キヴォトス観測記録 ——或る孤独な始祖帰りの受難——   作:Eveki.

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プロローグ:観測の呪いと、歩き続ける足跡

キヴォトスには、数え切れないほどの神秘と、それと同等――あるいはそれ以上の火薬が存在する。

生徒たちはヘイローと呼ばれる光輪を頭上に戴き、銃火器を日用品のようにあしらいながら、それぞれの青春を謳歌している。

だが、その光が強ければ強いほど、影もまた濃く、深い。

 

トリニティ総合学園の最も深い階層。一般の生徒はおろか、正義実現委員会でさえ噂でしか知らない秘匿領域、『古代記録管理委員会』の執務室は、常に微かな書物の匂いと、冷徹な静寂に支配されていた。

 

「……っ」

 

室内の暗がり。十九世紀の意匠を思わせる古風な長椅子の上で、御堂レーヴェンは跳ね起きるように上体を起こした。

呼吸が酷く荒い。額からは大粒の冷や汗が流れ落ち、トリニティの黒い制服の襟元を湿らせている。

彼は狂ったように脈打つ心臓を左手で押さえつけ、右手で自身の顔の左半分――厳重に巻かれた眼帯を、引きちぎらんばかりの勢いで強く押さえた。

 

「はぁ、はぁ……っ、くっ……!」

 

眼帯の奥。封じられた深紅の瞳『緋神眼』が、網膜の裏側でいまだに狂ったような熱を放っている。

脳の処理速度を無視して強引に流し込まれた『映像』の残滓が、神経を焼き焦がす激痛となって彼を苛んでいた。

今、視たのは――崩壊の断片。

名前も知らぬ生徒たちが血を流して倒れる未来。助けを求めるように伸ばされた手が、冷たい泥の中に沈んでいく光景。

そして、その悲劇を高い場所から冷ややかに見下ろす、悍ましい『何か』の影。

 

「今のは……数年先ですか。それとも、わずか数日……」

 

掠れた声で呟き、レーヴェンはデスクの上の砂時計に目をやった。

さらさらと音もなく落ちる砂。体内時計と照らし合わせる。激しい頭痛と目眩で意識を失っていた時間は、およそ十五分。

その短い間に、彼の脳内には数百通りに及ぶ『最悪の分岐未来』が強制的に再生されていた。

 

これが、御堂レーヴェンという少年に課せられた呪い。

古の時代よりキヴォトスの記録と観測を担ってきた御堂の家系において、数世代に一度だけ生まれるとされる『始祖帰り』の証明だった。

 

彼の左目は、己の意志とは無関係に未来を観測する。

銃弾がヘイローを砕く瞬間、信頼が裏切りに変わる瞬間、積み上げた日常が砂となって崩れ去る瞬間。ありとあらゆる『破滅の可能性』だけを、彼は常に視続けなければならなかった。

 

「……ふぅ」

 

深く、長く息を吐き出す。

震える手でデスクの引き出しを開け、強心剤、睡眠抑制剤、そして神経を無理やり麻痺させる強力な鎮痛剤を取り出す。それらを水も使わずに噛み砕き、飲み込んだ。

舌の奥に残る不快な苦味が、意識を現実へと引き戻す。

 

過去三日間の睡眠時間は、五時間に満たない。

寝れば『緋神眼』が暴走し、夢の中で無数の死を観測させられる。起きていれば、現実の景色に未来のノイズが重なって視界が歪む。

食事を摂る時間があるなら、一秒でも長く、最悪の未来を回避するための計算(シミュレーション)に費やしたい。その結果、彼の身体は実年齢よりも細く、肌は日に当たらない幽霊のように青白い。

 

「御堂家始祖帰り、か。……つくづく、皮肉な二つ名だ」

 

レーヴェンは自嘲し、立ち上がって制服の乱れを整えた。

もし、この能力が『全知全能の予知』であるならば、彼は英雄になれたのかもしれない。

しかし、現実は違う。

視る未来は確定した運命ではない。「現在の因果がもたらす、最も確率の高い結末」に過ぎない。

つまり、彼が動けば、未来は変えられる。

だが、その因果の糸を自らの手で解きほぐすには、命を削るような介入が必要なのだ。

 

