(茜と葵の奴。相当喜んでたな~。あの二人の女の子らしさが全開に溢れる……笑顔。……可愛かったな。)
篠原は、所々が光に照らされている廊下を歩く。
窓から見えるぼやけた外の景色を、ぼんやりと見つめた。視力の悪い俺の目には、世界はいつも、輪郭の溶けた水彩画みたいに映る。それでも、四角く切り取られた青空と、その色のコントラストくらいは、はっきりとわかった。
モクモクモクと、空高く湧き上がっていく入道雲を眺めながら、とある場所に向かう。それは、普通の学校では行くのが禁止されているか。もしくは、許可がないと立ち入れない場所である。
(それにしても、廊下だけでも、本当に長いな……。俺の視力じゃ、この廊下の先まで全くと言っていいほど見えないよ)
そもそも、この学園は無駄に広い。そして、何もかもが立派で贅沢。ロイドだけが暮らす街の、ロイドだけが通う学園で俺はその規模をこうして廊下を歩くたびに嫌でも思い知らされる。
6分ほど歩き、篠原は階段を上がる。4月だというのに、額には、じんわりと汗が滲んでいた。
(……暑い)
そんなことを思いながら、篠原は、目的地に着いた。
そして、ドアノブを捻る。
―――ん~~!
ドアに体重をかけて、押し開いた、その瞬間―――
風が全身を包み込んだ。
(気持ちいい……)
汗ばんだ肌を、初夏の風が、さあっと撫でていく。こもった廊下の熱気が、一瞬で、洗い流されるみたいに。
篠原は、屋上に来ていた。
普通の学校じゃ、入ることすら許されないここは、綺麗に整備され、ロイドたちの集まりの場になっていることも多い。広々とした空間に、ゆったりと配置されたベンチ。視界を遮るものは、ぐるりと囲む柵のその向こうに広がる空だけ。眼下には、ぼやけてはいるが、ロイドだけの街―――音羽市の街並みが静かに横たわっている。ここからの眺めだけは、視力の悪い俺にも、不思議と、心地よかった。細かいものが何も見えないぶんただ、光と、風と、色だけが、まっすぐに飛び込んでくる。
世界が優しく輪郭をぼかしてくれているみたいだ。篠原は、端っこにある、青色のベンチの方向に向かう。
プランターにはたくさんの種類の花が植えられており、所々、綺麗な花が満開に咲いていた。色とりどりの花びらが、風によりゆらゆらと揺れている。
篠原は、その光景に、ふと、懐かしさを感じた。
(……)
なぜ、懐かしいのか。自分でもよくわからない。ただ、胸の奥が、きゅっと、優しく締めつけられるような。そんな感覚だった。誰かとこんなふうに花を見た記憶でもあったのだろうか。思い出そうとすると、それは、また、輪郭の溶けた景色みたいに、ぼやけて、消えてしまう。
ベンチに、腰を下ろす。
―――プシッ!
缶ジュースのタブを開けて、グビグビと、喉を鳴らしながら飲む。冷たい炭酸が火照った体に、染み渡っていった。
そうして、ひと心地ついて。
篠原は最近の出来事をゆっくりと思い返した。
五人のロイドに、囲まれる日々。一人一人が、まるで違う個性を持っている。明るいあかり。穏やかなゆかり。賑やかな茜と、静かな葵。そして、ツンとしたきりたん。
(彼女たちは、ロイドしかいないこの学校で、俺が少しでも過ごしやすいように、気を遣ってくれているのだろうか?)
でも俺は彼女達のおかげで、毎日飽きもせず、退屈しない。
退学寸前で、行き場をなくして、半ば自棄になって飛び込んだこの街で、まさかこんなに賑やかな毎日が待っているなんて、思ってもみなかった。
最初は、あの距離の近さに戸惑ってばかりだったけれど。今では、それも―――
「何黄昏てるんですか~」
その瞬間。
頬に、冷たい感覚が―――ズキンと、走った。
「うわっ……!」
驚いて、後ろを向く。
逆光の中に、あかりが立っていた。
長い髪が、さらりと垂れ、本来は白いはずのその髪が、逆光によって淡い金色に染まって見えた。
一瞬、見惚れた。
「ちょっと~!何驚いてるんですか~!私ですよ。紲星あかりです!はい、ジュース、私の奢りですよ」
冷たい缶を、俺の頬に押し当てていた犯人は、悪戯っぽく笑って、それを―――ぽいと手渡してきた。身長190cmの彼女は、長い髪を垂らしながら当然のように俺の隣に、すとんと座る。
その、瞬間。
ふわりと。甘い香りが、鼻先を、かすめた。
(……匂い?)
