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「……はぁ、クソ。魔力伝導率のログ、また同期がズレてやがる」
次のレイシフトを翌朝に控え、カルデアの廊下は深夜三時を回っても冷たい静寂に包まれていた。一般管制スタッフのダストンは、寝不足の目をこすりながら、手元の缶コーヒーを握りしめて歩いていた。中央メインフレームの微調整を行うため、彼は誰もいないはずの「技術局・予備機材室」へと足を運んでいた。
だが、自動ドアの前に立った瞬間、ダストンの指が止まる。
電子ロックのインジケーターが、内側からの強制遮断を示す「赤」に点灯していたのだ。
「あれ、誰か使ってんのか……?」
不審に思い、ダストンが防音隔壁のわずかな隙間にそっと耳を寄せた、その刹那。
鼓膜を揺らしたのは、聞き間違いようのない――カルデアの至宝であり、新米マスター・藤丸立香の相棒である少女、マシュ・キリエライトの掠れた声だった。
『……っ、あ、は、先輩……そこ、は、バイタルの、センサーが……痛い、です……』
ダストンの背筋に冷たい戦慄が走る。
漏れ聞こえてくるのは、デミ・サーヴァントの頑強な肉体とは思えないほど弱々しく、何かに縋り付くような、甘やかで歪んだ吐息。
『我慢しろ、マシュ。君が昼間の戦闘で霊基(からだ)を酷使したせいで、細胞の摩耗データのノイズが大きくなっている。……ほら、ここを少し強く押さえるぞ。ロマニ(ドクター)にバレたくないんだろ?』
声の主は、来栖紅音。
技術局の片隅でいつも死んだ魚のような目をしている、魔術回路すら持たない冴えない一般二等書記官の男だった。
『はい、あ……! あかね、先輩……。ドクターには、言えません。私の、この壊れていく音を聞いてくれるのは……あなた、だけだから……』
ガサゴソと衣類が擦れる音。
ダストンは額に大量の冷汗をにじませ、持っていた缶コーヒーを落としそうになるのを必死で堪えた。
(おいおい、嘘だろ……。マシュちゃんと来栖が、裏でこんな……)
規律違反どころの話ではない。人類最後のマスターである藤丸を騙し、医療トップのロマニの目を盗んで、デミ・サーヴァントのバイタルデータを裏から改ざんしている。
今すぐドアを叩き破るべきか、あるいはドクターに通報すべきか。ダストンが震える手でポケットの通信端末に手を伸ばした、その時だった。
チカッ、と電子ロックのランプが「緑」に変わる。
心臓が跳ね上がり、ダストンは慌てて通路の曲がり角の影へと身を隠した。
スライドドアが開き、部屋から出てきたのは――いつも通り、白衣のポケットに両手を突っ込み、ひどく退屈そうに周囲を見回す来栖紅音だった。その顔には、先ほどまで少女の肉体とデータを弄んでいた狂気の気配など微塵もなかった。
そのすぐ後ろから、だぶだぶのパーカーを羽織ったマシュが静かに出てくる。
彼女の露出した頬は微かに紅潮し、その紫の瞳にはハイライトが一切なかった。彼女の指先は、紅音の白衣の裾を、まるで命綱のように小さく握り締めている。
「……マシュ、誰かいる」
紅音が、ダストンの隠れている曲がり角の方へ、鋭い視線を向けた。
ダストンは息を止め、壁に背中を押し付けた。全身の血が引いていくような恐怖。能力もないはずの男の目が、その瞬間だけは、どのサーヴァントよりも悍ましく感じられた。
「あかね先輩、どうかされましたか?」
マシュが濁った瞳で紅音を見上げる。その瞬間、彼女の背後に、どす黒い魔力の粒子がピキピキと音を立てて生じかけた。もしここに「先輩の邪魔をする不純物」がいるのなら、今すぐその盾で叩き潰すと言わんばかりの、異常な殺意。
「いや……ネズミの足音か。気のせいだよ。行きましょう、マシュ」
紅音が淡々と告げると、マシュは一瞬で殺意を消し、「はい」と嬉しそうに微笑んで、彼の後ろを歩いて行った。
二人の足音が通路の奥へと消えていく。
ダストンは、へなへなとその場に座り込んだ。喉はカラカラに渇き、手元の缶コーヒーは冷めきっていた。
(あいつら、狂ってる……。来栖のやつ、マシュちゃんに一体何を吹き込んだんだ……?)
翌朝、ダストンは中央管制室で、いつものように藤丸の後ろで怯えたようにログを見ている紅音の姿を見た。冴えない一般人の仮面。
ダストンは恐怖のあまり、ロマニにも藤丸にも、昨夜の異常なサスペンスを最後まで伝えることができなかった。カルデアの機能が完全に麻痺しかけている極限状態において、その「世界の死角」を暴くことは、自分自身の生存をも脅かすような気がしたからだ。
こうして、二人の真夜中の密会は、他者の恐怖と見て見ぬ振りのなかに隠され、誰にも止められることなく、さらに深く、ドロドロとした背徳の破滅へと進んでいくのだった。
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