誰にも言えない。誰にも頼れない。

「未来が視える」などと公言すれば、ティーパーティーや正義実現委員会、あるいはシスターフッドは、彼を最高の政治的道具として利用しようとするだろう。

あるいは「不吉を呼ぶ魔女」として幽閉するか。

だからこそ、彼は歴史の闇に埋もれた閑職の長という立場に身を隠し、一人で全てを処理してきた。

 

他人の痛みには異常なほど敏感で、誰かが泣く未来を視てしまえば、身が引き裂かれるほどの不快感を覚える。

なのに、その未来を書き換えるためにどれほど肉体がボロボロになろうとも、彼はそれを「当然のコスト」として許容してしまう。

それが、御堂レーヴェンの、あまりにも歪で破綻した生存戦略だった。

 

カチャリ、と静かにドアが開く。

 

「……お目覚めですか、レーヴェン」

 

現れたのは、シスターフッドの長、歌住サクラコだった。

彼女は静歩で室内へ入ると、立ち尽くすレーヴェンの姿を見て、その端正な眉を微かにひそめた。

 

「サクラコさん。……ノックの徹底を要望します。ここは一応、私の個人執務室ですので」

「失礼いたしました。ですが、また施錠もせずに意識を失っているのではないかと、心配になりまして」

 

サクラコの言葉には、確かな慈愛と、それ以上に深い憂慮が滲んでいる。

シスターフッドは中立を保つ組織であり、古代記録管理委員会とも一定の繋がりがある。サクラコは、レーヴェンの『表層的な体調不良』を知る数少ない人物の一人だった。彼が未来視の眼を持っているなどとは露知らず、ただの『責任感が強すぎる、身体の弱い少年』として見ているのだ。

 

「顔色が、先週よりも一段階悪くなっています。義務が重いのは理解していますが、これでは……」

「問題ありません。これが私の平常運転です」

「そのお言葉は、この学園で最も信用できない免罪符です。今すぐ礼拝堂へいらっしゃい。少しでも聖歌を聞き、心を休めるべきです」

 

サクラコの言葉は静かだが、拒絶を許さない強さがある。

レーヴェンは思考を巡らせた。薬物による強制覚醒も限界に近い。礼拝堂のオルガンと聖歌には、不思議と彼の左目の暴走を鎮める効果があった。

 

「……分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」

 

レーヴェンは小さく一礼し、サクラコの後を追って執務室を出た。

長い石畳の廊下。窓の外には、夕暮れ時の美しいトリニティが広がっていた。

笑いながら下校する生徒たち。お茶会の約束をするお嬢様たち。平和そのものの光景。

 

(誰も知らない。この平和が、どれほど薄い氷の上に成り立っているかを)

 

レーヴェンの右目は現実の夕景を捉えていたが、脳裏には、秘匿された予言書の記述が過っていた。

――『エデン条約』。

トリニティとゲヘナ、二大巨頭が結ぼうとしている和平条約。

だが、彼の左目はすでに観測している。その調印式が、血と硝煙に染まる最悪の未来を。

その破滅へのドミノ倒しは、すでにティーパーティーの足元から始まっているのだ。

 

(ナギサさんは疑心暗鬼に狂い、ミカさんは罪の意識に溺れていく……セイアさんは表舞台から消え、アリウスの影が迫っている)

 

すべてを視ている。すべてを知っている。

けれど、今ここで「ミカさんが裏切っている」と叫べば、それこそがトリニティを内戦へと導く引き金になる。だから、彼は沈黙を選ばなければならない。胃を雑巾のように絞られるような罪悪感に耐え、完璧な嘘を吐き続けなければならない。

 

「レーヴェン? どうかしましたか」

 

歩みを止めた彼に、サクラコが振り返る。

 

「いえ。……少し、夜風が冷たいと感じただけです」

「もうすぐ礼拝堂です。温かいお茶でも用意させましょう」

 

サクラコの優しい声に、レーヴェンはただ「感謝します」とだけ答えた。

背負うべきは、沈黙。歩むべきは、孤独。

誰一人として彼の戦いを知らず、感謝することもない。

それでも足を止めないのは、その瞳が『まだ間に合う可能性』を捨てきれていないからだ。

 

(私が、やるしかないのだ)

 

たとえこの身が燃え尽き、左目が完全に光を失うことになろうとも。

少年は静かに決意を秘め、冷え切った礼拝堂の扉へと、その痛む足を進めるのだった。




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