第四特異点「ロンドン」
街全体を覆うのは、魔術回路を冒し、カルデアとの公式通信すら阻害する、濃密な「魔霧」だった
中央管制室とのメイン回線は絶え間なくノイズが混じり、ロマニの焦燥しきった声が途切れ途切れに響く
だが、藤丸立香を最も不安にさせていたのは、その通信障害ではなかった 。隣を歩くマシュの様子が、ロンドンにレイシフトしてから明らかに「狂って」いたからだ 。
「……あ、は……あかね、先輩。そこに、いるんですね……」
マシュは誰もいないロンドンの路地裏、濃い霧の向こうを見つめながら、うわごとのように呟いていた 。
彼女の耳のインカムは、すでにカルデアの公式回線から遮断されている。しかし、彼女の意識は、魔霧のノイズを突き抜けて、来栖紅音が密かに構築した「二人だけの専用回線」へと繋がっていた 。
『ああ、聞こえているよ、マシュ。ドクターたちの通信は完全に遮断した。今、この霧の中で、君を観測しているのは私だけだ』
インカムの奥から響く、紅音の静かで冷徹な声 。
それは公式のレイシフト管制を乗っ取った、明らかな反逆行為だった 。だが、マシュにとっては、その背徳のノイズこそが、凍えそうな世界で唯一の救いだった
「はい、先輩……。ドクターたちの声が聞こえなくて、とても、清々しいです。あの方たちの『頑張れ』という声は、私の命を削る雑音でしかありませんでしたから……」
マシュは壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ 。彼女の身体は、魔霧の影響と、連戦による細胞の摩耗で限界を迎えていた 。バトルドレスの下の肌には、黒い紋様のような血管が浮き出ている 。
「先輩……身体が、熱いです。壊れていくのが、自分でも分かります。……私、もうすぐ、あなたの望む通りに、お人形になれますか……?」
『よく頑張っているね、マシュ。君が壊れるその瞬間まで、私は君のデータを集め続ける。君の苦痛も、その短い命の灯火も、すべて私のハードディスクの中に、永遠に閉じ込めてあげるよ』
紅音の言葉、どこまでも冷酷な実験者のそれだった。
しかし、マシュは胸を激しく上下させ、まるで極上の愛撫を受けているかのように、自分の身体を抱きしめた 。
「ああ、嬉しい……。私のすべてを、先輩の記憶の標本にしてください。……あかね先輩、会いたいです。今すぐ、その冷たい手で、私を壊して……」
その時、霧の向こうから藤丸が走ってきた
「 …マシュ!? その身体、どうしたんだよ!」
浮き出た黒い血管と、マシュの異常な熱気を見て、藤丸が驚愕して手を伸ばそうとする 。
「触らないで、マスター」
マシュは冷たく、あるいは憐れむような目を藤丸に向けると、大盾の石突きで地面を叩いた 。
その衝撃波が、藤丸の足を止める 。
「私のこの痛みは、紅音先輩だけのものです。世界を救うだけのあなたに、私の壊れていく姿を見せる筋合いはありません」
「マシュ……君は、あの人に騙されてるんだ、君の命を何とも思ってない!」
「ええ、知っています」
マシュは霧の中で、不敵に、そして酷く美しく微笑んだ
「先輩は私の命なんてどうでもいいんです。だからこそ、愛おしい。……人類の未来のために私をすり潰すあなたたちと、自分の欲望のために私を使い潰してくれる先輩。どちらが私を『一人の女の子』として見てくれているか、そんなの、火を見るより明らかでしょう?」
マシュは立ち上がり、大盾を構えて、魔霧の奥へと一人で歩き出す 。
『いい子だ、マシュ。そのまま進め。歴史を修復し、私のために、最高の壊れ方を見せてくれ』
「はい、あかね先輩。……私の、大好きな、嘘つきの神様」
藤丸の叫びは、濃い魔霧と、二人の歪んだ電波の中に、跡形もなく掻き消されていった