「あ!気づいちゃいました!?」
俺の視線に気づいて、あかりが、ぱあっと、顔を輝かせた。
「ロイド用の香水、つけてみたんですよね~!どうですか、どうですか?変じゃないですか?」
ロイド用の、香水。
そんなものまで、あるのか。……というか。
「な、なんですか? 顔、じっと見て。―――あ~!耳の先、赤くなってますよ~!」
「……うるさい」
―――無意識に、片耳を、さわる。
(赤く……なってたのか?)
自分では、わからない。
ただ、あかりの、甘い香りと、屈託のない笑顔と、肩が触れそうなほどの距離に。なんだか、調子が、狂わされている自覚は、あった。
「ふふっ。照れてる篠原さんも、可愛いですね」
「だから、うるさいって……」
そんな俺の反応を、あかりは、心底嬉しそうに、にこにこと、眺めている。向かいから、じゃなくて、すぐ隣から。横顔を、覗き込むみたいに。
「それより……一緒に、おにぎり食べましょう!私、作ってきたんですよ」
あかりは、ぱっと話を変えて、傍らに置いていた大きなケースを、膝の上に乗せた。
「鮭、ツナマヨ、たらこ、昆布、煮卵まで……沢山ありますよ!」
ごとり、と。
取り出されたのは、異様にでかいおにぎりケースだった。中には、ぎっしりとおにぎりが敷き詰められている。どう見ても、二人で食べきれる量じゃない。例によって、例のごとく、だ。
「お前……これ、作りすぎだろ」
「えへへ。だって、篠原さん、いっぱい食べるほうが、好きでしょう?」
「いや、好きっていうか……」
「それに、ほら。鮭も、ツナマヨも、卵も―――ぜんぶ、篠原さんの好きな具、ですよね?」
にっこり。と、あかりが笑った。
そして、「知ってて」当然のように、そう言った。
(……また、だ。)
俺は、あかりに、おにぎりの好みなんて話した覚えはない。鮭が好きなのも、ツナマヨに目がないのも、全部当たっている。一つ残らず俺の「好き」を、正確に突いてくる。
「篠原さん?どうかしました?」
「……いや。なんでもない」
俺は、また、考えるのをやめた。喉まで出かかった「なんで知ってるんだ」を、ジュースと一緒に、ごくりと、飲み下す。
きっと、ゆかりさんあたりに、聞いたんだろう。あるいは、学食での注文をたまたま覚えていたか。そうたまたまだ。深い意味なんて、あるはずがない。
「はい、篠原さん。あーんしてくださーい」
「いや、自分で食べられるって。てかおにぎりをあーんってどういう食べ方だよ」
「だーめーです!今日は私が食べさせてあげるって、決めてるので」
有無を言わせず、あかりが、巨大なおにぎりを、俺の手のひらに、ぽんと載せた。
でかくて、重かった。
ずしりとした、その重みが、手のひらに、伝わってくる。
だが―――それが、篠原には不思議と心地よく感じた。
誰かが、自分のために、こんなにたくさんの飯を握ってくれている。その重さは、たぶん米の重さだけじゃないのだろう。
「いただきます……」
ひと口、かじる。鮭の塩気と、ふっくらした米の甘みが、口いっぱいに広がった。
(……美味い。)
悔しいくらい、ちょうどいい塩加減だった。
「どうですか!?」
「……料理の天才。」
「やったぁ!」
両手を上げて、子どもみたいに喜ぶあかり。その笑顔を見ていると、こっちまで、なんだか頬が緩んでくる。
屋上を初夏の風が吹き抜け、満開の花が大きく揺れ、空には入道雲立ち上っている。そして隣には、甘い香りの騒がしいボイスロイド。
(……悪くない。本当に、悪くない、昼下がりだ。)
そう思いながら、俺は、二つ目のおにぎりに、手を伸ばした。
―――気づかなかった。
俺が「うまい」と、頬を緩めた、その瞬間。隣のあかりが、その横顔を、まるで宝物でも見るみたいに、じっと、見つめていたことに。
「……ねえ、篠原さん」
風に紛れて。
あかりの声が、ほんの少しだけ、低く、甘くなった。
「この時間が、ずっと、続けばいいのに。―――私と、篠原さんだけの、時間が」
その言葉を、俺は、おにぎりを頬張りながら、
「ん……そうだな」
と、何も考えずに相槌で流してしまった。
それが、どれほど切実な願いだったのか。気づかないまま、俺は、二つ目のおにぎりの味に、舌鼓を打っていた。
―――
「……ねえ、篠原さん。この花、好きですか?」
二つ目のおにぎりを食べ終えたころ、あかりが、ふと、そう尋ねてきた。見れば、彼女の視線は、ベンチの脇に並んだプランターへと向けられている。色とりどりの花が、初夏の風に、ゆらゆらと揺れていた。
「ああ……見てると落ち着く感じがするよ」
