劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第39話 見張り小屋陥落、負け戦を買った覚えはない

「敵へ、見張り所を追い払ったと思わせる」

 

 単福の指が、博望の地図に描かれた小さな四角の上で止まった。

 

 高所にある、県の古い見張り小屋だ。

 

「それだけで北へ帰りますか?」

 

「本隊でなければな」

 

 単福は、これまで北から現れた騎馬の動きを挙げた。

 

 村を襲っていない。

 

 商人の荷も奪っていない。

 

 調べているのは、道幅、水場、迂回路、新野側の反応。

 

 関羽と張飛の位置も探っているようだが、長く留まろうとはしていない。

 

「いま来ているのは、南へ軍を進めるための道を調べる者だろう」

 

「では、調べ終われば帰る?」

 

「必要なものを得ればな」

 

「なら、何も見せずに帰ってもらいましょう」

 

「何も得られなければ、より南へ進んで確かめようとする」

 

「どうして余計に働くんですか!」

 

「それが役目だからだ」

 

「敵まで真面目に仕事をしないでほしい!」

 

 俺は地図を睨んだ。

 

 敵が偵察を終えて帰るためには、上へ報告できる何かが必要らしい。

 

 単福は、それをこちらから用意しようとしている。

 

「見張りを追い払い、小屋へ入った」

 

「その事実だけを渡す」

 

「条件があります」

 

 俺は指を一本立てた。

 

「見張り役が捕まらない」

 

 二本目。

 

「怪我をしない」

 

 三本目。

 

「矢を射られない」

 

 さらに続ける。

 

「武器を奪われない」

 

「大事な記録を残さない」

 

「食料を取られない」

 

「小屋も、できれば壊されない」

 

 単福が答えた。

 

「最後のものは、敵が決める」

 

「では、壊されても困らない状態にしておきます!」

 

「敗北の準備としては、随分と前向きだな」

 

「勝つ準備より安全そうだからです!」

 

 張飛が腕を組んだ。

 

「兄貴は、なぜ負ける話だけ目が輝くのだ」

 

「負けても誰も死なないなら、その方がいいだろ!」

 

「戦わずに勝つ話ではないのか」

 

「負けて帰ってもらう話だ!」

 

「帰るのは敵だ」

 

「こっちも帰る!」

 

 単福が地図へ視線を戻した。

 

「敵にも、こちらにも、帰る理由が必要ということだ」

 

 それなら最初から、互いに家で寝ていればよいのに。

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 糜氏と県丞が、小屋へ置いてもよい物を並べた。

 

 少量の水。

 

 ひびの入った土器。

 

 擦り切れた敷物。

 

 交換予定の縄。

 

 燃料にもならないほどの小さな薪。

 

 そして、色あせた布が一枚。

 

「これは?」

 

「以前、県の見張りが交代や撤退を知らせるために使っていた合図布です」

 

 県丞が答える。

 

「文字や印は?」

 

「ありません」

 

「新野や俺の物だと分かるものは?」

 

「ございません」

 

 張飛が言った。

 

「劉の旗を立てればよい。奪えば、敵も喜ぶぞ」

 

「絶対に駄目だ!」

 

 俺は即座に拒否した。

 

「なぜだ」

 

「俺の旗を奪われたら、俺が負けたことになるだろ!」

 

「負けさせる策ではなかったのか」

 

「形だけだ!」

 

 それに劉備の旗を立てれば、博望へ正式に軍を進めた証拠になりかねない。

 

 襄陽から、勝手な軍事行動と見られる。

 

 敵には、劉備の旗を奪ったと宣伝される。

 

 そもそも、俺の旗など新しく作れば仕事が増える。

 

「この合図布は、交換する予定だった物です」

 

 糜氏が言った。

 

「県の記録へ使用と損失を残せば、問題ありません」

 

「奪われても、俺が負けた証拠にはならない?」

 

「玄徳様個人の物ではございません」

 

「それなら安心です!」

 

 単福が合図布を見る。

 

「敵には、見張り所の印に見える」

 

「こちらには、交換予定の布」

 

「双方で価値が違うわけですね」

 

「そなたの周囲では、よくあることだろう」

 

「急に俺の人生を刺さないでください!」

 

 敵には戦果。

 

 こちらには廃棄寸前の備品。

 

 これほど平和な取引があるだろうか。

 

 できれば敵にも、交換予定だったことを知らせておきたい。

 

