パン泥棒を捕まえてから二日、僕は昼下がりの事務所で手話の練習をしていた。
「『おはよう』『こんにちは』『ありがとう』」
「そうそう、港のあたりでは簡略化して…こう、片手で表すこともあるよ」
「なるほど…で、これが『さようなら』」
「…うん、西区なら伝わると思うよ。
「なんで!?」
教わった通りにしているつもりなのだが…
「ここの動きが大きいと煽りになっちゃうんだよね」
「ええっと、こうですか?」
「それだと『二度と顔見せんな』だね」
「え、」
修正して見せても首を横に振られるだけだった。
「
事務所の扉を叩く控えめな音に揃って立ち上がる。
軽く身支度を整えて扉を開けると、水色のブラウスを着た女性が微笑んで待っていた。
〜〜〜〜〜〜
「ノーラ・グレインよ、いきなりごめんなさいね」
「いえいえ、お気になさらず。ジャン君、お茶を…コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「いいの?だったら紅茶を頼めるかしら」
「わかりました、少々お待ちください」
応接間を出て、キッチンの戸棚からポットと茶葉を取り出し、水を入れたヤカンを火にかける。
教わった通りの手順でポットにお湯を注ぎ、蓋をする。
トレーに人数分のカップとポットを乗せて部屋に入れば、ちょうど本題に入ったところだった。
「人探し、ですか?」
「ええ…これを見て欲しいの」
そう言って依頼人は何かを包んだハンカチを取り出した。
「失礼します…懐中時計、ですね」
「これがウチの店の裏口のところに落ちてたの」
「失礼ですがどこの…」
「東5番通りの『カフェ・ブリックレーン』よ。あなたたちも来てくれればおまけしちゃうわ」
トレーをテーブルに置いていた手が止まる。
恐る恐るジェーンさんを見ると同情の目で見られた。
とても本職に出せるような茶ではないがもうここまで来れば出す以外の道はない。
「これの持ち主を探して欲しいの」
「警察に届ける、というのもできたと思うのですが…」
「それも考えたのよ?けれど…」
そこで彼女は口ごもった。
「一昨年のアレを考えるとねえ…」
「ああ、それは…」
「そう、みんながみんなそうじゃないっていうのは知ってるつもりだけど…警察に持っていくのはちょっと、ねえ?」
同意を求めるような口ぶりだが何のことだかわからない。
首を傾げそうになるのをどうにか耐えてジェーンさんを見る。
「わかりました、『霧鴉探偵事務所』にお任せください!」
〜〜〜〜〜〜
依頼人はしばしの雑談の後、用事を思い出したらしく慌てて帰って行った。
中身の残ったままのカップをトレーに乗せて立ち上がるとジェーンさんが揶揄うように話しかけた。
「まさか本職に出すことになるとはねえ…」
「蒸らし時間とかのアドバイスはもらいました…カップとか洗ってきます」
流し台の乾燥台にカップやポットを置いて部屋に戻るとジェーンさんは預かった懐中時計をいじっていた。
「故郷じゃ使ってる人なんていなかったのにこっちだと持ってる人ばかりでびっくりしました」
「北の方だっけ、ここは工場があるから運送の手間が少ない分安いんだよね。うーん…」
「何かわかりますか?」
「もちろん家紋みたいな情報はなし。オーダーメイドみたいな高級品じゃないかな」
日に翳して見れば細かい傷が目立った。
「傷の付き方を見るになかなかの年季物、だけど丁寧に手入れされてるね」
「家族の形見、とかでしょうか」
「大切にされてたっぽいしそうかも。ここ、回してみて」
渡された懐中時計のネジを恐る恐る回してみれば何度回しても重くならない。
「本来なら2、30回で重くなるんだけどね」
「壊れてますね…」
「多分。詳細は時計屋に持って行くしかないかな」
ある程度確認を終え、ハンカチに包み直して返す。
「明日、南区の時計屋に行って見てもらおう」
「わかりました、準備しておきますね」
そうと決まれば話が早い。明日やるつもりだった仕事を片付けるべく袖を捲った。
〜〜〜〜〜〜
乗合馬車を乗り継ぎ、黒い煙を吐く煙突に囲まれた工業地帯を越えて、僕たちは南区の中でも西寄りの商店街にいた。
「南区は工場が固まって存在しててね。大手でも個人経営でも腕のいい職人がいっぱいいるんだ」
「へえ…」
ヤカンやフライパンの並べられた金物屋からショーウィンドウに精巧な細工を掘り込んだアクセサリーを飾る宝石店まで様々な店が一面に並んでいた。
「こっちは貴族向けの高級店だから…こっちにしよっか。お邪魔しまーす」
「あ、待ってください!」
カランカラン
「『霧鴉探偵事務所』の者です」
「探偵?ウチに何か?」
柱時計の振り子が揺れる音や歯車の回る音の響く店内、カウンターに座ったルーペを付けた男が訝しげに睨んできた。
カバンからハンカチに包んだ懐中時計を取り出し、事情を説明する。
「これの持ち主を探してて…専門の方なら私たちには気付けないことにも気づけるんじゃないかと」
「ふん、見せてみろ」
彼は作業用のルーペをかけて懐中時計を覗き込んだ。
「ふむ…古いモデルだな、40年ぐらい前に量産されてたのだ」
外装を眺めた後、中身の歯車機構を確認する。
「こっちは交換されてる。新品を買った方が安上がりだろうに…」
「量産品の価格って…」
「せいぜい2ポンドぐらいだ。修理の場合は…ここまで部品を交換してるとなると全部合わせて5ポンドはかかるな」
「思ったよりは安い…けどだったら買ったほうが安い」
正直な感想に苦笑した彼は歯車の隙間を覗き込んで軽く嘆息した。
「ああ、ここが壊れたか…」
「どこです?」
「ここの歯車だ。これは10年前に生産終了してる」
ごくありふれた小さな歯車にしか見えないが、それがなくなるだけで時計が動かなくなってしまうらしい。
「時計ってすごいですね…」
「ハッ、褒めるならコイツの持ち主にしてやれ。こんな安物を使い続けてるんだ、相当の思い入れがあるんだろ」
外装を軽く拭いて返却された。
「ありがとうございます。代金は…」
「この程度、仕事をしたうちにならん。客じゃないならさっさと出てけ」
「…わかりました、ありがとうございます!」
「次は客として来ます!」
並んで頭を下げて店を出た。
「知りたい情報は知れたね」
「次はどうしますか?」
「そうだね…次は現場検証といこうか」