あの急性肺炎の夜マシュに「生きてくれ」と綺麗事を叫び、なりふり構わず救急車を呼んだ来栖紅音の心変わり。だが運命という名の世界のシステムは一人のひねくれた転生者の後悔ごときでそのバグを許してくれるほど甘くはなかった。
逆転生を果たしたマシュ・キリエライトの肉体。それはかつてカルデアで彼女の命を縮めていた「細胞の摩耗」の枷を完全に克服した完璧に健康な人間の女の子の身体であるはずだった。
だが、それはあまりにも残酷な錯覚に過ぎなかった。
地球白紙化そしてORTの放った宇宙規模の破壊の波動。世界そのものが結晶化して滅び現実世界へと強引に弾き出されたあの瞬間、マシュの霊基に刻まれていたシールダー・オルタとしての莫大な他罰の負荷、そしてゼウスの雷霆ログによる過負荷は消えたわけではなかった。健康な人間の肉体という硝子の水槽の内側に強大すぎる狂気のデータが、行き場を失ってそのまま閉じ込められていたのだ。
アパートへ戻ってきたマシュの容姿は日に日に悍ましいほどの美しさを増しながら――同時に、急速にその生命の灯火を消そうとしていた。
「……あかね、先輩。……見て、ください。私の髪、また少し……長くなりましたよ」
万年床の上でマシュは掠れたけれど酷く甘やかな声で微笑んだ。床に届くほどにまで伸びた見事な藤色のロングヘア。女性らしい極上の丸みを帯びたその肢体はしかし、内側からバリバリと、あの赤黒い電子の令呪紋様が皮膚を突き破らんばかりに発光し彼女の生命力をガリガリと貪り尽くしていた。
「マシュ……静かにしてろ。今、なんとかしてやるから…っ!」
紅音は死んだ魚のような目を血走らせ狂ったようにノートパソコンのキーボードを叩き続けていた。前世の知識も、カルデアのパッキングデータもすべてを動員して彼女の肉体の崩壊を止めようとする。だが画面に表示される医学的バイタルは、書き換えたそばから真っ黒なエラーコードを叩き出される。
魔術もないこの現実世界。そこに生きるマシュの肉体にとって、内に秘めた『世界を裏切った他罰の質量』はただの致死量の猛毒でしかなかった。世界はシステムではなく、
生身の人間の肉体の限界という、最も凡庸で絶対的なルールを以て、来栖紅音から最愛のお人形を奪いにきたのだ。
「嫌、です先輩……。もう、キーボードを叩かないで……。私を普通の女の子にするためのそんな指の音は……聞きたくありません。私は……先輩の嘘の中で世界を救う盾ではない、ただの壊れたお人形になれたあの瞬間に私のすべての初恋は完成していたのですから……」
マシュは熱で真っ赤に腫れ上がった細い腕を伸ばし、床を這うようにして紅音の腿の上にそっと両手を重ねた。豊満になった彼女の身体が命が零れ落ちていく絶望の重さで紅音の足元へとしがみつく。
「あかね先輩。……私を、あの薄暗いカルデアの死角から見つけてくれて……本当にありがとうございました……っ」
「マシュ、……マシュ、嫌だ、消えるな! 目を開けろ、マシュ!!」
紅音はキーボードから手を離し床へ崩れ落ちるようにして、彼女の豊満な身体を強く狂おしい強さで抱きしめた。素直になれなかった男の生まれて初めての剥き出しの叫び。
だがマシュの指先からあのシャツの裾を握り締めていた狂気的な強さがゆっくりと静かに失われていった。きつく握られていた紅音のシャツの裾が指先からハラリと零れ落ちる。
「……あかね、先、ぱい……。大好き、でした……」
それが、元・盾の乙女が遺した最後の本物の言葉だった。
マシュ・キリエライトの肉体からすべての熱が失われ、ただの冷たい人形のような標本へと変わっていく。彼女の背中まで伸びていた見事な藤色のロングヘアは赤黒い電子のノイズと共に、光の粒子となって空気中にパラパラと溶けて消え去りあとには紅音の腕の中に残された、衣服の抜け殻と――二度と動かない美しすぎる少女の遺骸だけが残された。
チクタク、チクタクと。誰もいない四畳半の部屋で時計の秒針だけが冷酷に現実の時間を刻み続ける。
画面の向こうの藤丸立香は今も心を摩耗させながら正義のために世界を救い続けている。画面の向こうのマシュは健気に先輩を支え大盾を掲げている。
本物のマシュはもうどこにもいない。
世界を裏切った代償として来栖紅音の元に残されたのは、役所のデータ上から完全に消滅した真っ白な扶養家族の申請書の残骸と――一生解けることのない最愛の少女を自らのエゴで使い潰して殺してしまったという世界で最も残酷な『初恋の呪縛』だけだった。
くすんだ黒髪のただのシステムエンジニアに戻った来栖紅音は、明日の朝もまた満員電車に揺られて社会の檻へと向かうのだろう。誰もいない暗闇の部屋に永遠に囚われ続けたまま。