 ◆

 

「見張り役は二人」

 

 単福が候補者を見る。

 

「足が速く、博望の退路を知り、敵を見ても命令どおり退ける者がよい」

 

 選ばれたのは、前回も博望の道を調べた元御者と、廖化の配下にいる若者だった。

 

 元御者は北の荷道を知っている。

 

 若者は足が速く、以前にも物見の補助をしている。

 

 甘氏が、二人の家族記録を確かめた。

 

「元御者殿は妻と二人のお子がおられます」

 

「若者殿は一人身ですが、同じ家に負傷した仲間が住んでおります」

 

「出せませんか?」

 

「お二人とも、今日の生活に支障はありません」

 

 少しだけ安心したところで、甘氏が続けた。

 

「ただし、戻られなかった場合、誰がどこへ知らせるかは決めておきます」

 

「戻らない場合の話は、しないでください」

 

「決めておかなければ、帰りを待つ方々が勝手に探しに出ます」

 

 俺は黙った。

 

 単福も頷く。

 

「その方が危険だ」

 

「……では、決めましょう」

 

 帰還予定の時刻。

 

 合流場所。

 

 予定の時刻を過ぎた場合、いつまで待つか。

 

 誰が確認へ出るか。

 

 家族や同居人へ誰が知らせるか。

 

 捜索する場合も、一人では出ない。

 

 決めれば決めるほど、仕事が増えていく。

 

 だが決めなければ、誰かが勝手に博望へ走り、遭難者が二人から四人になるかもしれない。

 

「見張り役を使い捨てにはせぬのだな」

 

 単福が言った。

 

「後から人数が増える方が困るだけです!」

 

「そうか」

 

「その納得した顔をやめてください!」

 

 ◆

 

 張飛が自分の胸を叩いた。

 

「逃げる役なら、俺がよい」

 

「絶対に駄目だ!」

 

「なぜだ」

 

「逃げるように見えないからだ!」

 

「背を向けて走れば、逃走であろう」

 

 単福が首を横へ振った。

 

「張飛殿が走れば、敵には突撃するため距離を取ったように見える」

 

「ならば、もっと速く走る」

 

「速さの問題ではない!」

 

 関羽も適任ではなかった。

 

 関羽と赤兎馬が敵前から退けば、敵は関羽を追い払ったという大きな成果を得る。

 

 さらに欲を出し、関羽の首や赤兎馬まで求めて追ってくるかもしれない。

 

「敵へ与える勝利は、小さくなければならぬ」

 

 単福が言った。

 

「勝たせすぎると?」

 

「次も同じだけ欲しがる」

 

「敵へ渡す勝利にも上限があるの?」

 

「大勝させれば、さらに大きな勝利を求める」

 

「勝たせるのも面倒だな!」

 

 関羽は、赤兎馬の首を撫でた。

 

「友を、敵の戦果に数えさせるわけにはいかぬ」

 

「それは本当にそうだな」

 

 俺と関羽の意見が、珍しく一度で一致した。

 

 赤兎馬も鼻を鳴らす。

 

 自分が合図布一枚と同じ扱いをされなかったことに、満足しているようだった。

 

 ◆

 

 手順は、できるだけ少なくした。

 

 高所の見張り小屋には、元御者と若者。

 

 置いておくのは、旧式の合図布、水、古い敷物、ひびの入った土器、交換予定の縄だけ。

 

 敵が決めた距離まで近づいたら、合図を出す。

 

 合図の後は、重要な物だけを持ち、西側の坂から退く。

 

 合図布も小屋も捨てる。

 

 林の縁には、廖化と元賊の男。

 

 敵の人数と進路を見る。

 

 見張り役が追われた場合は、敵との距離を確認する。

 

 見つかりそうなら、観察をやめて逃げる。

 

 南側には関羽と赤兎馬。

 

 見張り役が本当に追いつかれそうになった場合だけ姿を見せる。

 

 林の奥には張飛。

 

 敵が小屋へ入っても動かない。

 

 合図布を奪っても動かない。

 

 敵が背を向けても、命令がなければ追わない。

 

「俺の役目は何だ」

 

 張飛が尋ねた。

 

「何もしないことだ」

 

「最も難しい役ではないか」

 

「だからお前に任せるのが一番不安なんだよ!」

 

 単福が張飛へ言った。

 

