第一話「ファーストコンタクト」
チクタク、チクタク、と。古いクォーツ時計が刻む電子音だけが、技術局の予備機材室という名の「世界の死角」に響いていた。来栖紅音(くるす・あかね)は、くすんだ赤髪をひどく億劫そうにかきむしり、パイプ椅子に深く腰掛けていた。液晶端末の淡い光が、彼の死んだ魚のような、冷め切った輪郭を青白く浮かび上がらせる。彼は転生者だった。前世の彼は、現代日本で『Fate/Grand Order』というスマートフォンゲームを消費していた、ただの一般人に過ぎない。人理修復の旅も、人類最後のマスターの奮闘も、すべては画面の向こう側のエンターテインメントだった。だが、目覚めた時、彼はカルデアの二等書記官という、魔術回路も戦う力もない、ただ有象無象の中に埋もれるだけの一般スタッフになっている。
「ハハ……笑えないな。どうせ数日後には、レフ・ライノールの仕掛けた爆弾で中央管制室は木っ端微塵だ。俺にできることなんて何もない。藤丸立香(あいつ)が英雄として世界を救うのを、後ろの席で祈るだけさ」
咥えようとしたタバコをポケットに引っ込める。この部屋の煙感知器は既にハッキングで切ってあるが、なんとなくその気になれなかった。未来の地獄をすべて知っているという「知識の呪い」。それだけを背負わされた無能な傍観者。それが、来栖紅音という男の現在地だった。――プシュー、と重い電子ロックが解除され、隔壁が静かにスライドした。部屋の明かりがわずかに通路へ漏れ、そこに一人の少女が佇んでいた。支給用の、だぶだぶの大きなパーカーに身を包んだ、藤色の髪の少女。眼鏡の奥にある紫の瞳は、あまりにも無垢で、そしてどこか生気を欠いていた。
「あ……すみません。人がいるとは思いませんでした」
マシュ・キリエライト。まだ英霊(ギャラハッド)と融合する前、デミ・サーヴァントになる前の、ただの不完全なデザインベビー。公式の知識通りの少女を前にして、紅音の胸の奥で、どす黒い冷徹な打算と、歪んだ独占欲が同時に鎌首をもたげた。
(これがマシュか。……可哀想に。自分がもうすぐ爆発に巻き込まれることも、細胞が摩耗して20歳まで生きられないことも知らずに、普通の女の子の真似事をさせられている)
医療部門のトップであるロマニ・アーキマンは彼女に優しい嘘を吐き、いつか藤丸立香は彼女に眩しい光を見せる。だが、それは彼女の短い死という現実から目を背けさせる、ただの残酷な欺瞞ではないのか。なら、無能な転生者である自分にしか与えられない、最悪で最高の『救い』は何か。
「……マシュ・キリエライトだろ。君のバイタルデータ、技術局の端っこで見たよ」
紅音はパイプ椅子から長身痩躯の身体を起こし、彼女の前へと歩み出た。皮肉げに歪めた唇から、意図的に「事実」という名の毒を絞り出す。
「ひどいデータだった。デザインベビーとしての細胞劣化、魔術回路の暴走。……ドクターたちは君に『普通の未来がある』みたいな優しい顔をしてるけど、残酷な
話だよな。君の命なんて、あと数年しか持たないのに」
「っ……」
マシュの身体が、目に見えて硬直した。普通の人間なら、怒るか、泣き崩れるような最悪の宣告。だが、マシュの濁りのない紫の瞳に浮かんだのは、深い、深い「安堵」だった。彼女は、ロマニたちの「生きろ」「普通の女の子になれる」という優しい言葉に、ずっと息を詰まらせていたのだ。自分の死から目を背ける綺麗事が、彼女をカルデアの中で決定的に孤独にしていた。それを、目の前のくすんだ赤髪の男だけが、真っ直ぐに、冷酷に見つめてくれた。
「あなたは……怖くないのですか? 壊れかけの、私のような道具を見るのが」
マシュが一歩、紅音に近づいた。その声は微かに震えている。
「怖いわけないだろ。壊れるからこそ、愛おしいんじゃないか」
紅音は冷たく笑い、彼女の前にしゃがみ込んだ。そして、その細い、冷え切ったマシュの手を、手袋越しに少し強めに握り締めた。
「ロマニたちには内緒で、君のデータを裏で『万全』に書き換えてあげるよ。君がどれだけ壊れていても、不完全でも、私だけは君のその『死』を真っ直ぐ見ててあげるから。……だからマシュ。君も、世界なんて見ずに、私だけを見てろ」
「……私だけを……見てくれる」
マシュの瞳の奥に、じっとりと熱を帯びた、底の知れない執着の火が灯った。ドクターの優しい嘘でもなく、マスターの眩しい光でもない。自分の死を全肯定し、壊れる前提の道具として愛おしそうに触れてくれる、この最低な男。
「はい……。ドクターたちには、何も言いません。……あなたと私だけの、秘密です、紅音先輩」
カルデアが炎に包まれる前の、誰も知らない薄暗い部屋。世界を裏切る転生者と、その嘘に飼い慣らされる少女の、絶対に歪んでしまうしかなかった「最初の接触(ファーストコンタクト)」だった。