激動の昼休みが終わりを告げ、5時間目に移行した。
2-A組の生徒達は列を作りながら
「篠原さん?どうしたんですか?」紫色の透き通る様な髪を、耳へ流し、澄んだ瞳がこちらを向いた。
(……綺麗だ)
その仕草に無意識に顔を赤らめ、そぉとそっぽを向いた。その篠原の様子を見たゆかりは、こっちの方を向きながら笑顔で口を開いた。
「どうしました?私の顔に……ごみでも付いてましたか?」
微笑みながら嬉しそうにそう言われ、俺は何故だか、心がモワッとした。結月ゆかりと喋る時、俺はよくこのような感覚に陥る。その感覚は、まるで心の中をみすかれているかのようで、ちょっと不思議で、好きな感覚だ。
「ふふふふ……」
ゆかりが口元に指を持っていき、優しく笑う。その清楚で、おっとりとした雰囲気は、五人中ゆかりだけが持つ個性であった。
先頭のロイドが、大きなドアが空いた音楽室に入る。
ピアノの横には椅子が置かれそこには重音テト先生が座っていた。
赤い髪を、左右で大きくねじったツインドリル、とでも言うのだろうか。真っ赤な服に目立つ赤い瞳。小柄な体のどこにそんな元気を詰めているのか、椅子に座ったままでも、その存在は嫌でも目に入る。
そして、なぜか、ピアノの蓋の上にはフランスパン型の指し棒が一本、堂々と置かれていた。
重音テト先生。担当教科は、音楽。
授業は学園で一番賑やかで、一番人気。休み時間は生徒に混ざって駄弁っているので、新入生には教師だと気づかれない。そして―――年齢の話だけは、絶対にしてはいけない。
最後のひとつを教えてくれたときの茜の顔が、妙に真剣だったことだけは、よく覚えている。
「はーい、注目ーっ!」
テト先生の聞き取りやすく透き通った声が音楽室に轟いた。全員が席に着くなり、テト先生がみんなを一瞥し、ぱんぱんと手を叩いた。
「まずはウォームアップ!リップロール*1で五度、半音ずつ上げてくよー。ブレスは深く、支えは落とさない!はいっ」
テト先生の指がピアノの和音をひとつ鳴らす。
途端、音楽室に、ぶるるる、という無数の唇の振動音が満ちた。傍から見ればちょっと間抜けなはずの光景なのに、音程は全員寸分の狂いもない。リップロールがハミング*2に変わり、ハミングが母音の「あ」に開いていく。五度の上行下行が、半音ずつ、どこまでも積み上がっていく。高い。まだ上がるのか。人間ならとっくに限界の高さを、彼女たちは、涼しい顔で通過していく。
対する、俺はといえば。
換声点―――地声と裏声*3の境目とやらに差しかかった瞬間、見事に、声がひっくり返った。
「……ごほっ!ごほっ!」
近くの席から、くすくすと笑いが漏れる。穴があったら入りたい。
「おっ、いいじゃん篠原くん!」
だが、テト先生は、ピアノを弾く手を止めずに、にっ《/n》と笑った。
「ロイドの音程はね、真ん中に、ぴたっと当たるの。でも人間の声は、真ん中の周りを、ふらふら揺れてる。―――あたし、その揺れ、けっこう好きだよ。味っていうんだそういうの」
「は、はあ……」
褒められているのか、いないのか。篠原はその言葉をポジティブに捉え、少しだけ、肩の力を抜けた。
発声のあとは、コンコーネの視唱。
配られた楽譜を前に、俺は、早々に固まった。……読めない。オタマジャクシの高さが、ぼんやりわかる程度だ。なのに周りのロイドたちは、初めて見るはずの譜面を、当たり前のように、正確な音程で歌い上げていく。初見でだ。
「篠原くんは音源で覚えてきていいよー。楽譜はただの道具。音楽は暗記じゃなくて、感じるものだからね」
テト先生のアドバイスを意識し、覚えようとする。