「見張り役が捕まりそうになった場合、まず関羽殿が動く」

 

「張飛殿は、その後だ」

 

「なぜ俺が後なのだ」

 

「そなたが先に出れば、敵は見張り役を捨てて逃げる」

 

「それでよいではないか」

 

「張飛殿が博望にいると、敵へ教えることになる」

 

 俺も頷いた。

 

「敵を逃がすために、お前の情報まで渡す必要はない!」

 

「俺は、合図布より価値が高いのだな」

 

「比較するな!」

 

 ◆

 

 出発前。

 

 俺は元御者と若者を前に座らせた。

 

「小屋を守らなくてよい」

 

「合図布も守らなくてよい」

 

「敵を数えようとして残りすぎない」

 

「敵が弓を構えたら、決めた距離を待たずに逃げてよい」

 

 単福が横から言う。

 

「敵から見えぬうちに逃げれば、追い払った成果にはならぬ」

 

「命の方が大事でしょう!」

 

「敵に見えぬなら、小屋を使っていたかも分からぬ」

 

「では、敵がこちらを見たらすぐ逃げる!」

 

「見たかどうかを、どう確かめる」

 

「面倒な敗北だな!」

 

 条件を詰め直した。

 

 敵の先頭が小屋を確認できる距離まで待つ。

 

 ただし弓を構えたら、すぐに退く。

 

 騎馬が予想より速く近づいた場合も同じ。

 

 合図を出した後は、敵の人数を数えない。

 

 荷物は捨ててよい。

 

 振り返らない。

 

 水路へ入った後も、二人で離れない。

 

 元御者が尋ねた。

 

「一度も刃を交えず、逃げてよろしいのですか」

 

「そのために行ってもらうんです」

 

 若者が少し迷ってから口を開いた。

 

「戻れば、逃げた者と呼ばれませんか」

 

 俺は答えるまでに少し時間がかかった。

 

 俺が命じたとはいえ、敵を前に小屋を捨てるのだ。

 

 事情を知らない者には、臆病に見えるかもしれない。

 

「俺が逃げろと命じます」

 

 二人が俺を見る。

 

「勝手に逃げたことにはさせません」

 

「小屋を捨てるのも、布を残すのも、俺の命令です」

 

「責任は、命じた俺にあります」

 

 命令どおり逃げた者を後から処罰すれば、次から誰も撤退命令を信用しなくなる。

 

 俺が逃げろと叫んでも、処罰を恐れて敵前に残られては困る。

 

 甘氏が二人へ言った。

 

「戻られましたら、最初に私のところへお越しください」

 

「お名前と怪我の有無を確認いたします」

 

 元御者と若者は、そろって頭を下げた。

 

 なぜか出発前よりも、覚悟の決まった顔をしている。

 

 逃げるだけなのに。

 

 ◆

 

 見張りの運用を始めた。

 

 だが、一日目は何も起こらなかった。

 

 二日目も、北方に騎馬は見えない。

 

 張飛が退屈し始めた。

 

「敵はいつ来る」

 

「来ない方がよいだろ!」

 

「来ぬなら、俺は何もしなくてよいのか」

 

「もともと何もしない役だ!」

 

 単福は、敵が遠くからこちらの見張り交代を確かめている可能性を指摘した。

 

 毎日同じ者を、同じ時刻に送れば、交代の隙を狙われる。

 

 だからといって複雑に変えれば、こちらが間違える。

 

 見張り役は二組。

 

 交代は朝と昼。

 

 林側の物見だけ、行き帰りの道を日によって変える。

 

 その程度に留めた。

 

 糜氏は毎日の水と食料を記録した。

 

「まだ敵も来ていないのに、食料だけ減っている」

 

「見張りとは、敵が来なくとも必要なものです」

 

「仕事として一番つらい種類だ……」

 

 何も起こらない。

 

 成果も見えない。

 

 それでも人と食料と飼葉は必要になる。

 

 しかも赤兎馬の飼料は、見張り役二人の食料より多かった。

 

「どうして敵より先に、馬が兵糧を削ってくるんだ」

 

 関羽が答えた。

 

「友は、今日も緊急に備えている」

 

「まだ出番もないのに?」

 

「備えとは、出番の前に行うものだ」

 

 正論が飼葉を食べていた。

 

 ◆

 

 数日後。

 

 博望から伝令が駆け込んできた。

 

「北方より、騎馬!」

 

