二人が世界の死角を完成させ、社会のシステムすらも他罰の燃料として消費していた、大学四年生の冬の夜。その完璧な硝子の檻を外側から力ずくで抉じ開けようとする、本物の悪意がボロアパートに這い寄っていた。
来栖紅音が深夜の居酒屋バイトで帰宅を大幅に遅らせていた、夜の二十二時過ぎ。
「……あかね、先輩……? いえ、誰、ですか……っ?」
四畳半の暗闇のなか万年床の上で読書をしていたマシュの耳に玄関の木製ドアからガチャリ、ガチャリと、不自然に鍵穴を弄る金属音が響いた。
冷たい冬の雨の音に混ざる、執拗なピッキングの音。マシュが恐怖に息を呑み、身を固くした瞬間ドアが無残に開け放たれた。
薄暗いリビングに足を踏み入れてきたのは大学のゼミ室で紅音に「不健全だ」と綺麗事を押し付けコインランドリーの件から狂気的な妄執を募らせていたあの限界オタク、野崎だった。その手にはピッキングツールが握られ、下卑た呼吸を荒くしながら、懐中電灯の光を部屋の中へと乱バクに照射した。
「よぉ、やっぱりいた……! マシュちゃん……! 助けに来たよ! あのクズ男にヤバい洗脳をされて閉じ込められてるんだろ、さあ、俺と一緒に外の世界へ――」
男が懐中電灯の光をマシュへと向けた瞬間、その言葉が歓喜と歪んだ独占欲で凍りついた。
そこに佇んでいたのは、純白のブラウスを豊かな胸元で波立たせ、背中の真ん中まで滑らかに伸びた藤色のロングヘアを揺らした、大人のマシュだった。だが、その瞳には、彼が画面の中で愛していた健気な少女の光など一ミリもなかった。ハイライトの完全に消えた紫の瞳には、底無しの、悍ましいほどの冷酷な嫌悪だけが宿っていた。
「……汚いゴミが。誰の許可を得て、あかね先輩の檻に足を踏み入れているのですか。今すぐ、その汚い光を消して、出て行きなさい」
マシュは冷たく言い放ち男を強く睨みつけた。しかし、ここは魔術も戦闘もない現実の世界だ。かつて世界を救った盾の乙女のデミ・サーヴァントとしての怪力や大盾の権能は、この健康な肉体のなかでは完全に失われていた。
「ハ、ハハ……何を強がってるんだよマシュちゃん! 目が完全にイッちゃってるじゃん、やっぱりあのクズにクスリか何かで洗脳されてるんだ! 俺が今、その不実の檻から救い出して、俺の理想のお人形にしてあげるからね!!」
正義の味方に歪んでなりきった野崎が下卑た笑みを浮かべながら、マシュの白い手首を掴もうとドロドロとした本物の加害を剥き出しにして彼女の豊かな肢体へと一歩、激しく這い寄ってきた。
「いやだ、触らないで……っ! あかね先輩、助けて……っ!」
冷たい冬の雨が窓硝子を激しく叩くなか、悲鳴ともつかないマシュの掠れた声が、四畳半の畳の上に虚しく響いていた。
野崎は下卑た呼吸を荒くしながらマシュの手首を掴み、その肉感的に成長した豊かな肢体へと覆いかぶさった。かつて第七特異点や第八異聞帯で世界を拒絶し神々の暴威をも圧殺したシールダー・オルタの面影は、さ今の彼女にはどこにもなかった。デザインベビーの寿命の枷を外され完璧に健康な人間の肉体を手に入れた代償としてマシュはただの非力な人間の女の子へと成り下がっていたのだ。
「あかね……先輩……っ!」
抵抗しようと必死に暴れるが、男の理不尽な暴力をねじ伏せることなどできなかった。白のブラウスのボタンがブチブチと音を立てて引き千切られ畳の上に飛び散る。背中の真ん中まで滑らかに伸びた藤色のロングヘアが泥のように汚れ、マシュのハイライトの消えた瞳から本物の恐怖と絶望の涙がポロポロと溢れ出た。
もし、このままあかね先輩のいない外の世界へ連れ去られたら。先輩の安全な檻を奪われ汚されたら。死ぬこと以上の恐怖が彼女の精神を内側から木っ端微塵に破壊していく。
「――おい、何をしている」
その刹那、玄関のドアが激しい破壊音と共に外側から力ずくで蹴り開けられた。
「ひっ、……く、来栖……っ!?」
野崎が驚愕に顔を引きつらせて振り返る。そこに立っていたのは、スマートフォンのセキュリティアラートを頼りに、息を切り、形相を変えて駆け戻ってきた来栖紅音だった。
彼の死んだ魚のようだった目は、激しい怒りと、それ以上のドロドロとした暗黒の殺意でガタガタと大きく見開かれていた。
「俺のマシュにその汚い手を触るなと言ったはずだ、野崎」
紅音はカバンを床に放り出し床へ滑り込むようにして野崎の胸ぐらを掴み上げた。魔術も力もない、ただの冴えない大学生の肉体。だが最愛のお人形を奪われかけるという極限の他罰の感情が彼の身体を獣のような爆発的な力で突き動かした。
紅音は野崎の顔面を畳へと乱暴に叩きつけ馬乗りになって、その動かなくなるまで何度も、何度も拳を振り下ろした。みしり、さと鼻骨の砕ける音が暗闇に響く。
「あがっ、……あ、あかね、先輩……っ」
背後から聞こえたマシュの震える声に、紅音はハッと我に返り、血に染まった拳を止めた。すぐにスマートフォンの一般ダイヤルから警察へ通報。野崎は衣服を乱したま駆けつけた警察官によって現行犯で連行され二度と社会の表舞台へ戻れないほどの法的な裁きを受けることとなった。
――だが本当の絶望は害虫が去った後の静寂のなかに潜んでいた。
「マシュ、……もう大丈夫だ。ゴミは片付けたよ」
紅音が震える手で部屋の明カリを灯し、衣服の破れたマシュを抱き起こそうとした、その時だった。
「いや、いやぁぁぁッ……!! 触らないで、見ないで……っ! 先輩、ごめんなさい、私、お人形なのに、先輩の檻を汚されて……っ!」
マシュは激しく過呼吸を起こし、自分の豊かな身体を掻きむしるようにして、万年床の隅へと逃げるように縮こまった。長く伸びた藤色の髪を乱暴に振り乱し、完全に精神のバランスを失った目で、激しく嘔吐を繰り返す。
大学生活の四年間力を失いただの人となった彼女を、自分の無能な自尊心のために社会から切り離して飼い殺しにしてきた結果が、これだ。彼女はストーカーの暴力の前にただ怯えて涙を流すしかなくなり、今、激しい精神的ストレスの拒絶反応のなかで、生きる屍のようになりかけている。
「俺は、……間違えていたのか……?」
床に崩れ落ちたまま、紅音の喉から、血を吐くような絶望の独白が零れ落ちた。自分の差し出した「暗闇の全肯定」こそが彼女の救いだと思い込んでいた硝子の水槽に、今、修復不可能な決定的な亀裂が、バキバキと音を立てて入ろうとしていた。