結論から言うと、
包み焼き自体は、至極ありきたりなものだ。薄く伸ばした
だがこのときのリッカには、その味覚もどこか遠く感じられる。
――トルトから預かった紙切れが、ベティカに勘付かれていた。
なぜ気付かれた? プラウに助けられなければ確実に事が露見していたし、あそこまで強引に仕掛けてくるのであれば、兵院に帰ったあとも同じことが起こるのではないか? 万が一見つかったらどうする? そうなったら自分を庇ったプラウにまで火の粉が飛ぶ可能性だって――。
そんなことで頭が一杯のリッカは、プラウとの用事を終えると、即座にフォルの屋敷へ向かうことにした。その時の自分は、さぞ不安そうな顔をしていたのだろう。別れ際、「何かあったら私に言いなよ」だなんてプラウから心配される始末。
そうしてリッカは、再びフォルの屋敷の前にやって来ていた。
なお北の検問はこの間と同じように通過した。いや、持ち込んだときよりもずっと簡単に終わったと言うべきか。この日は見知らぬ修道兵が検問に当たっており、荷物が改められることもなければ、会話も二三言しか交わされなかった。前回、外出理由でしどろもどろになったこともあり、今回は頭を捻って『趣味の薬草探し』という嘘を考えていたものの、結局それも使われずじまい。
玄関に吊るされた呼び鈴の紐を引くと、少し間を置いてから扉が開かれる。
「はいはいどちら様……って、ああ」
戸を開けたのは、リッカにこんな厄介な紙切れを渡してきた張本人……トルトという
「隠し通しましたよ。五日間」
そう言って紙切れを押し付けるリッカ。だがトルトはさも当然といった表情で、
「あー流石にちょっと簡単すぎたかな?」
そう感慨なくこぼす。
「どこがですか……。こっちは仲間に疑われて戦いにまでなったんですよ」
「ふーん。まあちゃんと隠せたなら別にいいよ。すぐに逃げ出したり、兵院にチクったりしないかを見てただけだし。力づくで何とかするでも、涼しい顔して嘘をつくでも、ズルしてどこかに隠しておくでも、とにかくちゃんとバレずに隠し通せたならそれでいい」
トルトはそう言いながら、手に持った紙片の表と裏を見る。
だが一方のリッカの頭は混乱していた。この男は『ズルしてどこかに隠しておく』と確かに言った。だがそれは――
「インクが消えるから、どこかに隠すのはダメなんじゃ」
「いや、あれ嘘。そんなインクないよ。その逆の、
「……は?」
「まあ君は別の方法で隠し通せたんだから、別に良いじゃないか。それだって立派な合格さ」
流石にかなりカチンと来た。そんな簡単な方法があったというのに、自分はまんまと騙されてあんな危険な目にあったというのか。
「ちょ、ちょっと流石に……!」
流石にそれはひどくないですか。そう反論しようとするも、トルトは「じゃあ約束だ。来なよ」と短く告げて屋敷の中へと歩き出してしまう。リッカは言葉を飲み込み、仕方なくその後を追った。
トルトの後を歩き、石造りの玄関に入る。窓が少ないせいか、屋敷の中は昼だというのに薄暗い。以前に訪れたときは『装飾が少なく殺風景』という印象だったが、よくよく見てみれば細かい手入れが行き届いており、誰の趣味なのか動物の剥製まで飾られている。
トルトは吹き抜けになっている階段を上り、リッカもそれに続いた。
この屋敷は玄関の吹き抜けを中心として、その周囲の一階と二階にいくつもの部屋が設けられている。その数はちょっとした宿ほどもあるだろう。だが、部屋の数に比して、この屋敷からは人の気配がほとんど感じられなかった。
そしてトルトは階段を上った正面の部屋の前で立ち止まったかと思うと、ためらうことなく扉に手を掛け、勢い良く開いた。
「トルト、何度言わせるんだ。ノックくらいしろ」
部屋にはフォルがいた。椅子に座って分厚い本に視線を落とし、そのままこちらを振り向くこともせず口を開く。
「お客さんですよ」
少年はトルトに言われてようやく頭を上げると、リッカの姿を認めて怪訝そうに目を細めた。
「お前、また来たのか」
「なんか僕らに戦いの稽古つけてほしいんですって」
代わりに答えたのはトルト。約束通りの口添えとはいえ、いささか簡素すぎる進言だった。まさかこれで終わりなのか。ベティカに疑われ、叩きのめされてまでして得られた口添えがこれでは、いくら何でもまったく割に合わない。
「やめておけ」
そしてそんなリッカの懸念通り、返答はつれないものだった。あまりに短いフォルの言葉。だからリッカも短く問う。
「なんで」
「お前みたいなのには向かない」
異論を断ち切らんとばかりに再度短く言い切るフォル。だがリッカも譲らなかった。
「筋は悪くないって言ったの君でしょ」
「そういう意味じゃない。剣を続けるなら兵院でもできるだろう」
「
もちろん、兵院に所属しながら非番の日に剣を振ることはできる。サボりがちなせいで胸を張っては言えないけれど、リッカだって多少はそういうこともしている。
