約束の日。リッカは先日の武具店を再訪した。
人通りのまばらなアルナク通り。正面には件の武具店がある。長年の砂埃ですっかり白くなった石造りの壁に、同じく古びた木製の扉。
(あ、あれ? 閉まってる……?)
もう太陽も高く上がっているというのに、その分厚い扉には『本日休業』と書かれた板が掲げられていた。
まさか日を間違えたかとリッカは慌てる。聞き間違い、覚え間違い、あるいは数え間違い。どれも自分ならやりかねず、一度その可能性が頭をよぎると、不安が際限なく鎌首をもたげてくる。
「どうしよう……ってあれ?」
だがそんなリッカの不安をよそに、押した扉はいとも簡単に動いてギィという音を立てた。開いている。
「すいませ……ん」
気を取り直して、分厚い木造りの扉を押して店に入るリッカ。周囲をうかがう声色は、初めてここを訪れたときとまったく同じだった。
「おう、来たか」
そしてそんなリッカに応えたのも、数日前と同じ顔。
なんだ居るじゃないかとリッカは安堵する。店主の様子を見るに、どうやら日付も間違っていなかったらしい。
「休みの日にすいません。それで、その商人の人は……?」
そう。それこそが自分がここに来た目的である。そのためにプラウに当番まで変わってもらった。もちろんタダなんてことはなく、最近兵院内で話題の『
だがそんなリッカの真剣さを受け流すかのように、店主は気の乗らない声で番台の奥にあった扉を指さす。
「ここにいるぜ。入りな」
その言葉を受け、言われるがままに番台の裏へと回った。
どんな人なんだろう?
扉を開く直前、少しだけ逡巡した。商人というからには、普通に考えてある程度以上の年齢の男だろう。女の商人は少ないし、商会の正規会員になるには相当長い時間仕事に打ち込まなければならないはずだ。
しかし一方で、そもそもあの少年の存在自体が普通ではないことも確かである。普通ではない者を探ろうとしているのに、普通の推論が成り立つのだろうか? 信じられないほど強い少年が出てきたのだから、今度は信じられないほど金持ちの少女が出てきたって不思議じゃない。
そんなことを考えながら、リッカは扉をゆっくりと開いた。ギイという木の軋む音が静まり返った店内に響く。
だが扉を開いた先。応接間でもあるのかと思っていたそこには、椅子や机どころか家具ひとつない部屋が広がっており、中央には
傭兵だった。
「え……?」
どう見ても商人とは言えぬ容貌の相手に、思わず間抜けな声を上げるリッカ。場所を間違えていませんか? そう問おうとして後ろを振り向くが、
「バルテムの旦那、あまり部屋は汚さないでくれよ」
店主はそう冷たく告げると、こちらに視線を寄越そうともせずに扉を閉める。次いでガチャリという音。外から鍵を掛けられたらしい。
バルテムと呼ばれた男は、状況が理解できないリッカを一瞥すると、
「俺達のことを探っているらしいな」
その言葉を聞いてようやく、リッカは自らの過ちを理解した。
少年が商会で目撃されたという事実は、彼が
「――っ!」
慌てて運動式を結び、扉を蹴破ろうとするリッカ。だが扉を破るはおろか、輝式を結い上げるよりも先に男に組み伏せられてしまう。
顔を地面に叩きつけられ、口の中に土の味が広がる。捻りあげられた右肘の痛みを自覚したと同時に、リッカの耳に冷たいものが触れた。
「聞かれたことに正直に答えろ。答えなければ
短刀だった。
恐怖と混乱で頭が真っ白になる。リッカは下手な操り人形のように、ただひたすら問われたことに答えることしかできなかった。
「お前は誰だ? 兵院のどこに所属している」
「リ、リッカ……!
