いた。
「張飛、怒るな」
俺は二人の間へ入った。
「兄貴まで、この男の肩を持つのか」
「お前、昨日も三騎を追おうとしていただろ!」
張飛が口を閉じた。
単福は続ける。
「張飛殿を倒す必要はない」
「追わせることができれば、守るべき場所から離せる」
張飛は単福を睨んだままだった。
だが、先ほどより槍を握る手は緩んでいる。
「だからといって、張飛を囮にする案も駄目ですからね」
俺は単福へ念を押す。
「まだ申していない」
「顔がもう考えてる!」
◆
博望周辺へ着いた。
新野へ続く本道は、両側を低い丘と林に挟まれている。
広い場所もあるが、途中で道幅が狭くなる。
長い車列なら、自然に細く伸びるだろう。
東側には迂回する細道。
西側には乾いた水路。
南へ戻る道は、一本ではない。
低い場所には、雨が降ればぬかるみそうな土がある。
林の足元には、乾いた枯れ草が積もっていた。
張飛が林を見る。
「兵を隠せるな」
関羽は道の曲がりを見る。
「先頭がここを越えれば、後ろの兵から見えなくなる」
単福が俺へ尋ねた。
「玄徳殿は、どう見る」
「新野へ戻る道は、本道以外にいくつありますか」
単福が少し黙る。
「雨が降ったら使えない道は?」
「怪我人を運べるのは?」
「荷車を捨てずに戻れる道は?」
「本道を塞がれた場合、関羽と張飛は別々に帰れますか」
張飛が呆れた顔をした。
「敵を倒す場所を見に来たのではないのか」
「必要なら見張りを置けと言われただけだ!」
単福は、記録役の若者へ地図を出させた。
本道。
西の乾いた水路。
東の細道。
南へ戻る坂。
雨でも使える高い道。
負傷者を運べる平らな道。
それらを順に記していく。
「本道が塞がれても、別の道から退ける」
「負傷者を運ぶ道と、騎馬が走る道を分けられる」
「敵が追えば、こちらも敵の隊列を分けられる」
「敵を分ける話はしてません!」
「退路を考えれば、敵がどう追うかも決まる」
「どうして逃げ道を作ると、攻め方まで完成するんですか!」
◆
張飛と関羽が林を調べている間、同行した農民の案内で、近くの畑にいた男へ話を聞いた。
「この辺りへ、普段来るのは誰ですか」
「薪を拾う者、木を切る者、畑へ通う者がおります」
「家畜を連れてくる者も」
「北の村へ向かう商人も、この道を使います」
単福が尋ねた。
「敵が来る可能性がある。立ち入りを止めるか」
「いつ来るか分からない敵のために、畑や仕事を止めさせるんですか?」
「戦が始まってからでは遅い」
「では、普段と、敵を見つけた後で分けよう」
平常時は、これまでどおり使う。
敵騎を見つけた後は、林へ入らない。
合図が出たら、水場から離れる。
家畜を置いて逃げる場所を決めておく。
木こりや農民を兵として数えない。
土地や薪を勝手に軍用へ取り上げない。
損害が出た場合に備え、誰がどこを使っているか記録する。
張飛が尋ねる。
「なぜ、戦う前から損の話をする」
「戦った後に、畑を荒らした、家畜が消えた、薪を勝手に使ったと言われたら、誰が対応すると思ってるんだ!」
単福がこちらを見る。
「それゆえ、先に民を確かめるのか」
「後から請求先が全部俺になるのが怖いだけです!」
「理由はともかく、必要なことだ」
本人の善意を否定しても、結果まで消えてはくれなかった。
◆
単福が足元の枯れ草を拾った。
指で揉むと、乾いた音を立てて崩れる。
「乾けば、よく燃える」
「火は使いません」
俺は即座に答えた。
「まだ使うとは申していない」
「その草を持った時点で考えていたでしょう!」
張飛も林を見る。
「火を放てば、敵は混乱するな」
「味方も混乱する!」
