プロローグ
霧の都、グレイフォード。ガス灯の光が霧に滲む深夜の倉庫街に、荒く息を吐く人影があった。
「開けろ!【ドグラ】!」
敷き詰められた石畳に穴が開き、彼はそこから薄汚れた鞄を取り出した。
「チクショウ、こんなところで捕まってたまるか…!」
乾いた土のような腕で乱暴に汗を拭い、周囲に人がいないことを確認した彼は必死に考えて結論を出した。
「下水道からグレイフォードの外に出れば…!」
「それはあまりにも短絡的じゃないかな?」
急にかけられた声に振り返るとそこには鹿撃ち帽にケープコートの少女がいた。
「異能探偵…!」
「キミみたいなのにも知られているとは、ずいぶん有名になったね」
「何故ここがわかった!?」
「証拠を辿れば簡単にわかったよ」
ジリジリと後退する彼とは対照的に、少女は靴音を鳴らしながら彼に迫る。
「連続強盗犯マルコ・ロッシ。精霊の力を悪用し、西区の宝石店を襲ったことでキミには逮捕状が出ている。大人しく投降するのをおすすめするよ」
「…誰がぁ!撃て!【ドグラ】!」
精霊──伝承や神話に語られる幻想の名を持つ超常の存在──と契約を交わして手にした彼の異能に従い、盛り上がった大地から硬く固められた土が少女に撃ち出される。
轟音と共に土煙が上がる。水路方面へ駆け出したマルコの脚を止めたのは聞こえるはずのない声だった。
「ジェーンさん、一人で先に行かないでください」
「ごめんね?キミなら間に合うと思って」
「はあ…」
土煙が晴れると少女の前に盾のように剣を構えた素朴な少年がいた。
「お、お前も契約者か!?」
「そう、簡単に逃げられるとは思わないでね?」
抱えていた鞄を投げ捨てたマルコは地面に手をついて叫ぶ。
「まだ、まだだぁ!暴れろ!アイツらを殺せ!【ドグラ】!」
背後から盛り上がった土が人の形をとる。土の巨人は声もなく叫び、丸太のような腕を高く持ち上げた。
「いける?」
「いけます。【カーネリオン】!」
巨人と少年が踏み出すのは同時だった。
圧倒的な歩幅で距離を詰めた巨人が振り下ろした腕と長剣が交錯し、土煙が上がる。
石畳を砕きながら腕を振り回す巨人と響く金属同士の衝突音から逃げ出すようにまたマルコが駆け出す。
「あんな怪物の相手できるか…!」
「怪物はお互い様じゃないかな?」
進行方向に立ち塞がる探偵の少女に笑みをこぼし、マルコはさらに加速する。
「どきやがれ!」
「これも仕事だからね」
女相手なら負けるはずがない。
振り上げた腕はフェイント、本命は土と石の装甲で覆われた右脚だった。
胴体めがけて足を振るった瞬間、右脚を覆っていた土が崩れ落ちた。
いきなり足が軽くなったことでバランスを崩し、少女はガラ空きの左足を軽く払う。
たったそれだけでマルコは転倒し、転んだマルコの腕を掴んだ少女はそのまま地面に押さえつける。
「クソッ、【ドグラ】!おい【ドグラ】!答えろ!」
「ただの人間に、精霊は応えないよ」
柔らかい人の腕に力を込め、異能の使えなくなった彼はそれでも叫ぶ。警察が来るまでの間、倉庫街にはただ虚しく声が響いていた。
〜〜〜〜〜〜
警察にマルコを引き渡した少年少女は帰路を歩く。
「ジャン君、もっと早く巨人を倒せても良かったんじゃない?」
「アレ、切っても再生したんですよね…おかげで倒す前に解除されちゃいました」
「それなら仕方ないか。次もよろしくね?」
「次なんて…」
一瞬否定しようとしてすぐに言葉が止む。
霧と事件の都に探偵が休む暇などあまりないことを彼は短い期間でよくわかっていた。
「次こそは倒しきってみせます」
ただの旅行者だった彼、ジャン・ボイルがこうして事件に巻き込まれるようになったのはまだほんの一カ月前のことだった。