四月二十七日。
六時間目の途中。のんびりと外を見ていると、雲の流れがどんどんと早くなっていき、小さな雨粒がポツポツと、窓の外を濡らし始めていた。
(……雨?今日は、一日中晴れじゃなかったか?)
誰かが「あ」と小さく呟いた、その数秒後には、世界はもう、灰色の雨音一色に塗り潰されていた。
「―――ちゅわ。夕立、ですわね」
イタコ先生がちらりと窓へ目をやる。外では、もう既にザァーザァーと、地面を叩きつけるような大雨が降っていた。面白いのは、教室の反応だった。雨音が強くなった瞬間、クラス中のロイドたちが、示し合わせたみたいに、いっせいに窓の外へ目をやったのだ。予報に無い雨に、頭の中で天気情報へアクセスし直して、帰宅ルートの再計算でも始めているのだろう。数秒後には、何事もなかったように、全員の視線が黒板へ戻っていく。……その光景は俺には、ちょっと不思議に感じた。
そして、俺はといえば慌てなかった。
というか、正直、興奮していた。
男という生き物は、こういう日常に唐突に割り込んでくる異常に、どうしようもなく興奮するものだろう。窓ガラスを叩く強い雨。暗くなる空。遠くでかすかに鳴る雷。予報を裏切って荒れていく世界。窓際に座っているため、ほんのちょっとだけ窓を開ける。すると、ビュービューと強く鳴る風が顔に当たり、小さな雨粒が顔を濡らす。
気持ち良かった。
「篠原……窓開けると、服濡れるで」
「ん?……ほん~っのちょっとだし大丈夫じゃない?」
授業を聞かずずっと外を眺めていた俺のことを思ってか、葵が声をかけてきた。その声色は、いつもとは違く、多少心配気味でもあり、葵にしては珍しく多少強ばっていた気がした。
「篠原が良くても私がいやなの。その……心配事増やさないで欲しいし……」
「え?」
「それより篠原。こんな大雨だけど。傘はあるん?どうせなら私が―――」
「うん。こういう日に限って毎日鞄の中に入れてるんだぜ!流石だろ~!」
葵と目を合わせながら、鞄をバシバシと叩く。一瞬目のハイライトが消えた気がしたが気のせいだろう。
「ふーん。そうなんや。あ、いいこと思いついた。」
「ん?いいことって……なんだ?」
「あんたには関係ないことや。」
葵が、満面の笑みで、そう答えた。俺はそのことを深く考えなかった。それより、イタコ先生が鋭い目つきで俺のことを睨んでいたのに気がついたからである。
「篠原くん。私が言ったところをもう一度言ってみて。」
「あ……え。は、はい。」
外の景色を見ていたこと。葵と喋ってたことで先生の話を全く聞いていなかった俺は、頭が真っ白になった。―――と、そのとき。隣の席から、救いの囁きが降ってきた。
「……ぼくに任せるのだ。今から言うこと、そのまま復唱するのだ……」
藁にもすがる思いで、俺は、その囁きを、そのまま口にした。
「世界は、「選ばれし者達の密室」ダボス会議に支配されている。彼らは何を話し合っているのか。表向きは社会課題の解決や持続可能性なんてきれいごとを並べているけれど、実態は「グレート・リセット」という名の、我々一般庶民の生活を完全にコントロール―――」
「篠原の言ってることは全く違うのだ!みんな「ダボス会議が世界を支配している」なんて言っているけれど、それは典型的なミスリードに引っかかっているのだ!ダボス会議なんて、せいぜいディープステートが決めた決定事項を、大々的に発表して正当化するための「広報機関」に過ぎないのだ!いいのだ?ダボス会議で集まっているような表の権力者なんて、所詮はチェスの駒の一つ。真の敵である
「…………お二人とも、いい度胸ですわね。篠原くんは放課後、職員室へ。ずんだもんは……反省文五枚ですわ」
「な、何故なのだ~!?」
―――
―――
―――
放課後。教室。イタコ先生が、笑顔のまま繰り出される十五分の説教から解放されて、俺はようやく教室に戻ってきた。ずんだもんは今頃泣きながら反省文でも書いてるだろう。いい気味だ。
帰ろうとし、机にかけてある鞄に手を伸ばす。
「…………ない」
鞄を、ガサゴソと漁る。メインの収納。サイドポケット。筆箱の下。プリントの間。最後には、どう考えても傘なんか入らない、財布用の小さなポケットまで開けて確認した。無い。朝、絶対に入れたはずの折りたたみ傘が、忽然と、消えていた。