「風上から放てばよい」
「風向きが変わったら?」
「変わらぬ日に戦う」
「戦の日を風に決めてもらうの?」
関羽が静かに言った。
「火は敵だけを選ばぬ」
「そう、それ!」
俺は関羽を指した。
「周りには農民もいる」
「味方の帰り道も林の中だ」
「馬も驚く」
「煙で合図も見えなくなる」
「新野の方へ燃えたら、戦った後に消火まで必要になる!」
「敵と戦った後に山火事まで処理する余裕はありません!」
単福は枯れ草を地面へ戻した。
「ならば、火を使わずに敵の列を伸ばす方法を考える」
「考えるのは止めませんが、仕事を増やさない方向でお願いします!」
◆
地図へ、帰り道を記した。
本道。
西の乾いた水路。
東の細道。
負傷者を運ぶ道。
赤兎馬が走れる道。
廖化の物見が退く道。
関羽が退路を守る位置。
張飛が追撃をやめる場所。
張飛が地図を覗き込む。
「俺だけ、止まる場所が書かれているぞ」
「一番必要だからな!」
「敵がその先へ逃げたら」
「止まれ!」
「あと少しで捕らえられるなら」
「止まれ!」
「兄貴が危険なら」
「その時だけ戻れ!」
張飛が腕を組む。
「兄貴が危険かどうかを、誰が決める」
俺は黙った。
張飛自身に任せれば、俺がくしゃみをしただけでも危険と判断しかねない。
単福が言った。
「合図を決めればよい」
撤退。
援護。
敵接近。
追撃禁止。
新野へ急報。
負傷者発生。
「増やしすぎです!」
俺は止めた。
「覚え間違えたらどうするんですか」
最終的には三つに絞った。
全員撤退。
援護が必要。
新野へ急報。
追撃は、命令がなければ原則禁止。
張飛が不満そうに言う。
「追ってよい合図がないぞ」
「必要ないからな!」
「敵が逃げたら」
「逃がせ!」
単福が小さく笑った。
「合図を減らし、原則を一つにするか」
「間違えにくい方がいいでしょう」
「将が覚えておらねば、誰も従えぬ」
「俺自身も含まれてるの?」
◆
襄陽から命じられた見張りを、どこへ置くか。
候補は二か所あった。
一つは、高所に残る古い小屋。
北方を遠くまで見渡せる。
新野へも合図を送りやすい。
しかし、敵からもよく見える。
もう一つは、林の縁。
本道と東の細道を見られる。
逃げ道も複数ある。
ただし、遠くまでは見えず、新野への合図も届きにくい。
単福は言った。
「両方を使う」
「二か所に仕事を増やすんですか」
「高所の小屋は、敵の接近を早く知るために使う」
「人数と進路を見る者は、林の縁へ置く」
「高所の者は、敵が近づいたら退く」
「林の者は残って見る」
俺は小屋を見上げた。
「高所の見張りを囮にする気ですか?」
「見張りは見張りだ」
「敵から見えることを利用していますよね」
「見られて困る物を置かなければよい」
「見張り本人は見られて困るでしょう!」
条件を加えた。
高所へ一人だけ残さない。
敵が一定の距離へ来たら、戦わず退く。
逃げ道は二つ。
交代時間は短くする。
重要な記録や物資を小屋へ置かない。
実際に敵の数を見るのは林側。
「ここまでやるなら」
俺は渋々頷いた。
「見張りを置いてもいいです」
単福が記録役へ言う。
「玄徳殿が、見張り所の配置を決めたと」
「俺が決めたことにしないでください!」
「条件をすべて決めたのは、そなただ」
「危なくないようにしただけです!」
「それを配置と申す」
「軍師の言い換え、監察役より逃げ道がない!」
ただし、その日は小屋へ手を加えなかった。
県のものか。
近隣の村のものか。
すでに誰かが使っているのか。
何も分からないうちに直せば、後から持ち主が現れるかもしれない。