「巡市団だと? 兵院はなぜ審問団ではないお前にこんな捜査をさせている。仲間は?」
「ち、違う。私が勝手に調べてただけ。仲間は他にいないし今日だって非番で……」
押し当てられた短刀にわずかな力が込められ、耳裏に小さい痛みが走った。実際には少し血が出た程度なのに、まるで耳が半分残った部分だけで辛うじてぶら下がっているような気さえしてしまう。恐怖で頭がおかしくなりそうだった。
「そのふざけた答えに、
男の言葉にリッカの背筋が凍る。
考えてみれば当たり前だった。こんな馬鹿げた話、逆に真実味がない。非番の日にわざわざ興味本位で
「ほ、本当だって!! 信じてよ!」
リッカはたまらずに叫んだ。情けない姿だが、助かるため取れる手段はもうこれしか残っていなかった。
「私はただ、もう一度話したかっただけだって! 話して、ただあの子のことが知りたかっただけ!!」
男は手に込めた力を緩めず、低く短い声で問うてくる。
「もう一度? 以前は何を話した」
「エンリス!! 西の山脈を越えてずっと行ったらあるって教えてくれた! エンリス人は
声の出せる限りありったけ、まるで自らの腹の内まで一緒に吐き出すかのように叫ぶ。だがそれは、頭に浮かんだ言葉を次々と並べただけの支離滅裂な答えでしかない。自分は嘘なんてついてない、信じてくれ。ただそれだけを込めた叫びだった。
だが、そんな届くはずのない言葉が届いたのだろうか。
男は少し眉をひそめてナイフを引き上げたかと思うと、そのまま腰にぶら下げていた縄を手に取り、手際よくリッカの手を縛り始めた。
その後、男は何か書のようなものをしたため、店主を通じて誰かに届けさせた。その間リッカは縛られたまま転がされており、男はそんなリッカを何も言わずにただ腕を組んで見下ろしていた。
しばらく経ち、今度は男が書を受け取る。「立て」という言葉とともに、リッカは目隠しをされて獣車に乗せられた。目隠しをしていたから当然周囲は見えない。幕付き客車の奥に押し込まれていたから、仮に目隠しがなかったとしても似たような状況だっただろう。だが視覚以外、周囲の音や雰囲気から分かる事もいくつかある。
ひとつ、自分が連れて行かれた場所はエシュカの城壁の外だということ。
ふたつ、連れて行かれた場所はそう遠くないということ。
みっつ、そこは小高い場所であるということ。
よっつ、エシュカの正規の門を通らずに行ったということ。
最後の点については補足が必要だ。
街の四方にあるエシュカの門では、出入りの際に荷の改めがおこなわれる。旅人や行商人による違法な物品の持ち出しを監視するための措置であるが、これを実施しているのは他ならぬ修道兵院の巡市団なのだ。つまり荷改めの最中に大声を出せば、リッカを知る人に助けてもらえる見込みは十分にある。
だがその可能性は、このバルテムという男も十分に承知していたのだろう。
――この門は兵院の管轄ではない。妙な気は起こすな。
そう先んじて告げられた。
後になって思うと、獣車が通ったのは商会が管理する荷下ろし用の門だったのだろう。そこは犯罪者ならびに付随する物品の抜け穴になっており、兵院がたびたび商会へ抗議をおこなっていると聞いたことがある。
だが不安と恐怖でいっぱいだったリッカにはそんなことは思い付けず、周囲の気配に気を揉んでいるうちに獣車が停車する。バルテムに促され、目隠しをされたまま客車から降ろされた。
周囲から聞こえるのは木々のざわめきや鳥の鳴き声、そして扉を開く音。建物の中に入ったらしい。暖かな秋の日差しが遮られ、室内の冷たい空気に包まれるのを感じるリッカ。そのまま建物の中を歩かされ、おぼつかない足取りで階段を上がったところで、さらに扉が開かれた。
「今から目隠しを取る。そのまま動かずに目を開け」
男の骨ばった手が後頭部に触れ、目隠しが外される。
リッカは言われた通りにゆっくりと目を開いた。まず目に入ったのは、窓の外から差し込む光。ずっと暗闇の中にあったせいで目が眩むが、その強すぎる光の中にひとつの小さな影があることにリッカはすぐ気が付いた。
あの少年だった。
周囲は執務室のような空間。いくつもの紙切れと本が乱雑に置かれた空間の中で、少年は椅子に座ったままこちらを見上げている。
「まさかここまで愚かだとはな」
呆れ顔の少年が問いかける。彼の隣にはバルテムとあと一人、見慣れない
「なぜここに来た」