 俺は立ち上がる。

 

「何騎ですか?」

 

「前回より多くおります!」

 

「その後ろにも、徒歩の者らしき影が!」

 

 正確な人数までは分からない。

 

 だが、以前の騎馬だけの物見より、明らかに多い。

 

 本隊と呼ぶほどではない。

 

 それでも、小屋一つを調べるには多すぎる。

 

「予定どおりに動く」

 

 単福が立ち上がった。

 

「予定を中止して、新野へ戻る案は?」

 

「敵はすでに博望へ向かっている」

 

「では、小屋を捨てて全員戻る!」

 

「それでは敵が、さらに南へ進んで確かめる」

 

「どうして負けるために残らなきゃいけないんですか!」

 

 ◆

 

 俺たちは、それぞれ決めた場所へ入った。

 

 俺と単福は、博望南側の低い丘の陰。

 

 関羽と赤兎馬は、その少し後ろ。

 

 張飛は林の奥。

 

 廖化たちは林の縁。

 

 高所の小屋には、元御者と若者がいる。

 

 北から、薄い土煙が近づいてくる。

 

 俺の位置から敵の人数は分からない。

 

 見えるのは、高所の小屋と、そこへ続く道の一部だけだ。

 

「見張り役は、もう逃げましたか?」

 

「まだだ」

 

 単福が答える。

 

「早く逃げた方がよくない?」

 

「敵から、まだ見えていない」

 

「見えるまで残る必要があるんですか」

 

「自分たちの接近で見張りを退かせたと思わねば、成果にならぬ」

 

「安全に負けるのにも演出が必要なの?」

 

「勝利より、敗北を偽る方が難しいこともある」

 

「本当に負ける方が簡単じゃないですか」

 

「本当に負ければ、人も物も失う」

 

「では、偽物でお願いします!」

 

 遠くに騎馬の姿が現れた。

 

 一騎。

 

 その後ろにもいる。

 

 さらに道の奥で、人の影が動いている。

 

 高所の小屋から合図が上がった。

 

 元御者と若者が、敵を確認したのだ。

 

 合図の後、二人が小屋を出る。

 

 西側の坂へ向かって走った。

 

 敵からも見える。

 

 騎馬の一騎が速度を上げた。

 

「追ってきた!」

 

 俺の喉が詰まる。

 

 単福は坂の下を見ている。

 

「まだ見張り役の方が速い」

 

「馬ですよ!」

 

「道は人のために払ってある」

 

 騎馬は速い。

 

 だが坂を真っ直ぐ下りられるわけではない。

 

 二人は、前もって草を払った狭い道を走っている。

 

 張飛が林の奥で槍を握った。

 

「まだか」

 

 低い声が聞こえた。

 

「まだだ」

 

 単福が答える。

 

「もう関羽を出した方がよくないですか」

 

「二人はまだ追いつかれていない」

 

 関羽は赤兎馬の手綱を握ったまま、坂の下を見ている。

 

 赤兎馬の耳が前を向いていた。

 

 元御者と若者が、乾いた水路へ飛び込んだ。

 

 敵騎は水路の入口まで追った。

 

 その先は狭い。

 

 馬が並んでは走れない。

 

 一騎だけで入れば、何が待っているか分からない。

 

 騎馬は入口で止まった。

 

 しばらく水路の奥を見た後、向きを変える。

 

 小屋の方へ戻っていった。

 

「戻った……」

 

 俺は大きく息を吐いた。

 

 だが二人の姿は、まだ見えない。

 

「元御者と若者は?」

 

「水路を抜ければ、南の合流場所へ出る」

 

「本当に?」

 

「そのために道を調べたのであろう」

 

 逃げ道を調べた過去の俺に、初めて心から感謝した。

 

 ◆

 

 元御者と若者が、南の合流場所へ戻ってきた。

 

 甘氏が真っ先に二人の前へ進む。

 

「元御者殿」

 

「おります」

 

「若者殿」

 

「おります」

 

「怪我は?」

 

「ございません」

 

 二人とも泥にまみれていた。

 

 息も切れている。

 

 だが血は流していない。

 

「本当に怪我はない?」

 

「はい」

 

「矢は?」

 

「射られておりません」

 

「落とした物は?」

 

「水を入れた袋だけです」

 

「それはいい。水なんか、また汲めます!」

 

 俺はその場へ座り込みそうになった。

 