(おかしい。確かに入れた。玄関でなんとなく手に取って、鞄の一番上に……いや、待て。手に取った記憶はある。入れた記憶は……あるか?あるような、ないような……)
記憶というやつは、疑い始めると、途端に頼りなくなる。
(……認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを)
現実逃避をするが、雨は止まらず、むしろ強くなっていった。ふと窓を覗くと、生徒たちが、次々と色とりどりの傘を開いて、雨のカーテンの向こうへ消えていく。予報が外れたというのに、誰一人濡れて帰る者はいない。……そういえばあいつら、雨が降り出した瞬間に一斉に窓を見ていたな。あの数秒で、置き傘やら迎えやら、対策を済ませていたのだろう。演算能力を、こんなところで見せつけられるとは。取り残された人間が一人、誰もいなくなっていく教室で立ち尽くしている図は、我ながら、相当に間抜けだった。ため息を吐く。ふと、ポケットの中で、スマホが震えたのに気づいた。
――――――――――――――――――
<いつメン(7)
『茜:雨やばない!?篠原~!生きとるか~!!』
『きりたん:……人間は水に濡れると溶けるんですか』
『ずんだもん:溶けるのだ。ソースはぼく』
『あかり:えっ!?』
『ゆかり:溶けません。……篠原さん、傘はお持ちですか?』
『あかり:よかったぁ……。あ!もし無かったら、わたし今から傘持って戻りますよ!走れば三分です!』
『茜:ほなうちは車呼んだるわ!』
『きりたん:……大袈裟すぎますよ。二人とも』
――――――――――――――――――
溶ける。あと三分で戻ってくる。車も呼ぶ。放っておくと本当に実行しかねない連中なので、俺は慌てて『傘はあるよ。大丈夫』とだけ返して、スマホをしまった。
さてどうしよう。このまま走って帰るか、雨が止むまで待つか。ただでさえ、説教されて帰宅時間が遅れてるのに……雨が止むまで待つなんて面倒なことはできないっ!それに俺は帰ったらすぐパ〇ワールドをやりたいんだ!よし!走って帰ろう!
そんなことを思っていたら、後ろから声がかけられた。
「―――篠原くん」
振り向くと、葵が立っていた。紺色の傘を一本、手に提げて。
「傘、無いんやろ」
「……な、なんでわかるんだよ」
「五分も鞄ひっくり返して固まっとったら、誰でもわかるわ。それにしても六時間目の時傘があるって言って結局……」
「う、うっせぇ!」
ぷぷぷと笑う、葵に憤りを感じながらも、不思議と心地悪くはなかった。そして葵は、すたすたと教室の出口へ歩き出した。ついて来い、ということらしい。昇降口で靴を履き替え、雨の軒先に立つと、彼女は、ばさりと紺の傘を開いた。そして、当たり前みたいに、その半分を、俺のほうへ傾ける。
「……入り」
「え。え~。い、いや、悪いよ。それ一本しかないだろ。俺が入ったら……葵が濡れちゃうじゃん」
これは相合傘というものになるのだろう。正直緊張していた。
「風邪ひかれたら、私が困る。……月曜の勉強、教える相手がおらんようになるやろ」
「うげ」
理屈だった。俺の心配を、俺のための理屈で上書きしてくる。反論の隙のない、実に葵らしい論法だった。
「……てか、お前はなんで傘持ってるんだ?今日、予報は晴れだったろ。折りたたみか?」
「……ん。どっかの人が言ってた通り私も常に折りたたみ傘を持ってるだけや。」
「う、ぐぐぐぐ」
「……ふふふ。さぁ入り」
葵は、傘の柄を握り直した。
そして俺は、素直にその紺色の傘の下へ入った。
―――
雨の並木道を、二人で歩く。雨が心地いい音を出し、いい雰囲気を出している……と思う。そして一本の傘というのは思ったよりずっと狭く、肩と肩が歩くたびに、触れそうで触れないぐらい狭かっまた。気になったのが、葵は俺との身長差のぶん、腕を目一杯伸ばして傘を掲げていて、その姿がなんだか健気でに感じ、俺は途中で柄を受け取った。
「貸して。俺が持つよ」
「ん。……ほな、任せる」
存外、素直に渡してくる。意外だった。そして彼女は、そのぶん半歩、俺のほうへ身を寄せた。
