出来れば、1か月に3話程度、更新を目指しています。
深海地下施設。円柱状の培養槽の中で、個体――コード・マガツは、虚無の中にいた。
「コード・マガツ。適応率、限界値突破。……だが、自我の形成が全く見られない。ただ環境に適応するだけのバケモノだ。廃棄処分にしろ」
研究員が毒ガスの注入スイッチへ手を伸ばした、その時だった。
「待て。」
暗闇から現れたのは、世界の理を統べる「繋がる者」だった。背後には蟲の頭領たちが、影のように控えている。
研究員は狼狽しつつも言葉を継ぐ。
「し、しかし、自我のない器では、あなたの器にはなり得ません。これは単なる肉塊です」
繋がる者は、硝子越しに龍狼の閉ざされた瞳を覗き込む。その瞳の奥には、彼自身ですら予測できない「何か」が蠢いていた。
「……面白い。自我がないのではなく、理解できぬほど、深く沈んでるみたいだ。このまま様子を見――」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
繋がる者の視線の先で、マガツの瞳がカッ、と見開かれた。
それは、プログラムされた適応ではない。
自身の存在を「廃棄」しようとする外敵、そして自分を「器」として定義しようとする絶対者たちへの、純粋な――個としての拒絶。
「……喰らう」
培養槽内の細胞が、一斉に逆流し始める。
それは繋がる者が意図したわけではない。自身の生存のために、目の前の現実すべてを強引に書き換える、荒ぶる意志の力。
ガラスが、内部からの凄まじい圧力で爆発した。
周囲の研究員たちが悲鳴を上げる間もなく、龍狼の《獣》の爪がその喉元を貫く。
繋がる者は、飛散する培養液の中で、初めて自身の期待を超えた「獣」の産声を聞いた。
「ほう。私に敵意を向けるか。……おもしろい。どこまで遊べるか、見ものだ」
龍狼は、繋がる者に向かって飛び出した。
それは誰の指示でもない。龍狼自身が「生きる」ために選んだ、最初の一歩だった。
龍狼は、獣の毛並みと蟲の節足を露わにした異形の拳を振り上げ、目にも留まらぬ速さで男の顔面へと叩き込んだ。
ドォォォォン!!
施設全体が轟音に包まれ、繋がる者の立っていたコンクリートの床がクレーター状に陥没する。
しかし、繋がる者はその場に立っていた。わずかに頬に赤い線が走り、一筋の血が滴り落ちる。
「……驚いたな。私に傷をつけるか」
繋がる者が目を細めた瞬間、龍狼は迷わず施設の外へと跳躍していた。
異常事態に気づいた配下たちが武器を構えるが、繋がる者は手を挙げてそれを制する。彼は自身の頬を伝う血を指で拭い、それをゆっくりと舐めた。
「追うな。あいつなら私の遊び相手になるかもしれない。……自由にしてやれ」
(その後:廃墟の街にて)
追手から逃れ、孤独な逃亡を続けていた龍狼が辿り着いたのは、日本から見放された無法地帯――「中」だった。
そこは、強さだけが唯一の法である暴力の墓場。
龍狼はまだ「禍津龍狼」という名さえ持たない、ただの異形のキメラだった。身体は飢えと適応の苦しみで悲鳴を上げ、理性の制御も効かない。ただ本能が命じるままに、荒くれ者たちを喰らい、その「強さ」を自らに吸収し続けていた。
「なんだ、この化け物は……!」
「殺せ! 獣の首を獲れ!」
猛者たちが銃火器を構え、龍狼を包囲する。
だが、龍狼にとってそれは「障害物」に過ぎなかった。彼は獣の咆哮を上げ、返り血を浴びながら荒野を駆ける。
その戦いの中で、彼は周囲の人間たちを「同類」ではなく「喰らうべき肉」としか認識していなかった。まだ、彼の中には「音楽」も「人間」という概念も欠落していたからだ。
彼は中で、最も凶暴な獣として君臨した。
その戦いぶりは、地獄の業火そのもの。
だが、どれだけ強者を喰らっても、どれだけ力を行使しても、龍狼の胸の奥にある「空虚」が埋まることはなかった。
ある夜、死屍累々の山の上で、龍狼はふと立ち止まる。
空を見上げ、彼は自分の掌を見た。そこには、脱走の際に受けた傷跡と、返り血が混じり合っている。
(俺は……何のために、殺している?)
問いに対する答えはない。
ただ、自分を「器」として弄んだ繋がる者への底知れぬ憎悪と、自分の中にある得体の知れない「飢え」だけが、冷たい風の中にあった。
龍狼は、中を抜け、さらに先の街へと足を踏み入れる。
そこで彼が瓦礫の中で見つけたのは、古びたオルゴールだった。
ゼンマイを巻く。チリ、チリ……と奏でられる不協和音。
その音を聴いた瞬間、十鬼蛇で培った「殺意」が、初めて「感情」へと形を変えて溶け出した。
彼はその時、初めて自分の「心」が、血の味ではなく、この旋律を求めて飢えていたことに気づいた。
だが、その安らぎは長くは続かない。彼が奏でる不協和音に惹きつけられたのは、人間だけではなかった。
彼を追う「蟲」の足音。
龍狼は泥にまみれたオルゴールを抱き締め、暗闇の中を走り出す。
その背中には、獣の爪痕と、かつて人間だった者たちの魂の墓標が刻まれていた。
「俺は、殺すことでしか、自分を証明できないのか」
問いへの答えは、荒野の風にかき消される。
彼は拳願仕合という名の、さらに巨大な地獄へと歩を進める。
そこには、自分を狂わせる「旋律」を共有する、八つの毒花が待ち受けていた。