少年が再び口を開く。
なぜかと言われれば、知りたかったからだ。少年の素性、強さの理由、エンリスやあるいは
「まだ、名前を聞いていない」
こちらはあの日、去り際に名を尋ねられ答えた。ならば自分だって、彼に同じことを聞き返しても良いはずだ。そんなことを思うリッカに対して、少年は観念したように小さくため息をつくと、
「フォルトハル。皆からはフォルと呼ばれている」
そう答えた。
まだ声変わりもしていないが芯の通った発声。しかし、その落ち着きはらった態度と言葉遣いはどこか学者か教父のようで、その落差がリッカに喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出させる。
「君……本当に子供?」
そう、これこそが問題の核心だ。
強い人間はいくらでもいる。物知りだって同じ。宝物庫を襲う命知らずや、商会とつるんで何かを企む謀略家だって探せばどこかにいるだろう。だが、それが子供となると話は別である。フォルの特異性とは、つまるところ彼が子供であることに大きく
「フォルはね、エンリスの生き残りなのさ」
だが答えたのは少年ではなく、その隣に佇んでいた
「この人、見かけによらず二百歳なんだよね」
理解が追い付かないリッカ。
まず自分の耳を疑った。だがそれが比喩や大袈裟な言い回しの類ではないことに気付くと、堰を切ったかのように次の疑問が湧いてくる。そんなことが起こり得るのか。どうやってそんなことができたのか。歳を取らないのか、はたまた若返ったのか。
「な、なんでそんなことが――」
だが次の瞬間、そんなリッカの疑問をかき消すように、低く籠った音が小さく響いた。
「トルト、喋りすぎだ」
少年に睨まれ、
「ともかく、リッカといったな? あいにく僕は忙しいんだ。世間話なら、そこのトルトとでもやっておけ」
なんで僕が、と
「待て。こいつは解放していいのか? 連れて来るときに尾行はなかったが、兵院に帰して余計なことを喋られると厄介だぞ」
鋭い目付きでこちらを一瞥するバルテムにトルトが返す。
「本人曰く勝手に行動してるだけなんでしたっけ? もしそうなら家に帰さない方がかえって騒ぎになりますよ」
「嘘をついている可能性もあるだろう」
バルテムは厳しい表情を崩さず、トルトは身振りを交えた語りで応じる。対照的な二人だったが、いま論じられているのはリッカの処遇。当の本人は余計なことを言わぬよう押し黙ることしかできなかった。
そしてこの議論は、最終的に割って入ったフォルの一言によって収められることとなる。
「こいつは間者ができるほど頭が良くない。解放してやれ」
諦めたように告げるフォルに小さく安堵のため息をつくリッカ。どこかで聞いたような言葉だったが、助かるのであればそれに越したことはない。
フォルの言葉を受けて、バルテムがリッカの縄を解く。だがそれを指示した少年は、その様子を見届けるよりも前に背を向けてこの場から去ろうとする。
「クレーヴァウのところに行ってくる。留守を頼む」
去り際にそう言って、少年はバルテムとともに部屋の外へ行ってしまった。後に残ったのは、リンという鈴の残響だけ。
「ま、待って――」
「はいはい、君はだめ。フォルの邪魔しないの」
追いかけようとしたリッカだったが、トルトに肩を掴まれて冷静になった。拘束を解かれたとはいえ、今はまだ彼らの影響の下にある。下手な行動はとれなかった。
「あの子はどこ行ったんですか?」
「仕事だよ。ただし詳細はちょっと言えない」
「……それって、もしかして商会に関係してます?」
「そうだよ。商会からの依頼。といっても、仕入れや買い付けではないけどね」
流石にそれは分かっている。おそらく、表には言えない仕事であろう。それこそ……
「大審会を相手に何かしたり、ですか?」
その問いに、トルトは「へえ」と小さくこぼす。
大審会、すなわち西方世界の正義と審判を司る、リッカたち修道兵院の上部組織だ。修道兵である自分をやけに警戒していたことと、少年が大審会の宝物庫を襲撃したという事実からの推測だが、当たりだったようだ。
だが見抜かれたトルトの側は、あっけらかんとした様子でそれを認める。
「ご明察。僕らは商会からの依頼を受けて大審会に対する工作活動をしている。特に手荒い感じのヤツをね。ま、傭兵の裏稼業みたいなもんさ」
「……随分あっさり話しますね」