けれど兵院に所属する以上、日常の大半が街を歩き回る時間と、城門でひたすら立っている時間に費やされるのだ。残った時間に独力で鍛錬を積んでも、才能のない自分はようやく人並みになるのが関の山。だがそれでは駄目なのだ。
「今回の件でわかった。私、もっと強くならないといけない。ベティカやグシェル……ううん、それよりもっと強い人と対立してしまっても、跳ね除けられなきゃいけない。そうじゃなきゃ、見たい景色を見ることができないし、知りたいことも知れない」
兵院で落ちこぼれてるようでは、旅なんてできない。ベティカに負けているようじゃ、遠くの景色を間近に見ることなんてできない。だから、強くなりたい。リッカの正直な思いだった。
その思いが届いたのかは分からない。少年は少し沈黙したあと、諦めたようにため息をつくと、
「……そこまで言うなら付いて来たらいい。ちょうど今から仕事の予定がある。ただし見るだけだ。邪魔はするな」
こちらをまっすぐに見て、そう告げる。
正直なところ、すこし物足りなかった。なぜならフォルが持ちかけてきたのは訓練ではなく単なる見学。見るだけで剣が強くなれるとはリッカだって思っていない。
だが、それでも良かった。見学だろうが見習いだろうがリッカは近づける。フォルのいる世界に少し近づけるのだ。そしてそれは、自分の夢や知らない世界へ近づくことに他ならない。
だからリッカは黙して頷いた。確かに物足りない。物足りないが、今の自分には十分すぎる前進だと思う。
だが今度は、そのやり取りを横で聞いていたトルトが、表情を引き攣らせながら異論を挟んだ。
「ま、まさか、ニスハムの件に同行させるつもりですか? 流石にそれはちょっと……」
ニスハム。その響きに聞き覚えがあった。確かエシュカにある東門近くの一画ではなかったか。だが自分に分かるのはそれだけであり、フォルもそんなリッカへ何か説明をするわけでもなく、
「別にいい。もとから僕一人で入って終わらせるような小さな仕事だ。付き添いが一人増えたところで何も問題はない」
そう言って手にした本をパタンと閉じる。トルトの異論やリッカの疑問をまとめて遮断するかのようだった。
そしてほぼ同時に、律塔の鐘が低くここまで響いてくる。フォルはその鐘が鳴り終わるのを待って立ち上がり、部屋の出口へと歩いていくと、
「どうする。来るのか?」
こちらを振り返りそう尋ねた。
そしてリッカはもちろん付いていくことにした。
エシュカに向かうのはフォル、トルトとリッカの合わせて三人。トルトが戸締りを終えて屋敷の玄関に鍵を掛けたときには、時刻は
だがこの日は今にも雨が降らんばかりの曇天。太陽の位置は分からず、曖昧な明るさと律塔から響いてくる鐘の音だけが時刻を知る手掛かりとなる。
そんな灰色の雲の下、坂を下ってエシュカへと歩く二人と、その背中を見ながら後を追うリッカ。トルトが何やら仕事か何かの難しい話をペラペラと喋り、それにフォルが口数少なく返す。彼等にとってはこれが普段の光景なのだろうか。少年に話し掛けるトルトは見た目の上では二十ほども歳が離れているというのに、まるで歳が逆の兄弟のような振る舞いだった。
一体どこに向かうのだろう。
そんな二人の背を見ながらリッカは思う。ニスハムがどうとか言っていたから、北門から入って南へ向かい、その後
だがそのリッカの予想は直後に外れてしまう。北門が見え始めるよりも前に、フォル達は斜面の草地に歩み入ると、そのまま道なき道を歩き始めた。リッカはもうわけも分からず後を追うしかない。二人は下り坂が平地に変わってもしばらく歩き続け、やがて、その眼前に高くそびえる人工物が現れた。
それは、エシュカの北壁だった。
いつもより低い雨雲に届きそうなほど高い石の壁。長い間外敵に攻められてこなかったからだろうか。城壁の上に本来あるべき兵の気配はなく、ところどころ石が崩れて穴が空いている箇所さえある。
「えっと――」
なんでこんな場所に。リッカがそう質問しようとした瞬間、トルトが当たり前のように跳躍した。
地を蹴った音がしたかと思ったら、もう跳躍の頂点付近におり、そのまま涼しい顔をして城壁の上へ取り付く。
彼が使ったのは言うまでもなく光輝術。筋力を強める運動式と、骨や肉を強靭化する剛体式、その合わせ技である。つまり素直に北門を通って、明らかに怪しい三人組として検問を受けるのではなく、もっと簡単に城壁を飛び越えてしまおうという魂胆らしい。それはリッカにも分かる。分かるが、
「こ、こんな高さ届かないって!」
思わず隣のフォルに助けを求める。
そうだった。リッカがどれだけ高く跳んだところで、せいぜい二階の屋根程度。しかし今見上げているエシュカの北壁はそれよりも一回り高く、少なく見積もっても三階分くらいはあった。
リッカがこうなることをあらかじめ予見していたのか、はたまたその場の思いつきか。どちらかは分からないが、フォルは涼しい顔を崩さぬまま、
「合わせろ。力が足りない部分は僕が強めに跳んで引き上げてやる」
そう言ってこちらへ手を差し出してきた。
