マシュ・キリエライトの歪んだ初恋   作:九咲

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第二十六話「不実の檻を越えて光へ」

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古い遮光カーテンがバサリと大きく開け放たれたリビングには冬の澄んだ陽光がたっぷりと差し込んでいた。かつて世界を呪うために社会のシステムの隙間に隠れ野崎の綺麗事への他罰でみたしていたあの暗黒の箱庭の気配はどこにもない。

 

 

来栖紅音は自分のベッドの上で静かに身を起こした。くすんだ黒髪の魔術回路もチートもない、ただの冴えないシステムエンジニアとしての頼りない肉体。その視線の先、リビングのローテーブルの上に通信制高校の卒業証書と来春からの大学のパンフレットが綺麗に並べられていた。

 

「――あかね先輩。朝食の準備、できていますよ。早くしないと遅刻してしまいます」

 

キッチンからトントンと包丁の小気味よい音を響かせていたマシュが、長い藤色の髪を白いリボンで一つに結び、優しい笑顔を浮かべて現れた。純白のブラウスに淡いピンクのエプロン。見違えるほど豊満になった彼女の肢体は、暗闇のなかで無意味に腐っていくための残骸ではない。これからの現実を、何十年だってしぶとく生き抜くための、健やかで美しい大人の女性の肉体だった。

 

あの急性肺炎の夜「俺は間違えていたのか」と慟哭した紅音の心変わり。そして病み上がりのマシュの手を握り、自身の醜い劣等感や前世の虚無、お前を光の社会に奪われたくなかったという歪んだ恋心のすべてを告白したあの対話。それらすべてを経て彼らの関係は「相互監禁の檻」から、初めて「互いを尊重しあう本物の愛」へと昇華されていた。

 

 

紅音は自分の醜い独占欲をマシュのために手放した。前世の知識のすべてを彼女を縛るためではなく合法的な本物の身分と戸籍を整え社会へと羽ばたかせるために使い果たした。マシュもまた先輩のその縛らない愛を受け入れ、普通の女の子としてふみ出すための泥臭い努力を重ねてきた。

 

 

マシュは通信制の高校を卒業し俺は地方の小さな会社のシステムエンジニアとして働きはじめそれぞれの道を歩みながらも今度は対等な一人の人間として再び同じ部屋で暮らすことを選択していた。

 

「ほら先輩。ネクタイが曲がっています。……これじゃ、会社でまたチームリーダーに小言を言われてしまいますよ?」

 

マシュはくすくすとかつての狂気じみた他罰の笑い声とは違う鈴の鳴るような明るい声で笑いながら立ち上がった紅音のスーツの襟元を愛おしそうに整えた。

 

「……あぉ、そうだな。」

 

紅音はネクタイを締め直されながら、少し照れくさそうに微笑んだ。その目には、かつての死んだ魚のような諦念ではなく今日という一日を彼女と共に現実の社会で生き抜くための確かな人間の光が宿っていた。

世界を救うためにすべてを失い、どこかで心を摩耗させているであろう藤丸立香の悲劇。それは、彼らの胸の奥に消えない切ない傷跡として今も残っている。けれど、マシュが流した血と汗と光の日々への努力は、彼らの未来を、今度こそ完全に決して切れることのない強い絆で祝福していた。

 

「あかね先輩。……私をあの薄暗いカルデアの死角から見つけてくれて、本当にありがとうございました。私はもう、先輩を閉じ込めるお人形ではありません。……先輩の隣をどこまでも歩いていく、一人の女の子です」

 

玄関のドアを開ける手前。マシュは紅音の腕にそっとしがみつき、今度は背徳のノイズではない、眩しい朝の光の中で優しく甘やかな本当の初恋の口づけを交わした。

 

「いってらっしゃい、あかね先輩。……夕飯、先輩の好きなハンバーグを作って待っていますね」

 

「ああ、いってきます。マシュ」

 

ドアが開かれ、紅音は満員電車の流れる、誰もが生きる普通の社会へと力強く一歩を踏み出した。一人の最低だった転生者が、最愛の少女の未来のためにエゴを解放し、互いの未来を誇り高く歩み始めた。

 

 

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