「そこーっ!ずんだもんっ!寝なーいっ!」
「はっ……!ね、寝てないのだ……」
昼休みの消耗を引きずったずんだもんが、がくんと頭を上げる。
締めは、和声の練習だった。クラスを三つの声部に分けて、カデンツ*4をひとつ、長く伸ばして響かせる。その和音が鳴った瞬間、俺は、《b》鳥肌が立った。
うなりがない。三つの音が完全に溶け合って、音楽室の空気そのものが、まるごと鳴っているみたいだった。全員が、ハモリの最も美しく響く高さに、瞬時に、音を寄せているらしい。人間の合唱では、まずあり得ない精度だという。
歌唱は、ボイスロイドという種族の、本領。その言葉の意味を、俺は、この十分間で、骨の髄まで思い知らされていた。
そんなことを思ってた頃、テト先生が、ぱたんと楽譜を閉じた。
「はい、じゃあ、ここからが本題でーす!!!8月にある夏期歌唱合宿*5に向けて―――」
「今日から、ペア練習を始めてもらいまーすっ!」
ぴしり、と。教室の空気が、音を立てて固まった気がした。
ペア。篠原は気づかなかったが、五人のロイドの視線が一斉に篠原の方へと突き刺さっていた。
「組み合わせは、公平にくじ引きね~。はい、前から順番に引いてってー」
くじの箱が、人から人へ、教室を回っていく。
ついに俺の番になり何も考えずに引いた。
俺が引いたのは、3番だった。
完全に引いたのを確認した茜が飛びつくように俺の元にやってきた。
「12番……なあ篠原、あんた何番や!?」
「……3番」
「なんでやねんっ!!」
「なんだぁ~?そんなに俺とペアになりたかったのか~?」
俺が馬鹿にした感じに茜に向かって言う。
「当たり前やん!あぁ……今年の合宿は絶対つまらないや~ん」
「いや、去年だって一人であれだけ楽しんでたんだから、どうせ大丈夫やろ」
葵のツッコミが炸裂する。正直、「当たり前」と言われた時、嬉しかった。だがそれと同時に何故ここまで好感度が高いのかという疑問が湧いた。こいつらにとって俺という人間は、なんなのだろうか。
ふと目をあかりに向けると、あかりは自分のくじと俺の顔を三往復ほど見比べて、目に見えて、しゅんとしぼんだ。
きりたんは「……くじ運も、実力のうちです」と言いながら、握った紙が、くしゃりと音を立てていた。
そして。
「―――あら」
すぐ隣で、涼やかな声がした。
「3番……ふふ。私、ですね」
ゆかりが、開いた紙を、そっと俺に見せる。俺のくじと、同じ数字だった。
「……運が、良かったみたいです」
その微笑みは、いつも通り、どこまでも穏やかで。
なのに、他の四人のほうへ向けられた視線が一瞬だけ、ほんのわずかに勝者の色を、帯びていた気がした。
「お、いい組み合わせじゃん!結月さんは低音の表現がピカイチだからね。篠原くんの声、うまく支えてくれると思うよー」
テト先生の暢気な声が、凍った教室に、やけに明るく響いた。そしめペアごとに散らばって、練習が始まった。
俺とゆかりは、窓際の一角に、譜面台をひとつ挟んで向かい合った。課題は、イタリア歌曲『カーロ・ミオ・ベン』の二重唱アレンジ。俺が旋律を、ゆかりが低声部を受け持つらしい。
「では、一度、私が歌ってみますね。……よく、聴いていてください」
ゆかりが、譜面から目を上げて、すう、と小さく息を吸った。次の、瞬間。―――低く、深く、それでいて、どこまでも柔らかく、透き通った歌声が、流れ出した。賑やかだったはずの音楽室の喧騒が、すうっと、俺の耳から遠のいていくのが感じ取れた。
ゆかりの歌声が、胸の奥で、じん、じん、と響く。切なくて、温かくて、少しだけ寂しい。たった八小節。それだけの旋律に、そんな色が、幾重にも心に織り込まれていた。