「まず新野へ戻り、記録を確かめます」
俺が言うと、単福が小屋を見た。
「壊れかけた小屋一つにも、持ち主を探すのか」
「勝手に使って、後で返せと言われるのが嫌なんです!」
日が傾く前に、俺たちは博望を離れた。
予定どおり、空が暗くなる前に新野へ戻ることができた。
俺はそれだけで、今日一日の仕事を終えたつもりだった。
◆
ところが翌朝。
糜氏が、古い木簡を卓上へ並べた。
「博望の小屋は、以前、県が街道の見張りに使っていたものです」
「いまは?」
「長く使われておりません」
「近隣の村や個人の所有では?」
「ございません。県の管理物として記録が残っております」
「では、最低限の修理なら?」
県丞が答えた。
「問題ございません」
逃げ道が塞がった。
さらに糜氏が、別の記録を置く。
「修理用の板、縄、木栓は、新野で保管している補修材から出します」
「周辺の木は切りません」
「四台ある荷車のうち一台を、資材の運搬へ使います」
「使用量と運搬者も記録いたします」
「完璧に仕事の準備ができてる……」
単福が言った。
「所有も資材も明らかになった。これで直せる」
「あなた、うれしそうですね」
「必要な見張りだ」
「俺は必要でない可能性を調べに行ったはずなんですけど!」
結局、翌日も博望へ向かうことになった。
今度は視察ではない。
小屋を修理し、見張りの動きを確かめるためである。
一日で仕事が終わらなかったどころか、翌日の仕事まで生んでいた。
◆
新野から運んだ板と縄で、古い小屋を最低限だけ修理した。
傾いた柱を支える。
雨漏りする屋根へ板を足す。
合図を出せる場所を整える。
水を少量置く。
二つある撤退路の草を払う。
周辺の木は切らない。
古い柱や板も、使えるものはそのまま残す。
張飛が、荷車から太い補修材を担いできた。
「柵を立てるぞ」
「立てない!」
「敵を止められぬ」
「敵を止める場所じゃない!」
「では壁を」
「小屋を砦にするな!」
林の縁には、建物を作らない。
草を大きく踏まない。
枝を目立つ形で切らない。
火を使わない。
食べ残しを捨てない。
交代者は同じ道を通らない。
足跡もできる限り残さない。
単福が言った。
「敵には、高所の小屋が博望の見張りに見える」
「実際に人数を調べる者は、林の中にいる」
「そうだ」
「敵へ違うものを見せることになりません?」
「敵が勝手に見て、勝手に判断するだけだ」
「他人の誤解で苦しんでいる俺には、その言い方が刺さる……」
◆
見張りの動きを確認している途中だった。
高所の小屋から、合図が上がった。
北方に騎馬。
数は多くない。
以前に新野を見ていた者と同じ集団かは分からない。
「予定どおりに」
廖化が言った。
高所にいた二人が、重要な物を持って小屋を離れる。
二つある退路のうち、西側を使って下りた。
廖化と元賊の男は林の縁へ残り、敵の動きを確かめる。
関羽と赤兎馬は、博望の南側に待機。
張飛は林の奥へ下がった。
俺と単福は、南側の低い丘の陰へ移った。
そこから見えるのは、高所の古い小屋と、本道へ上がる道の一部だけである。
やがて、一騎が小屋へ向かって坂を上がった。
少し離れた場所で、別の騎馬が止まっている。
それ以上の動きは、俺の位置からは見えなかった。
「廖化たちは大丈夫でしょうか」
「敵を倒すために残したのではない」
単福は北を見たまま答える。
「見るべきものを見たら退く」
「それは分かっています」
「ならば待て」
「待つのが一番つらいんですよ!」
馬の姿が、小屋の前でしばらく止まる。
やがて坂を下りた。
遠くで蹄の音が重なる。
それも次第に北へ離れていった。