 敵に見せる敗北より、二人が帰るまでの方が、よほど心臓に悪い。

 

 ◆

 

 敵が小屋の中で何をしたかは、俺の位置からは見えなかった。

 

 敵が北へ動き始めた後、廖化と元賊の男が戻ってきた。

 

 廖化が、見た順に報告する。

 

「敵は、まず小屋の周囲を確認しました」

 

「林へ深く入った者はおりません」

 

「小屋へ入った者が、旧式の合図布を外しました」

 

「持っていったのですか?」

 

「はい」

 

「水と敷物、土器も調べています」

 

「土器の中や、敷物の下も見ておりました」

 

「何か見つけましたか」

 

「何も」

 

 重要な記録はない。

 

 武器もない。

 

 食料もない。

 

 あるのは、ひびの入った土器と古い縄だけだ。

 

「敵は、小屋の柱へ炭で印を残しました」

 

「どんな印ですか」

 

「形は写してあります」

 

「小屋を焼いたり、壊したりは?」

 

「しておりません」

 

 よかった。

 

 県の小屋を焼かれれば、また修理費が発生するところだった。

 

「その後、敵は本道と南側をしばらく見ております」

 

「新野の方へ進みましたか」

 

「いいえ」

 

「別の斥候を出した様子もありません」

 

「北へ戻り始めました」

 

 敵が得たものは、博望の見張りを追い払い、合図布を奪ったという事実だけ。

 

 捕虜はいない。

 

 死者も負傷者もいない。

 

 武器も食料も重要な記録も得ていない。

 

 新野側の人数も分からない。

 

 関羽も張飛も、赤兎馬も見せていない。

 

「敵へ渡したのは、小さな勝利だけだ」

 

 単福が言った。

 

「交換予定でも、県の物ですからね!」

 

「帳簿上は損失になるだろう」

 

「負け戦まで損失の記録が必要なの?」

 

 ◆

 

 敵部隊が北へ動き始める。

 

 張飛が林から前へ出ようとした。

 

「いまなら背を討てる」

 

「待て」

 

 単福が止める。

 

「まだ、敵の退路は北への一本ではない」

 

 東の細道へ入る可能性がある。

 

 林の奥に別の部隊が残っている可能性もある。

 

「追えば、敵が残した別働隊へ入るかもしれぬ」

 

 張飛は槍を握ったまま、敵の背を見た。

 

 動かない。

 

 俺は驚いた。

 

「本当に止まった……」

 

 張飛が単福を見る。

 

「追うべき時まで、追わせぬのであろう」

 

「今回は、その時ではない」

 

「ならば追わぬ」

 

 悔しそうではある。

 

 だが一歩も前へ出ない。

 

 単福も大げさには褒めなかった。

 

「それでよい」

 

 関羽が赤兎馬の手綱を少し緩める。

 

 赤兎馬も前へ出なかった。

 

 張飛と赤兎馬の両方が待機できた。

 

 もしかすると今日一番の成果は、それかもしれない。

 

 ◆

 

 廖化たちは敵を追撃しなかった。

 

 離れた場所から、進路だけを確認した。

 

 東の細道へ分かれない。

 

 水場へ戻らない。

 

 小屋へ兵を残さない。

 

 新野方向へ別の斥候を出さない。

 

 そのまま北へ向かう。

 

 確認すると、すぐに戻ってきた。

 

「全員戻りましたか」

 

「はい」

 

「怪我人は?」

 

「おりません」

 

「敵は北へ?」

 

「戻りました」

 

「小屋へ入っただけで?」

 

「はい」

 

 古い合図布一枚。

 

 ひびの入った土器。

 

 古い敷物。

 

 交換予定の縄。

 

 小屋へ一度入られただけ。

 

 これほど安い敗北があるだろうか。

 

「誰も死なずに、本当に帰ってくれた……」

 

 単福が俺を見る。

 

「目先の面目より、人と町を守ることを選んだのだな」

 

「損が増える前に帰ってくれて喜んでるだけです!」

 

 ◆

 

 新野へ戻ると、元御者と若者は、周囲の視線を気にしていた。

 

 敵を見て逃げた。

 

 小屋を捨てた。

 

 合図布も残した。

 

 事情を知らない者には、臆病に見えるかもしれない。

 

 県丞が記録木簡を読み上げた。

 

「敵接近を確認」

 