それともこれは彼の話術なのだろうか。重大な内容をあまりに自然な声色に乗せて語るせいで、自分がまんまと騙されているような錯覚さえ覚えてしまう。
「別に言ったっていいさ。商会に仕掛けられてるなんて
「なんでそんなことをしてるんですか」
「それは商会の話かい? それとも僕らのこと?」
「どっちもです」
トルトは「ふむ」と小さくこぼすと、そのまま部屋に置いてあった椅子を引き寄せ、背もたれに抱きかかえるような形で反対向きに腰を下ろした。
「まず、僕らがこんな事している理由は簡単だ。生きるためだよ。
更に上。まだ登場人物が居るというのか。
話がややこしくなってきたが、ここまでは何とかついていける。つまり、商会は何者かの手引きによって大審会と対立しており、それを受ける理由は、エシュカにおける大審会の影響を排除したいがため……ということだ。
「その更に上って、誰なんですか」
「王室だよ。ワールディルのね」
リッカは驚き、少しの間返す言葉が見つからない。まさか王室まで出て来るとは、随分と話が大きくなってきた。
商会も大審会も、エシュカで暮らしている以上は何らかの形で接点がある。普段の買い物、街に行き交う商人、あるいは季節ごとの祭事、治安維持を担う修道兵。だが王室ともなれば日常的な関わりはほぼ無く、まさに雲の上の存在だ。自由都市エシュカの民であれば尚更である。
「王は大審会から統治権を認められている立場だからね。もちろん実際に戦えば圧倒的に国軍の方が強いよ? でも大審会と対立して正統性を失えば、王国なんていとも簡単に崩壊してしまう。部下や領主が付いてこないからね。つまり、王室は表立って大審会に手が出せない。そして手が出せないから、商会にその汚れ仕事をしてもらおうってわけさ。エシュカだけじゃなくて、別の都市でも同じようなことをやってるって聞くよ」
その話はリッカには少し難しい。だが、結論の部分は分かる。
王室は大審会に頭が上がらない。だから商会に汚れ仕事を依頼する。一方の商会は、エシュカから大審会を追い出したい。だから王室と協力する。
実感が湧かないくらいに壮大な話だが、ひとまずこれで全てが繋がった気がした。商会での目撃情報。屋根の上の少年。プラウから教えてもらった宝物庫の襲撃事件。
「あの子、それで大審会の宝物庫を襲ったんだ」
だがその繋がった感じは、単なる気のせいだった。トルトはリッカの言葉に少しばつが悪そうに目を逸らすと、
「あ、いや……
耳を疑った。仕事として生きるために裏稼業をやっているのかと思いきや、仕事と何も関係のないところで宝物庫を襲撃するなんて気が触れている。
「な、なにそれ。仕事でもなく勝手に襲ったんですか?」
「どうしても手に入れたい物があったんだよ。ただこれは僕の口から言うのは、ちょっとやめておこうかな。フォルの個人的なことを勝手に話したら怒られそうだし。興味があったら君の口から聞いてみるといいよ。なんかフォルも君の事そこまで悪く思ってなさそうだったし、教えてくれるかもね」
そこまで悪く思っていない。その評価は少しくすぐったくなる反面、言葉通りに喜んでいいか自信がない。
弱いくせに深く考えず探りを入れて捕まった奴なんて、彼にとっては後にも先にも自分くらいだったのだろう。悪く思っていないというのは、変な形の石ころを見つけたときの気持ちに近いのではないか。というか、普通に考えてその可能性が高そうである。年齢、知識、実力。どれをとってもフォルとリッカの間には圧倒的な開きがあった。
(私も、もっと強かったら……)
もっと強かったら、彼の横に立てるのだろうか。
横に立って、同じ場所から同じ景色が見えるのだろうか。
「ねえ、トルトさん。私をここで鍛えてくれませんか」
思い切って言ってみる。
それはあまりに馬鹿げていて、考えなしの願い出だった。あまりの突飛さに、流石のトルトもぽかんとしており、その顔を見て『やった、ようやく一泡吹かせてやった』だなんてズレた達成感すら浮かんでくる。
「ダメだよ。もう十分話しただろ。さっさと帰りな」
トルトはすぐに表情を引き締めると、少し真面目な声色でそう返した。だがリッカも引き下がらない。
「私、強くなりたいんです。今は修道兵やってますけど、剣の腕を上げて、いつかは旅に出たいんです。だから、お願いします」