顔が赤かった。
「―――ふふっ。よかった」
あかりは、立ち上がると、そのプランターのそばにしゃがみ込んだ。そして、咲いた花の一輪にそっと指先で触れる。その手つきがいつもの彼女らしからぬ驚くほど優しいものだったから、俺は、少しだけ見入ってしまった。
「これ、実は……私が、お世話してるんですよ。この屋上の花壇」
「えっ、お前が?」
「―――はい!毎朝、ちょっとだけ早く来て、お水あげて。枯れた葉っぱを取って、肥料あげて。……地味な作業ですけどね」
意外だった。食べることにしか興味がなさそうな―――いや、それは言いすぎかもしれないが、とにかくこういう細やかな世話を毎日コツコツ続けるようなタイプには正直見えていなかった。
「なんで、花なんか……」
「う~ん……」
あかりは、少しだけ考えるように目を細めた。
風が、彼女の長い髪をさらりと撫でていく。逆光の中その横顔がいつもより、ずっと大人びて見えた。
「花ってちゃんとお世話したぶんだけ応えてくれるじゃないですか。水をあげれば、元気になって。手をかければ、かけただけ綺麗に咲いてくれる。……なんだか、「いいなあって。」私そういうの好きなんです」
かけた手の、ぶんだけ。
「応えてくれる。」
その言葉を俺はなんとなくきれいな言葉だなと思った。
「篠原さん。実は、これ……」
あかりが、一輪の淡い色の花を指さした。
「篠原さんが来るって決まってから新しく植えたんですよ。なんとなく篠原さんが好きそうだな~って思って」
ドクンと、心臓が鳴ったのがわかった。
さっき、この花壇を見て感じた、あの理由のわからない懐かしさ。
あれは、もしかして―――
「……な、なんで、俺の好みがわかるんだよ?」
「ふふっ。なんとなくですよ」
「……」
また、その言葉だ。
なんとなく。あかりは、いつもそう言って笑う。
あかりは、まだ言葉にしていない俺の好みをよくドンピシャで全て、「なんとなく」で、言い当てていく。
……考えれば、考えるほど、おかしい。
おかしいのに、あかりの笑顔があんまり澄んでいるものだから、俺はいつも深く考えない。
「っと。……そろそろ、戻るか。昼休み、終わっちまう」
ぼんやりした空気を振り払うように、俺は、缶ジュースを飲み干して、ベンチから腰を上げた。
午後の授業のことを考えると気は重いが。いつまでもここでこうしているわけにもいかない。
―――その瞬間だった。
「だーめです!」
ぽす、と。俺の腕に、あかりの両手が、絡みついた。心が鳴った。
「あ、あかり?」
「もうちょっとだけ。ね?まだ、お昼休み、終わってませんよ」
「いや、もう、ほとんど―――」
「もうちょっと、だけ」
笑顔だった。
いつもの、底抜けに明るいあかりの笑顔。
なのに―――俺の腕を掴むその手は、まったく、動かなかった。軽く、振りほどこうとする。
びくともしなかった。
力を込めてみても、あかりの腕は、まるで固定したかのように、俺の腕を優しく、けれど絶対に離さなかった。
(……あれ?)
背筋に―――すっと、冷たいものが走った。
俺だって、一応男だ。こんな細腕の女子一人、振りほどけないわけがない。
……そう、思っていた。
あかりは、ロイドだ。
人間とは比べ物にならない力を持つ、規格外の存在。そんなこと、頭の片隅では、とっくに、わかっていたはずだった。けれど―――それを知識としてじゃなく、自分の腕で思い知らされたのは。
これが、初めてだった。
「……あかり」
「―――ん?どうしました?」
きょとん、と。あかりが、首をかしげる。
その瞳は、どこまでも無邪気で澄んでいて。だからこそ、ぞっとした。
彼女には、たぶん、自分が今俺を閉じ込めているという自覚すらない。
「……い、いや。なんでも……ない」
「ふふっ。じゃあ、もうちょっと、一緒にいてくれますよね?」
俺は、観念してベンチに座り直した。
―――ぎしと、腕の力がほんの少しだけ緩んだ。けれどあかりの手はまだ俺の腕に添えられたままだった。まるで、いつでも「捕まえられるぞ」とでも言うみたいに。
「えへへ。……篠原さんと、こうしてるの、私、すっごく好きです」
肩に、こてん、と。
あかりが、頭を預けてくる。甘い香水の匂いが、ふわりと、鼻先をくすぐった。その温もりは、確かに心地よかった。心地よかったのに―――俺はなぜだかしばらくの間その場から動けなかった。腕の力が解けたあとも、ずっと。
風が、吹く。
花が、揺れる。
篠原が好きだと言った、あの淡い色の花が穏やかに咲いていた。