合図は上がらない。
戦いの音もない。
張飛は林の奥に残ったまま、珍しく飛び出してこなかった。
関羽と赤兎馬も姿を見せていない。
しばらく待った後、廖化たちが西の水路から戻ってきた。
全員いる。
「怪我は?」
「ありません」
「見つかった?」
「気づかれてはおりません」
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
廖化が、見た順に報告する。
「敵騎の一騎は、最初に高所の小屋へ上がりました」
「別の一騎は東の細道へ入り、道の先を確かめました」
「もう一騎は水場へ下りています」
「残る者たちは、本道の狭くなる場所で止まり、林と道幅を見ていました」
元賊の男が続ける。
「林の奥へは入りませんでした」
「こちらの足跡にも、気づいていないと思います」
「小屋を壊したり、火を放ったりは?」
「しておりません」
敵は小屋を見た。
東の道を見た。
水場と本道を確かめた。
だが、林に廖化たちがいたことは知らない。
関羽も張飛も見ていない。
赤兎馬も、新野側の人数も分からないまま帰った。
◆
「主力の位置も兵数も、敵には見られていない」
単福が報告を整理した。
「それはよかった」
俺は安心した。
「敵は、博望を南下路の候補から外さなかっただろう」
「外してもらった方がよかったんですけど!」
「高所に見張りはある」
「だが、本道も水場も使える」
「守りが厚いとも、薄いとも決められぬ」
「では、博望へ来ると決まったわけではない?」
「まだ候補の一つだ」
その言葉に、少しだけ安心する。
単福は続けた。
「だが、新野へ直接向かう道だけを見られるよりはよい」
正論だった。
新野には家がある。
倉がある。
井戸がある。
畑がある。
老人も、子供も、病人もいる。
避難してきた者も、まだ住む場所を整えている途中だ。
敵が南下してくるのなら、町から離れた博望を通る方が、まだましである。
「新野へ直接来るよりは、まだ……」
「それで十分だ」
単福が頷いた。
「何が十分なんですか」
「博望を、敵が調べる道の一つとして残す理由だ」
「俺の消極的な同意を、方針に変えないでください!」
◆
帰り道。
張飛が単福へ言った。
「俺を追撃へ出さぬ話ばかりだな」
「追撃させぬのではない」
「では何だ」
「追うべき時まで、追わせぬ」
「追ってよい時はあるのか」
「敵の退路が、北への一本だけになった時だ」
張飛の表情が変わった。
「その時は、止めぬのだな」
「北へ追い払う分にはな」
「敵が別の林や脇道へ入れば?」
「追うな。逆に誘われる」
張飛はしばらく単福を見た。
初めて、ただの口うるさい旅人を見る目ではなかった。
「二人で勝手に敵の退路を決めるな!」
俺が割って入る。
関羽も言った。
「追う時と退く時を、先に定めることは必要だ」
「関羽まで張飛を解放する側へ回るな!」
「兄者。解放するのではない」
「では何だ」
「用いる時を定める」
「言い方が変わっただけで怖い!」
◆
新野へ戻ると、甘氏と糜氏はすでに見張りの継続準備を始めていた。
見張りへ出る者の家族。
交代時刻。
戻らない場合の確認先。
食事を届ける者。
周辺住民へ危険を知らせる方法。
小屋の修理に使った材木。
水と食料。
合図に使う道具。
交代する者の名。
林の物見へ渡す木簡。
資材を運んだ荷車。
そして赤兎馬の待機と飼料。
「敵へ姿を見せていないのに、やっぱり勤務になってる!」
俺が木簡を指す。
「緊急連絡へ備えて待機した」
関羽が答えた。
「馬に待機手当を出す時代じゃないんだよ!」
糜氏が言う。