「とは言ってもね。見込みがあれば別かもしれないけど……。兵院ではどれくらい強いの?」
「つ、強くないです……。だから強くなりたいんです」
「他に得意なことはある?」
「え、えっと正直なにも……食べ物の好き嫌いがないくらいで……」
「固有式とかは持ってる?」
「……固有式ってなんでしたっけ?」
リッカが答えるたびにトルトの頬が引き攣っていく。今までに見たことがないくらいの物凄い馬鹿がいる。そう言わんばかりの表情だった。
そんなやり取りに耐えかねたのか、トルトはついに頭を抱え、大きくため息をついた。
「固有式っていうのは、ごく一部の人だけが生まれながらに持っている輝式のことだよ。これがあると戦いをかなり有利に進められるんだ。持ってる?」
「持ってない……です」
リッカの返答に「そうだろうね」とこぼすトルト。
「固有式は兵院の講義でも絶対出てくるはずだ。そこまで強くなりたいのなら、授業はちゃんと聞いておくべきじゃないか?」
完膚なきまでに言いくるめられた。実力はもちろん、知識も口先も足りていない。そんな何一つ良いところがない自分のことを意識すると、リッカは急にいたたまれない気持ちになった。
「分かったらもう帰りな。門限になっちゃうよ」
トルトの言っていることは一から十まで正しい。実力もなければ見込みもない奴に労力を割いて、親切な指導をしてやる理由なんて彼らは持ち合わせていない。トルトが首を縦に振らないのは当たり前なのだ。そればかりか、周囲を不必要に嗅ぎまわっていた自分を殺さずに帰そうとしてくれているだけで十分に良心的だ。馬鹿なリッカにだってそれくらいは分かる。だが、
「どうしても……だめですか」
だが、ここで帰ってしまうと、フォルと自分との繋がりが永久に断ち切れてしまう。そしてその繋がりが切れてしまうと、
そのまま落ち込み、うつむいてしまうリッカ。少しの間、気まずい沈黙が場を支配する。
「はぁ……ホントに困ったお嬢ちゃんだ」
その沈黙に負けたのか、トルトがにわかに口を開く。
「仕方ない、特別だ。追試といこうじゃないか」
その言葉に思わず笑顔になるリッカ。だが心のどこかで、そんな調子のいい自分が嫌でもあった。
「おっと、喜ぶのはまだ早いよ。覚悟しておいてね。普通に危険だから」
トルトはそう言うと立ち上がり、部屋の隅に乱雑に置かれていた本を一冊取り上げると、ぱらぱらとページをめくっていく。やがてその手があるページで止まったかと思うと、ポケットから紙切れを取り出した。
一体何が始まるんだ。そんなリッカの不安をよそに、トルトは机の上にあったペンを握ると、慣れた手つきで本の内容を紙切れに書き写した。
「はいこれ。ちなみに次の非番はいつ?」
そう聞きながら紙切れを渡してくるトルト。
「確か五日後だったと思いますけど……」
それが今の話にどう関係するのか分からないが、ひとまず返答と引き換えに紙切れを受け取る。そこに記されていたのは達筆な星録文字だ。だがその綴りはフェルブ語のそれとは全く異なっており、聖史記や教科書でお馴染みの、しかしリッカにとって不慣れなものである。
talbart³ lirmenatir³.
las⁵ takma³ hal³ tarttir³,
dem murpas⁵ hal⁵ moddir⁵.
las⁵ fokma³ hal³ furstir³,
dem lirmas⁵ hal⁵ heptir⁵.
その文は、エンリス語で書かれていた。
「な、なにこれ」
「
「
言葉を諳んじれば、夕日が肌に当たる感覚さえ蘇ってくる。
「お、よく知ってるね。フォルから聞いたのかな。じゃあ、ここで書かれている内容が異説なのも知っているかい?」
リッカは小さく頷く。『知っている』というか、『ついこの間知った』が正しいが、とにかくこの話を外で軽々としてはいけないことは分かる。
そんなリッカを見たトルトは「じゃあ話は早いね」と小さく笑い、試験の内容を静かに言い放った。
「僕からの追試は、次の非番の日までこの紙切れを綺麗なまま持っておくこと。次ここに来たときに、この紙切れを同じような状態で持って来れたら、訓練の件をフォルにお願いしてあげるよ」
そう言って笑うトルトの笑顔の奥には、兵院のいじめっ子達よりもずっと強い意地悪さが見え隠れしている。
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