(ち、近……いや、まぁしょうがないけど!元はと言えば俺が悪いんだし……)
制服の肩越しに、彼女の体温が、ひんやりと伝わってくる。人間より少し低い、ロイドの温度。雨の冷たさと混ざって、それは不思議と、心地よかった。
「篠原くん。そっち、肩出とる。もう半歩、うち寄り」
「お、おう……」
「……そう。それで……ええ」
交差点で、水たまりを跳ね上げて車が通り過ぎた。反射的に身をすくめた俺の前に、葵の腕が、すっと差し出される。飛沫は、彼女の袖だけを濡らして落ちた。
「わ、悪い。袖……」
「これぐらいすぐ乾く。ほら……前、見て歩き」
なんでもないことのように言うが、今の反応速度は、絶対に人間のそれじゃなかった。
「……なあ、葵。雨、嫌いか?」
「なんで?」
「いや、なんとなく。俺はどっちかというと苦手でさ」
「……うちは、好きやで」
葵は、傘の縁から空を見上げた。
「雨の音って、一定のリズムやろ。ノイズみたいに聞こえて、実はずっと規則的なんよ。聞いてると―――演算が、凪ぐ」
「演算が、凪ぐ……って」
ロイドにも、心地いい音というものがあるのか。詩みたいなその言い回しを、俺は、しばらく口の中で転がしていた。
商店街のアーケードの手前で、雨脚が一段と強くなった。
「ちょっと、雨宿りしてこか」
軒下に入り、葵が自販機に小銭を落とす。がこん、と落ちてきた缶を、一本、俺に放ってよこした。ミルクティー。……俺がいつも買っている、あの銘柄だった。
「……またこれか」
「偶然や。嫌やったら私のと交換する?」
「い、いや。いい。」
「ほな……あったかいうちに、飲み」
温かい缶を両手で包むと、指先から、じんわり熱が戻ってくる。軒を打つ雨の音。ミルクティーの甘さ。隣に立つ、静かな双子の妹。そのぬるい空気のせいだろうか。気づいたら俺は、ぽつりと、余計なことを喋っていた。
「……ガキの頃さ。雨の日って、嫌いだったんだよな」
「ん」
「うち、親が遅くてさ。鍵っ子だったから。雨の日は外にも出られないし、家の中、しんとしてて。テレビつけても、なんか余計に静かでさ。天井のシミ数えて、一日終わったりして」
「……そう」
葵の相槌は、短かった。短かったが、遮られなかった。せかされも、憐れまれもしなかった。ただ、雨の音と同じ、一定の静けさで、隣にいてくれた。
「……なんか、悪い。湿っぽい話して」
「別に。……データは、多いほどええ」
「データて」
思わず、噴き出した。
「―――冗談や冗談。」
葵は、缶に口をつけて、少しだけ目を細めた。
「話してくれて、おおきに」
その、飾りのない一言が、変に、胸に刺さった。
雨が小降りになったころ、歩きを再開して、アパートの前に着いた。
「傘、助かった。ほんとに」
「ん」
「あと、これ」
缶の礼を言いかけた俺より先に、葵は、鞄から何かを取り出して、押しつけてきた。タオルだった。真新しい、きっちり四つ折りの。
「……なんで持ってるんだよ、タオル」
「たまたま、や」
たまたまで、こんなに綺麗に畳まれているものだろうか。
まあいい。ありがたく借りることにして、俺は、湿った前髪を拭った。
「じゃあな、葵。……なんつーか、その」
言葉を探して、結局、素直なやつが出た。
「葵と歩く雨は、悪くなかった。ってか、ちょっと好きになったかも。雨」
葵の足が、止まった。
一秒。二秒。雨だれの音だけが、間を埋める。
「……そ」
それだけ言って、彼女は、くるりと背を向けた。
「ほな、また明日。……タオル、ちゃんと乾かしや」
「あぁ。気をつけて帰れよ!」
紺色の傘が、雨上がりの道を遠ざかっていく。部屋に上がって、窓から見下ろすと、その傘は、角を曲がるまでなぜか一度も揺れずに、定規で引いたみたいに、まっすぐ進んでいった。
―――
―――
―――
その夜。琴葉家のリビング。
「あれ?葵。新しい折りたたみ傘、買ったん?」
ソファーでたこせんを食べていた茜が、ふと、首をかしげた。視線の先ではキッチンの隅で、葵が一本の折りたたみ傘を、丁寧に広げて干している。普段、葵が使っている折りたたみ傘は、青色の、水玉の可愛らしいやつだ。几帳面な妹は、物持ちがよく、気に入った物を長く使う。新調するなんて珍しい―――というか。
(……ん?)