「命令に従い合図」

 

「定められた退路より撤収」

 

「二名とも帰還」

 

「見張りの目的を達成」

 

 俺も、集まった者たちの前へ出た。

 

「二人は逃げたのではありません」

 

 元御者と若者が顔を上げる。

 

「俺が退けと命じました」

 

「小屋を捨てたのも、合図布を残したのも命令です」

 

「二人が無事に戻ったから、敵の動きも確認できました」

 

 元御者が尋ねた。

 

「本当に、咎めはないのでしょうか」

 

「命令どおりに戻った人を咎めたら、次から誰も逃げてくれないでしょう!」

 

 思わず本音が出た。

 

 しかし周囲は静かだった。

 

 廖化の配下の一人が、小さく呟く。

 

「玄徳様の命なら、退くことも役目になるのか」

 

 別の男が答えた。

 

「戻って、見たことを伝えるまでが役目なのだろう」

 

 新野へ来た者の中には、過去の戦で逃げた者も多い。

 

 黄巾軍が崩れた時に逃げた者。

 

 山賊から逃げた者。

 

 兵役から脱走した者。

 

 荷や武器を捨てて生き延びた者。

 

 逃げたことを恥として、口にしない者もいる。

 

 だが俺は、逃げろと命じた。

 

 小屋も道具も捨ててよいと言った。

 

 戻った二人を処罰しなかった。

 

 命令を守ったと記録へ残した。

 

「今後も、退けという命令が出たら退いてください」

 

「勝手に戦い続けないでください」

 

「戻って報告してください」

 

「生きて戻らないと、次の仕事を頼めませんから!」

 

 仕事という言葉を出した途端、少しだけ空気が緩んだ。

 

 元御者と若者は、もう一度深く頭を下げた。

 

 なぜか、見張り小屋を守り切った者のような顔をしている。

 

 守っていないのに。

 

 ◆

 

 糜氏が、今回の損失を記録した。

 

 県の旧式合図布一枚。

 

 ひびの入った土器一つ。

 

 古い敷物一枚。

 

 交換予定の縄。

 

 小屋へ置いた水。

 

 見張り役の食料。

 

 伝令と物見の食料。

 

 赤兎馬の待機飼料。

 

 張飛が言った。

 

「敵を倒していないのに、兄貴は勝ったような顔をしているな」

 

「誰も死なずに敵が帰ったんだぞ。大勝利だよ!」

 

 単福が答えた。

 

「敵も勝ったと思っている」

 

「両方勝ったなら、もう戦わなくてよくない?」

 

「互いに違う勝利を得ただけだ」

 

「では、これで終わりにしましょう!」

 

 糜氏が木簡を俺へ見せる。

 

「旧式とはいえ、県の物です。損失として記録いたします」

 

「交換予定だったのに?」

 

「交換前は、まだ県の所有物です」

 

「負け戦にも損失の記録がある……」

 

 俺はその下を見る。

 

「どうして赤兎馬の飼料まで入っているんですか」

 

 関羽が答えた。

 

「姿を見せぬことが、今日の役目だった」

 

「一度も動いてないでしょう!」

 

「動かず待つことも役目だ」

 

「見えない勤務の方が高くついてる!」

 

 赤兎馬は、こちらを見ようともせず飼葉を食べ続けていた。

 

 ◆

 

 敵が小屋の柱へ残した印は、炭で描かれた簡単なものだった。

 

 張飛が布を持って立ち上がる。

 

「消してくる」

 

「待て」

 

 単福が止めた。

 

「なぜだ」

 

「次に誰が、その印を見に来るかを確かめる」

 

「敵同士の連絡へ使われるぞ」

 

「だからこそ、次の者が同じ印を使うか分かる」

 

「また印を使って人を呼ぶ仕事が始まるんですか?」

 

 印の意味は分からない。

 

 ここまで確認した印。

 

 小屋を一時占めた印。

 

 水場が使えるという印。

 

 後続へ進路を示す印。

 

 単なる部隊の記号かもしれない。

 

 意味が分からないものを、意味があると決めつけるわけにもいかない。

 

 印の形と大きさ。

 

 柱のどの位置に描かれたか。

 

 小屋の入口から見えるか。

 

 本道から見えるか。

 

 それだけを木簡へ写した。

 

「小屋は県の物のままです」

 

 俺は念を押す。

 

「敵に渡したわけではありません」

 

