雨の日の午後、四畳半の暗闇のなかで汎人類史の破滅(ゲーム)を肴に貪り合っていた甘やかな退廃は、ほんの些細な「現実の綻び」によって、最悪の執着の標的にされた。
「きゃっ」
雨が上がった平日の夕方。深夜の居酒屋バイトに向かう前のわずかな時間、紅音はアパートから徒歩数分の場所にある、薄暗いコインランドリーのベンチにマシュと並んで腰掛けていた。
部屋の洗濯機が壊れたため仕方がなく数ヶ月ぶりに彼女を「外の空気」に触れさせたのだ。
マシュは紅音が買い与えた安物の黒いワンピースの裾を気にしながら背中の真ん中を過ぎて伸びた藤色のロングヘアで顔を隠すようにして、紅音の肩に身を寄せていた。肉感的に豊満となった彼女の肢体は、外界の空気に晒されるだけで、まるで果実のように生々しい色気を放っている。
「我慢しろ、マシュ。乾燥が終わったらすぐに部屋に帰るから。……ほら、冷たいココアでも飲んでろ」
紅音は死んだ魚のような目のまま自販機で買った缶をマシュの首筋に押し当ていつもの冷淡なけれど彼女のすべてを管理している飼い主の口調で呟いた。
「はい……あかね先輩……。冷たくて、でも、先輩の体温みたいで、嬉しいです……っ」
マシュは濁った紫の瞳をうっとりと細め恍惚の笑みを浮かべながら、紅音の白シャツの袖をきつく握り締めた。
その世界の誰も知らないはずの四畳半の檻のなかで完成されていた「洗脳人形の陶酔」。
――それを、硝子窓の向こうから、食い入るように見つめている『眼』があった。
「……嘘、だろ……? なんで……なんであいつが……」
コインランドリーの自動ドアの横濡れたアスファルトの上に立ち尽くしていたのは大学のゼミ仲間でありゲームでマシュを熱狂的に推している限界オタク――野崎だった。
野崎は傘を握る指を白くなるまで震わせ信じられないものを見たという顔で激しい衝撃に息を呑んでいた。
大学内で噂されていた「来栖がヤバい美少女をアパートに監禁している」という陰惨なゴシップ。野崎はそれを、陰キャの来栖を面白がっている連中のただのデマだと思い込もうとしていたのだ。
だが、今、自分の目の前にいるのは、画面の向こうで何年も何年も愛し続けレベル120までにしアペンドスキルも解放し完全体サーヴァントとして育てた自分の『理想の聖女』として崇めていたあのマシュ・キリエライトその人だった。
それも、公式のショートヘアではなく、妖艶に伸びた藤色のロングヘア。
ブラウスを押し上げるような、男の目を釘付けにする豊満な身体。
なにより、あのゲームの中で誰よりも清廉で、健気に世界のために大盾を掲げていたはずの彼女が――ただの冴えない、魔術回路も力もない陰キャのクズ(来栖)の腕の中に自ら進んで身体を埋め、薬にでも狂わされたかのような、悍ましいほどに美しい恍惚の笑顔を浮かべている。
(汚されてる……っ。俺のマシュちゃんが、あんなクズ男の、セコい泥の檻のなかで、滅茶苦茶に洗脳されて飼い慣らされてる……!)
野崎の脳内で、何かが音を立てて激しくブチ切れた。
激しい拒絶反応。腸が煮えくり返るような劣等感。そして、「俺が、あの可哀想なマシュちゃんをクズ男の洗脳から救い出し、俺だけの正しいお人形にしてあげるんだ」という、歪みきった『正義の味方(ストーカー)』としての狂気の使命感が、彼の胸の奥で爆発的に産声を上げた。
「待っててね、マシュちゃん……。今、その汚い檻を、俺がぶち壊して助けてあげるから……っ」
野崎は、カチカチと歯を鳴らしながらスマートフォンを取り出し、画面の向こうの『綺麗なマシュ』の画像を狂おしく指でなぞりながら、二人が歩き去っていくアパートの方向を、じっとりと濡れた眼で見送った。
硝子の水槽に這いよる、本物の悪意の蜘蛛。
二人が退廃的なゲームデートを楽しんでいたその足元で、彼らの楽園を完璧に粉砕し、マシュの非力な肉体を理不尽な暴力で引き千切るための「最悪の引き金」は、コインランドリーの硝子越しに静かに確実に引かれていたのだった。
「ねえ、来栖。お前さ……本当にあの女の子を、外に一度も出さないつもりか?」
十月の冷たい雨が降る日の夕方。大学の講義が終わり、薄暗くなったゼミ室の片隅で、紅音が提出したレポートをノートパソコンに打ち込んでいた手を止め、野崎が探るような目で紅音を覗き込んできた。
コインランドリーの硝子越しにマシュの姿を目撃してから数日。野崎の目は、かつてのただの限界オタクのそれではなく、どこか粘り気のある、歪んだ正義感を宿した不気味な光を湛えていた。
「経済学科の奴らが噂してたよ。お前のアパートの部屋、昼間でも遮光カーテンがこれでもかって閉め切られてて、中から一歩も誰も出てこないって。あんな美少女をさ、自分の自尊心のためだけに監禁して、戸籍データまで弄って飼い慣らしてるんだろ? 正直、不健全だし、コンプライアンス的にも一人の人間に対する尊厳を欠いてるよ」
野崎は、画面の向こうのマシュを救い出す「正義の味方」としての全能感に酔いしれるように、わざとらしくため息をついてみせた。カマをかけて紅音の動揺を誘おうとする卑劣な視線。
だが、紅音はキーボードから静かに手を離し、死んだ魚のような、冷め切った目で野崎を一瞥しただけだった。
「……野崎。お前たちの言う普通の女の子の幸せとかいう常識が、どれだけ彼女の首を絞めているか、一生理解できないさ。彼女は一歩も外に出なくていい。私が稼ぐお金だけで、安全な檻のなかで甘やかされていればいいんだ。お前のような外の人間が、私たちのマイルームに触ろうとするな」
「は、……何言ってんだよ。来栖、お前やっぱり頭がおかしいよ。そんなのただの、自己満足の犯罪じゃんか」
野崎の顔が図星を突かれた怒りと、それ以上の「やはり俺が助けなければならない」という狂信的な使命感で醜く歪む。
「――お前には関係のない話だ。」
紅音は冷淡にノートパソコンを閉じ、カバンを掴むと、不快そうに顔をしかめる野崎を置き去りにして、ゼミ室を出た。
前世の記憶がある紅音にとって、野崎のような「綺麗なマシュを主人公として救いたい」と願う外の綺麗事は、かつてカルデアでマシュを戦場へ連れ出し、二〇歳までの短い命を搾取しようとしていた汎人類史の偽善そのものだった。
しかし、背後を振り返ることはしなかったが、紅音の胸の奥には、かつてない嫌なノイズがパチパチと弾けていた。
野崎のあの目は、ただの噂話を面白がっている人間の目ではない。まるで、自分の水槽の底にある一番大切な宝石を、泥棒が物陰からじっと見定めているかのような、本物の執着の匂いがした。
「……マシュ、戸締りはちゃんとしてるな」
夜風が吹きすさぶ大学の渡り廊下で、紅音はコートのポケットのなかでスマートフォンを握り締め、アパートの防犯ログを無意識にチェックしていた。
完璧に閉ざされているはずの四畳半の檻。だが、社会という名の外の世界の悪意は、彼らの知らないところで、着実にその四畳半のドアの隙間へと、細い毒針を差し込もうとしていた。