よく見ると、その傘は、明らかに男物だった。黒に近い紺の、装飾のひとつもない、シンプルなデザイン。しかも、ところどころ骨の先が使い込まれている。新品には、到底見えなかった。
「ん?これ?……まあ、お姉ちゃんには、関係ないやつや」
葵は、こちらを見もせずに答えた。その手つきが、また、妙だった。濡れた布地を、一本一本の骨に沿って、タオルで、そうっと。まるで壊れ物でも扱うみたいに、拭き上げている。ただの傘に、である。
「……なんか、嬉しそうやな」
「そう?普通やけど」
普通、と言った妹の口元が、ほんのわずかに緩んでいるのを、茜は見逃さなかった。
(葵のやつ……なにか、隠してるな)
茜の中の、何かが疼いた。双子の勘、というやつだ。妹は、昔から嘘が上手い。上手いが嬉しいときだけは、隠しきれない場合が多いい。手の動きが、丁寧になりすぎるのだ。今みたいに。
「あ、お姉ちゃんは、これ使わんといてな。これはうちの……宝物コレクションの、ひとつやから」
「別にうちも持っとるし、わざわざ葵のは使わんわ。……てか」
茜は、たこせんの袋を置いて、身を乗り出した。
「宝物コレクションって、なんやねん。初耳やぞ、そんなん」
「言うてへんからな」
「他には何があるん」
「秘密」
「なんでうちにも秘密やねん!双子やろ!」
「双子やから、や」
ぴしゃり。取りつく島もなかった。
葵は、拭き終えた傘を、リビングの一番風通しのいい場所に、これまた丁寧に吊るした。青い水玉の自分の傘は、玄関の傘立てに、無造作に突っ込んであるくせに。扱いの差が、あからさますぎる。
「……ふーん?」
茜は、目を細めた。攻略ログを日々更新する女の勘が、告げている。この傘、絶対に、何かある。男物。使い込まれた紺色。雨の日。今日。……今日?
(待てよ。今日って、雨やったよな。予報外れの。……で、篠原は『傘はあるよ。大丈夫』ってグルチャに―――)
茜の思考が、何かに触れかけた、その瞬間。
「―――お姉ちゃん」
葵の声が、すっと、割り込んできた。
「明日の小テスト、範囲やっとるん?昨日、ゲームしとったやろ」
「うぐ……や、やっとるわ!……七割くらい」
「三割やっとらんってことやん。ほら、ノート持ってき。見たるから」
「え、ほんま!?葵先生さまさまや~!」
宝物の話は、たこせんの最後の一枚と一緒に、茜の頭から、ころりと転がり落ちた。単純な姉である。
―――そして、その夜遅く。
姉の寝息がドア越しに聞こえ始めたころ、葵は、リビングに一人、立っていた。吊るした紺色の傘は、もう、すっかり乾いている。彼女はそれを、きっちりと畳み直し、自室のクローゼットの、一番上の棚に、そっとしまった。その隣には、きれいに洗濯された、真新しいタオルの空き袋がひとつ。そして、小さなメモが、几帳面な字で添えられている。
『篠原から貰ったもの……うち。一生大事にする……』
棚の扉を、静かに閉める。
「……おやすみ、篠原くん」
誰に聞かせるでもない小さな声は、雨上がりの夜に、規則正しく、溶けていった。