「敵が一度入っただけだ」

 

「高所の小屋はしばらく使わない」

 

「林側の物見は続ける」

 

「次に敵が来た時、印を確認するかだけを見る」

 

 また仕事が一つ増えた。

 

 合図布一枚で敵を帰した代わりに、炭の印一つが残った。

 

 帳簿上の釣り合いは取れていない気がする。

 

 ◆

 

 県丞が、襄陽へ送る報告をまとめた。

 

 敵の小部隊が博望へ接近。

 

 高所の見張りは、事前命令に従い撤収。

 

 死者、負傷者、捕虜なし。

 

 敵は旧式合図布を持ち去った。

 

 小屋を一時確認し、柱へ印を残した。

 

 新野側の兵数、関羽、張飛、赤兎馬の位置は見せず。

 

 敵は新野方向へ進まず、北へ戻った。

 

 林側の物見は、敵の帰路まで確認。

 

 高所の小屋は一時使用停止。

 

 林側からの警戒は継続。

 

「これは、見張り所を失ったことになりますか?」

 

 俺が尋ねる。

 

「敵が一時的に入りました」

 

「では、敗北?」

 

「小屋の守備を命じられていたならば、そうなります」

 

「見張りを置けとしか言われていません!」

 

 単福が言った。

 

「敵を発見した」

 

「行動を確認した」

 

「北へ帰るまで見届けた」

 

「見張りの役目は果たしている」

 

 県丞が、報告の表題を読み上げた。

 

「『博望旧見張り所における敵部隊接近および計画撤収』」

 

「計画撤収なら、敗北ではない?」

 

 俺は少しうれしくなった。

 

 県丞が続ける。

 

「敵へ限定的な前進成果を与え、新野方面への追加接近を避けた可能性あり――」

 

「それは断定するな」

 

 単福が止めた。

 

「敵は偵察を終え、北へ戻った」

 

「事実はそれだけだ」

 

 俺は単福を見る。

 

「珍しく、俺を軍略家にしませんでしたね」

 

「敵が、こちらの思いどおりに動いたとは限らぬ」

 

「そういう慎重さを、普段から俺への評価にも使ってください!」

 

 ◆

 

 夜の軍議。

 

 博望の地図へ、新しい線が加えられた。

 

 敵が進んだ道。

 

 元御者と若者が退いた道。

 

 敵騎が追撃を止めた水路の入口。

 

 敵が小屋へ入った時刻。

 

 印を残した柱。

 

 敵が北へ戻った道。

 

 単福が言った。

 

「敵は、博望の見張りを追い払ったと思っている」

 

「こちらは、敵がどこまで追い、どこで止まるかを知った」

 

「互いに得るものがあった」

 

「なら、これで終わりませんか?」

 

「次は、もう少し大きな部隊が来る可能性がある」

 

「どうして!」

 

「小さな部隊で博望へ入れた」

 

「見張りを退かせた」

 

「関羽殿も張飛殿も出てこなかった」

 

「さらに南へ進めると考える者もいるだろう」

 

 俺の顔から血の気が引く。

 

「勝たせて帰せば終わると言ったでしょう!」

 

「今回は帰った」

 

「次は、より大きな成果を求めるかもしれぬ」

 

「話が違う!」

 

 単福は博望の本道を指した。

 

「だから次は、勝ったと思った場所より南へ進ませぬ」

 

「どうやって?」

 

「敵が得る勝利を、少しずつ北へ戻す」

 

 意味が分からない。

 

 単福は地図の北側へ指を動かした。

 

「次に来た敵へ、博望より北で別の成果を与える」

 

「敵は前回より南へ進めなかったが、何かを得て戻る」

 

「それを重ねれば、敵が勝ったと思う場所だけが北へ下がる」

 

「負け続けながら、敵を押し戻すんですか?」

 

「負ける場所を、こちらが選ぶ」

 

「負け方を覚えただけなのに、戦線を動かしたことになってるんだけど……」

 

「負ける場所を選べる者は、戦う場所も選べる」

 

「そんな能力はいらない!」

 

 張飛が地図を覗く。

 

「次は何を敵へ渡す」

 

 糜氏が即座に答えた。

 

「これ以上、勝手に県の物を渡されては困ります」

 

「もう帳簿に止められた!」

 

 敵より先に、糜氏の帳簿が俺たちの進路を塞いでいた。

 

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