「飼料は必要です」
「手当が現物支給だった!」
赤兎馬が、当然の権利だと言わんばかりに飼葉へ顔を寄せた。
◆
県丞が、襄陽へ送る報告をまとめた。
博望周辺の本道、迂回路、水場を確認。
周辺住民の利用状況を記録。
高所の旧見張り小屋が県の管理物であることを確認し、新野の補修材で再使用。
敵接近時、高所の見張りは戦わず撤退。
実際の進路確認は別位置から行う。
敵騎が博望周辺を再確認。
新野側の主力と兵数は敵へ見せず。
敵騎は博望の本道、水場、東の細道を確認。
同方面を南下路の候補として調べている可能性あり。
無断追撃はしない。
「『敵を博望へ誘導した』とは書いていませんね?」
俺が尋ねる。
「書いておりません」
「『敵が博望方面を選ぶ可能性を高めた』とも?」
「書いておりません」
「よかった……」
「敵が博望を南下路の候補として調べている、とだけ記します」
ようやく事実だけになった。
単福が言う。
「いまは、それでよい」
「いまは?」
「候補のまま残すか、選ばせるかは、次に決める」
「次の仕事を自然に生やさないでください!」
正式な役職は増えていない。
俺は新野の県令でもない。
博望の守将でもない。
それなのに報告では、俺が新野から博望までの道を調べ、見張りの運用まで決めたことになっている。
また責任範囲だけが広がっていた。
◆
夜。
単福が、博望の地図を見ていた。
高所の見張り小屋。
林の物見。
西の乾いた水路。
東の細道。
新野へ戻る複数の道。
水場。
周辺住民が使う場所。
張飛が追撃を止める地点。
関羽が退路を守る位置。
俺が逃げ道を確かめるために書かせたものが、一枚の地図へ集まっている。
「博望は、まだ敵が調べている道の一つにすぎぬ」
「そのまま候補から外れてくれませんかね」
「外れれば、新野へ直接向かう道が選ばれるかもしれぬ」
「それは困る……」
張飛が地図を覗き込む。
「敵がこの道へ入れば、どこで止める」
「まだ止めるとは決めていない!」
関羽が林を指した。
「ここなら、敵の後ろを確かめられる」
「関羽まで配置を始めるな!」
単福が俺を見る。
「戦を避けるために、敵が町へ近づく前の道を調べた」
「そうです」
「敵が、その道へ来た時はどうする」
答えられなかった。
来ないでほしい。
本気で来ないでほしい。
だが、来た場合に逃げる道は、すでに確認してある。
見張りも置いた。
合図も決めた。
住民を離す手順もある。
関羽と張飛を置く場所まで、地図に書かれている。
「逃げ道を調べに行っただけなのに、戦場ができてるんだけど……」
単福が答えた。
「まだ戦場ではない」
俺は少し安心した。
「敵が来れば、戦場になる」
「安心を一息で返してください!」
単福の指が、博望の本道で止まる。
「敵が来るなら、北へ帰る理由を作らねばならぬ」
「帰り道を教えて、そのまま帰ってもらうのでは駄目ですか」
「敵は、何も得ずには退かぬ」
「では、何を渡すんですか」
単福は少し考えた。
「勝利だ」
俺は耳を疑った。
「敵に勝たせるんですか?」
「勝ったと思わせる」
「その勝ちを持たせて、北へ帰らせる」
敵に勝つ話ではない。
こちらが負けたと思わせる話だった。
それなら、少しだけ聞く気になった。
「……本当に負けて帰るだけで済むなら、詳しく聞きましょう」
単福が顔を上げる。
「玄徳殿は、負けることには迷いがないのだな」
「勝つ方が、後の仕事が増えそうですからね!」
単福は声を上げて笑った。
俺が安全に逃げるために調べた博望の地図には、いつの間にか、敵へ勝利を渡して追い返す方法まで書き加えられようとしていた。