まるで女のように白く
「ん? お前……」
だが手を握られた少年は、そんなリッカのことなど知らず、こちらを凝視して少しだけ固まる。何かを考えるかのように、
「……まあいい。跳ぶときは上半身にも剛体式を結ぶのを忘れるなよ」
フォルは気を取り直したように告げると、すぐに輝式を結ぶ。
刹那、リッカの手に激流のような
「いくぞ。
フォルがエンリス語で数をかぞえると、発声に乗った
全身で感じる加速度と風。結んだ右手が強く引っ張られる。フォルの忠告通り腕にも剛体式を結んでおいて良かった。そうでなければ、間違いなく肩が抜けていただろう。
放物線をなぞるように宙を行く二人。その軌跡が頂点を超えると、それまでの上昇が時間を反転させたような落下へと変わる。
そしてフォルは難なく着地。リッカもふらつきながら着地に成功し、城壁に降り立った。
繋いでいた手を離し、周囲を見渡してみるリッカ。普段ここに常駐しているのは商会が雇っている傭兵団だ。修道兵院ではない。だから自分がこんな場所を歩いているところを目撃されると非常に厄介だったが、幸いにして周囲に自分達以外の人影はなかった。
都市外との戦争が減って彼らの監視も手薄になっているのだろうか? だが対外事情を知らないリッカにとって、そんな人の少なさについて思案を巡らせるよりもずっと魅力的な光景が目の前に広がっていた。
遠く東まで続く地平線と北に広がる丘陵地帯、そして眼下に広がるエシュカの街並み。頭上にはひと続きの雨雲がどこまでも連なっており、その下に広がっているであろう大地の大きさを間接的に実感させてくれる。
「すごい……」
リッカたち修道兵はこの場所への立ち入りが許されていない。つまりこの景色は、フォル達と居るからこそ見られたのだ。これだけでも彼らに付いて行った甲斐があったとリッカは思う。
その後、驚いたことに二人は当たり前のように城壁を歩いて移動した。城壁を管理しているのが商会であり、二人は商会の依頼を受けて仕事をしているのだから当然だ。加えて地上からの視線が届きづらいと来れば、宝物庫の件で兵院から追われているフォルが城壁を使わない理由などない。
だがその事実を認識してもなお、子供のような見た目のフォルが、当然のように傭兵達とすれ違っている姿はどこか非現実的に映る。
そんなフォルの後ろ。そのどこか遠い背中を見つめていると、不意にリッカの鼻に冷たいものが当たった。
雨だ。
慌てて外套のフードを被り、悪くなった視界と滑る足場に戸惑いながらも二人の後を追っていると、あっという間にエシュカの東門へと辿り着く。
どうやらここからは地上を歩いて目的地に向かうらしい。城壁から地面へ渡された梯子に最初に足を掛けたのはトルト。登ったときのように光輝術で跳んで降りないのかと思ったが、眼下にひしめく人影を見るとそれも納得だった。ここでそんなことをしようものなら、通行人や修道兵の注目の的である。
そしてトルトに続いたのはフォル。リッカもそれに続こうとするが、
(あ、ヤバっ)
思い出す。東門のすぐそばであれば、検問をしている兵院の者と鉢合わせるかもしれない。二人と居るところを誰かに見られてはまずい気がして、リッカはフードをいっそう目深に被り直した。
雨に濡れて光る梯子におっかなびっくりで足を掛け、何とか地上へ降りるとそのまま三人揃って東門の前を横切る。そこでは間違いなく兵院の誰かが検問をしていたのだろうが、このときのリッカには怖くてフードを上げることができなかった。
そこからほんの少し歩いて大通りの裏手に回ると、大小さまざまな宿屋が立ち並ぶ区画に出る。
(そうだニスハムって……)
思い出した。ニスハムは宿町だ。兵院で暮らしているリッカにはあまり縁がないが、行商人や貨物の運搬人など、エシュカを訪れる多くの人はここの区画で宿を求める。だがこんな場所に何の用があるのだろう? リッカが疑問に思うと、それに呼応するかのようにフォルがこちらを振り返った。
「ここで分かれるぞ。バルテムが辻で見張っているから合流しろ。それと」
「分かってますよ。
「ああ。連絡は後処理の奴らが優先だ。こっちは現場を軽く探ったとしても
「相変わらずお強いことで。じゃあ自分は失礼しますよ」
トルトはそう言って面倒くさそうに軽く手を上げると背中を向けて歩き出し、そのまま角を曲がって見えなくなってしまう。この段になっても、リッカだけが何をするのか分かっていない。ただ、ここでトルトとは別行動になることと、律塔の鐘が鳴れば開始ということは分かる。それと、
「開始まで少し時間がある。路地裏にでも隠れるぞ」
それと、何か危険なことが始まることも。
オリジナル・自サイト版。イラスト多めで変更履歴も見れます
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カクヨム版
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