キヴォトス観測記録 ——或る孤独な始祖帰りの受難—— 作:Eveki.
アビドス高等学校、対策委員会部室。
かつては多くの生徒で賑わっていたであろうその教室は、今やたった五人の少女が使用するだけの、広々として少し埃っぽい空間になっていた。
パイプ椅子に背筋を伸ばして座る御堂レーヴェン。
その顔色は砂漠での戦闘時よりもさらに青白く、ひどく消耗しているのは明らかだった。それでも、彼の姿勢は少しも崩れない。
「御堂くん」
正面に座る先生が、温かいコーヒーの入った紙コップを差し出しながら静かに口を開いた。
「一つ聞きたいんだけど。君がここに来たこと、ティーパーティーは知っているのかな?」
「……」
レーヴェンは差し出された紙コップを受け取り、微かに視線を落とした。
数秒の沈黙の後、淡々とした声が紡がれる。
「いいえ。事後報告になる予定です」
「やっぱり」
「ナギサさんやセイアさんに申請を出せば、手続きと説得に最低でも二時間は要します。その間に、アビドスが致命的な損害を受ける可能性がありました。故に、独断での介入を優先したまでです」
レーヴェンの所属は『古代記録管理委員会』の委員長。
しかしその実態は、トリニティの秘匿記録や禁書を管理する特殊組織であり、彼自身が『始祖帰り』という重要人物であるがゆえに、ティーパーティーの厳重な監視と保護下にあるに等しい。
「無断外出がバレたら、怒られるんじゃないの?」
壁際で愛銃の手入れをしていたセリカが、呆れたように息を吐く。
「その可能性は極めて高いです。ですが、誰かが傷つく未来を放置するよりは遥かに合理的かと」
「あんたねぇ……」
「……」
先生は小さく息をついた。
トリニティの上層部が彼を厳重に管理したがる理由はよく分かる。彼は未来を視る。そして、誰かが不幸になる未来を観測すれば、己の身を挺してでもそれを防ごうとするのだ。
だが、管理を強めれば強めるほど、レーヴェンは今日のように「誰にも頼らず、秘密裏に一人で無茶をする」ようになる。
それはあまりにも危険な悪循環だった。
「御堂くん。君、私の生徒にならないか」
「……はい?」
予期せぬ言葉だったのだろう。レーヴェンは微かに目を見開いた。
「正確には、連邦捜査部シャーレの当番になってほしいんだ。シャーレはキヴォトス全域における超法規的な権限を持っている。シャーレの所属として動くなら、ティーパーティーの煩雑な手続きを飛ばして、もっと自由に、そして安全に君が動けるようになる」
「……」
「それに」
先生は、レーヴェンの目の下にある色濃い隈を真っ直ぐに見つめた。
「シャーレにいれば、私が君に『寝なさい』『休みなさい』と直接命令できる。一人で抱え込ませないためにね」
「……先生。私のような曰く付きを組織に引き入れるのは、推奨しません。それに、私は大丈夫です。問題ありません」
息をするように嘘をつく。
だが、その言葉が全く信用に足らないことは、この場にいる全員が理解していた。
「大丈夫じゃないから言っているんだよ。それに、生徒を助けるのに理由なんていらない。君が誰かの未来を守りたいように、私も君の未来を守りたいんだ」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
レーヴェンは、眼帯で覆われた左目に微かな熱を感じた。未来観測の予兆ではない。ただ、不器用な彼の奥底にある感情が、確かに揺らいだのだ。
「……分かりました。その提案、お受けします」
「ありがとう、御堂くん。これからよろしくね」
「ん。歓迎する」
シロコが静かに頷いた、その時だった。
「うへ〜、おじさん疲れちゃったよ〜。砂漠の熱気はお肌に悪いねぇ」
「もう、ホシノ先輩ったら。でも、無事に終わって良かったです!」
「お疲れ様です、皆さん! 差し入れの冷たいジュース、買ってきましたよ〜☆」
部室の扉が開き、三人の少女が姿を現した。
小柄でどこか気の抜けた雰囲気を持つ、小鳥遊ホシノ。
豊満なプロポーションと明るい笑顔を振りまく、十六夜ノノミ。
