第十九話「お前、誰を飼っている?」
かつての灰色の世界に帰還して幾ばくか。どうして転生したかは曖昧で。しかし帰還しても俺が居なくなっていた違和感はなくたいして時間も経っておらずその元の生活はすぐに慣れた。
「おい、聞いたか? 来栖のやつ……。あいつのボロアパートに、とんでもない美少女が囲い込まれてるって噂」
地方都市の夏特有のねっとりとした夜風が吹きすさぶ大学の裏手。オタク学生たちが暇をつぶす喫煙所の片隅で、紅音の数少ない「FGOプレイヤーの友人たち」が、スマホを片手に興奮気味の声をひそめていた。
「あ? 来栖? いつも死んだ魚みたいな目でガチャ回して、メインストーリーの更新日に『藤丸立香は相変わらず眩しすぎる道化だな』とかブツブツ呟いてる、あの虚無系陰キャか? 冗談だろ、あいつに女っ気なんてあるわけ――」
「いや、マジなんだよ! 経済学科のやつが一昨日たまたま来栖のボロアパートの近くを通りかかったらしくてさ。来栖がコンビニの袋ぶら下げて帰ってきた瞬間部屋のドアがちょっとだけ開いたらしいんだ。そしたら中に信じられないくらい綺麗な藤色の髪の女の子が待ってたって。顔も小さくて、お人形さんみたいに整ってて……。でもな、何よりヤバいのはその子が来栖の姿を見た瞬間の顔だよ。ドアが開いた瞬間、その女の子、ハイライトが完全に消えたトロンとした目で、来栖の白シャツの裾をギュッと掴んでさ……。なんか麻薬中毒者が救い主を見た時みたいな、悍ましいほど恍惚とした笑顔で『お帰りなさい、私の神様』って、本当に言ったらしいんだ」
「ひっ……なんだよそれ。洗脳とか宗教かよ」
「だろ? だから今うちの学部のオタク連中の間じゃ『来栖紅音は、裏でヤバいクスリか洗脳を使って監禁王子をキメてるクズ男だ』って噂で持ちきりなんだよ」
大学のオタクたちの間で来栖紅音の評価は「冴えない陰キャ」から「絶対に怒らせてはいけない、美少女を洗脳している本物の怪物のクズ」へと歪な形でアップデートされていた。
――だが、んな周囲のピントのズレた恐怖や嫉妬など当の紅音にとっては「ただのノイズ」でしかなかった。
「……あ、は。あかね先輩」
夜十一時過ぎ。バイト先の居酒屋の裏口から出てくると、自動販売機の細い影に隠れるようにしてその少女は待っていた。
マシュ・キリエライト。
現実世界へ逆転生してから初めての「外出」だった。
彼女は紅音が買い与えたこの世界のありふれた黒いワンピースを身に纏い白い細い腕で自分の身体を小さく抱きしめるようにして震えていた。そのビジュアルは深夜の繁華街においてあまりにも浮いており通りかかる酔っ払いたちが誰もが二度見し息を呑むほどの美しさだった。しかし、彼女の濁った紫の瞳には世界の眩しいネオンも人間たちの視線も、一ミリも映っていない。
ただ一人勝手口から出てきた「無能の大学生」の姿だけをじっとりと熱を帯びたハイライトのない瞳で見つめていた。
「マシュ。……外に出るなと言っただろ。お前のその顔は、この世界じゃ目立ちすぎる」
紅音はポケットに両手を突っ込み死んだ魚のような目で呆れたようなため息をついた。
普通の男なら絶世の美少女が深夜に自分を迎えに来てくれたことに鼻高々になるかあるいは恐縮するだろう。だが、紅音は違った。彼はカルデアの死角にいた頃と全く同じ冷淡で、しかし彼女のすべてを把握している飼い主の目で彼女を見下ろした。
「すみません、あかね先輩……。でも、お部屋のカーテン閉めきっていた中でも…先輩と離ればなれは不安で……」
マシュは一歩紅音の懐へと滑り込むように近づいた。そして彼の安いTシャツの袖を震える指先でギュッと白くなるまで強く握り締めた。
彼女の肌にあの赤黒い変異血管(令呪紋様)はもうない。健康で欠陥のないただの非力な少女の肉体。けれど彼女の心は世界がどれほど平和になろうとも来栖紅音という男の「全肯定という名の毒」によって、永遠に固定されたままだった。
「……そうか。なら、早く帰るぞ。四畳半の飼育箱(部屋)へ」
紅音は、マシュの藤色の髪を少し強めに自身の支配を分からせるように撫で回した。その瞬間マシュの頬がパッと歓喜で紅潮しうっとりとした狂信的な笑顔がその美しい顔に綻んだ。
「はい……! はい、あかね先輩……!」
居酒屋の裏口で、その光景を偶然目撃してしまった店長は、煙草を咥えたまま完全に硬直していた。あの冴えない来栖が二次元から出てきたような超美少女をまるでお人形のように完璧に洗脳し飼い慣らしている。店長は背筋に走る強烈な寒気に震えながら、明日からの来栖紅音への接し方を、本気で改めようと心に誓うのだった。
世界を救う大義名分などどこにもない、ただの地方都市の夜。
無能な大学生と、その嘘に一生飼われる元・盾の乙女は、誰の目にも留まらない世界の死角を2人きりで寄り添いながら、ゆっくりと帰路につくのだった。