気づけば俺は、息をするのも忘れて、聴き入っていた。
「……篠原さん?」
「……あ、いや。……ほんとにすごいな、って」
「ふふ。ありがとうございます。―――では、次は、篠原さんの番ですよ」
「あ、あぁ」
正直、緊張はしていた。だが歌うこと自体は、嫌いじゃない。むしろ、ヒトカラは、俺の数少ない趣味のひとつだ。誰にも、言ったことはないが。
すう、と息を吸って、旋律をなぞる。出だしは、悪くなかったと思う。音の芯も、大きくは外していないはずだ。ただ、慣れないイタリア歌曲の発声はやはり勝手が違って、フレーズの終わりが、少しだけ苦しい。
歌い終えるとゆかりが、ぱちぱちと、目を瞬かせていた。
「……お上手、ですね。正直、驚きました」
「そ、そうか?発声のときは、盛大に裏返ってたけど……」
「あれは音域の外ですから、当然です。それより音の真ん中に、ちゃんと……芯がある。それに、ロングトーンからビブラートへの、持っていき方が絶妙でしたよ」
機械採点みたいな褒め方だな、と思ったが、悪い気はしなかった。
「ただ、もったいないところが、ひとつだけ」
ゆかりは、譜面を指でなぞりながら、ふと、言った。
「篠原さん。フレーズの変わり目で、いつも息を吸いすぎてしまうんですね。だから、次の小節の頭で……支えが、崩れてしまう」
「ああ、確かに、そこでいつも―――……ん?」
(……いつも?)
俺とゆかりが一緒に歌ったのは、今日が、初めてのはずだ。それなのに、彼女は今、まるで何度も俺の歌声を聴いてきたみたいに……。
「な、なんで、わかるんだ?」
ゆかりは、口元に指を持っていき、ふふ、と優しく笑った。
「―――ずっと、聴いていましたから」
「……さっきの、発声練習のことか」
「ふふふ。……そういうことでも、いいですよ」
そういうことでも。
その言い回しが、ほんの少しだけ、引っかかった。けれど、彼女の微笑みは相変わらず穏やかで、そして、また、あのモワッとした感覚がした。
心の中を、優しく見透かされているような。不思議で、嫌いじゃない、あの感覚。
「では、直してみましょうか。……少し、失礼しますね」
ゆかりの手が、そっと、俺の背中と、腹に添えられた。ひんやりとした手のひらの感触に、心臓が、跳ねる。
「フレーズの変わり目は、吸い直さずに……ここ、お腹の支えだけで、つなぐ。……そう。上手です」
耳元で囁かれる声が、低くて、近い。指導の内容の半分も、頭に入ってこなかった。それでも、何度か繰り返すうちに、旋律と低声部が、少しずつ、重なり始める。彼女の声が、俺の声のすぐ下に、ぴたりと寄り添う。支えられている、というのが、音でわかる。二重唱というのは、こんなにも、心地のいいものだったのか。
―――
―――
―――
「はーい、今日はここまでっ!ペアの相手、ちゃんと覚えとくようにー!」
テト先生の声で、音楽室に、ざわめきが戻ってくる。譜面を片付けていると、ゆかりが、俺を呼んだ。
「篠原さん。次の練習も、楽しみにしていますね。……あなたの声、もっと、聴かせてください」
「お、おう。……まだまだ、下手だけどな」
「いいえ」
ゆかりは、ゆっくりと、首を振った。
「とても……いい声、でしたよ」
俺は、その言葉を、ただの社交辞令として受け取った。
そして、教室を出ていく俺の背中を見送りながらゆかりの中で、静かな処理が、ひとつ、完了していたことを。
『―――音声記録、保存完了。分類……《歌唱》。ふふ。……一人きりのカラオケボックスで歌うときより、少しだけ、緊張していましたね。篠原さん』