そして、タブレットを抱え安堵の表情を浮かべる、奥空アヤネ。
「あっ、先輩たち! 遅いよ!」
セリカが弾かれたように立ち上がる。
「ご、ごめんなさいセリカちゃん! 東側の通信アンテナとヘリポートが同時に妨害工作を受けていて……復旧作業に手間取ってしまって」
「おじさんは退路の確保と、別動隊の足止めに行ってたんだけどねぇ。戻ってきたらあらかた片付いてたから、びっくりしたよ」
ホシノが首の後ろを掻きながら、室内に見慣れない人物がいることに気づく。
「おや? そこの見慣れない子は……」
「トリニティの、御堂レーヴェンくんだよ。今日、ピンチだったシロコとセリカを的確な狙撃でカバーしてくれたんだ」
先生の紹介を受け、レーヴェンは静かに立ち上がると、深く一礼した。
「初めまして。トリニティ総合学園、古代記録管理委員会委員長、御堂レーヴェンと申します。以後、お見知りおきを」
「トリニティの……えらい人なんだねぇ。うちの可愛い後輩ちゃんたちを助けてくれて、ありがとね。おじさんからもお礼を言わせてもらうよ」
ホシノの左右で色の違う瞳が、レーヴェンをじっと見つめる。
一見気の抜けた態度だが、その視線の奥には確かな鋭さが潜んでいた。
「いえ。私は当然の事をしたまでです」
「ふふっ、本当に助かりました! はい、これお礼の甘いジュースです! 糖分補給して元気出してくださいね☆」
ノノミが満面の笑みで、よく冷えた缶ジュースをレーヴェンの手に押し当てた。
「っ……」
不意の接触と、真っ直ぐに向けられる純粋な好意。
レーヴェンは明らかに動揺し、視線を泳がせた。他人の悪意や危機には即座に対応できるくせに、無条件に感謝されることにはとてつもなく弱いらしい。
「……ありがとうございます、十六夜さん」
「ノノミでいいですよ〜! 御堂さんも、なんだかお顔の色が悪いですし、たくさん飲んで休んでくださいね!」
「そうですよ。トリニティからわざわざ来てくださったんですから。本当に、何から何まで……ありがとうございます」
アヤネも深く頭を下げる。
次々と浴びせられる温かい言葉の連続に、レーヴェンはどうしていいか分からず、ただ無言でジュースの缶を見つめることしかできなかった。
「……皆さん、少し疲労が溜まっているようですね。私が周辺の警戒を引き継ぎますので、どうか無理はしないでください。少し、休んで――」
いたって真顔でそう言いかけた瞬間だった。
「「「「「あんた(君)(お兄さん)が言うな(言うなよ)(言うんじゃないよ)!!」」」」」
先生、セリカ、シロコ、そして様子を察したホシノまでが、見事なユニゾンで突っ込みを入れた。
「……何故ですか。私は極めて合理的な提案を――」
「だーっ! いいからあんたはそこに座ってなさい! 一番死にそうな顔してるのはあんたなのよ! ほら、このクッキーも食べなさい!」
セリカが半ば強引にレーヴェンを椅子に押し戻し、ノノミが買ってきたクッキーの袋を膝の上に押し付ける。
「ん。逃がさない」
シロコがレーヴェンの背後に回り、その肩をがっちりとホールドした。
「……あの、皆さん? 私は本当に大丈夫――」
「却下。はい、御堂くんはここで一時間仮眠をとること。これはシャーレの先生としての最初の命令だよ」
先生が悪戯っぽく笑う。
抵抗を試みようとしたレーヴェンだったが、アビドスの生徒たちと先生に完全に包囲され、どうにも逃げ場がなくなってしまった。
「……分かりました。その可能性(寝る未来)も、考慮しておきます」
諦めたように小さく息を吐き、彼は静かに目を閉じた。
不思議と、左目の奥で絶えず暴れ回っていた未来のノイズが、今はとても静かだった。
ここには、彼を縛る重い責任も、御堂家という名前もない。
ただ、温かい砂漠の風と、賑やかな少女たちの声があるだけだった。
それは、彼がこれから守っていくべき、何よりも尊い「現在の記録」の始まりであった。
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