四月二十八日、放課後。
今日は、昨日の夕立が嘘みたいな、抜けるような青空が一日中続いた。空は一面の青に染まり、雲ひとつない。傾きはじめた日差しがじりじりと俺を照らし、額には、汗が滴る嫌な感覚がこびりついていた。
(まだ四月だっていうのに……なんでこんなに暑いんだよ)
そんなことを考えながら、長い廊下を歩く。たまには一人で……のんびり、この学校を探索するのもいいだろう。この学園は、自律型ボイスロイドを世に送り出すための施設だけあって、とにかく広い。多彩な設備が揃っていて、その中でも最近の俺は、部活動エリアを見て回っている。理由は単純で、俺は中学ではほぼ幽霊部員、前の高校に至っては部活動にすら入らなかった。だから今さらながら、経験を積むという名目で、数だけは豊かな部活動を巡っているのだ。……ちなみに、こんなことをあかりや茜に言ったら最後、強引にどこかへ入部させられそうなので、誰にも言っていない。
(今日見る所は……とうとう、アイツらのところか)
大きなため息を吐いた。
ドアの前に立つ。そこには「
見ただけで(ここを見る必要、あるのか?)という疑問が浮かんだが、来てしまったものは仕方ない、という気持ちがわずかに勝って、ドアノブをひねる。
「ふ、ふ、ふ……よくも来たわね、篠原!我が秘密結社の本拠地へッ!」
ロリィタ服に、ピンクのツインドリル。学園の問題児四国めたんが、仁王立ちしていた。そして、その奥。黒いガムテープらしきものでぐるぐる巻きに拘束され、すやすやと眠らされている、ずんだもんがいた。
「え、いや、何してんの?」
その光景に、無意識に言葉が出ていた。あくまで拘束されているだけで、外傷はない。顔にはマーカーで十字架のような落書きがされているが……多分、大丈夫……なのかな?
「ずんだもんには、邪神が取り憑いているでしょう?それを私が、今まさに祓おうとしているのよ!」
「……じゃ、邪神?」
「ええ。ずんだもんって、ディープステートとか、よく分からないことを言っているでしょう?あれこそが憑依の証。つまり―――」
ふと、部屋の奥から、物音がした。そちらを見ると。
「―――入部するなら早くしろ。でなければ、帰れ」
机に肘をつき、組んだ両手の上に口元を乗せる―――どこかで見たことのある最高司令官の構えをした女性がそこにいた。この学校の先生、冥鳴ひまり先生である。
「あ、じゃあ帰ります」
背中を向け、ドアへ手を伸ばす。
「ま、まぁまぁ!待ちなさいよ!……一度、言ってみたかっただけよ」
慌てたひまり先生が、俺の肩に手を乗せてきた。
冥鳴ひまり先生。現代社会と進路指導を受け持つ、学年主任だ。……そんな立場の人が、なんでこの、ほぼ監禁に近い状況を許しているのだろうか。恐ろしい。
「あ、あぁ~、こ、これ?これはほら、あれを被って暴れたずんだもんを、ただ安全に拘束しているだけだから。そういうのじゃないからね?」
ひまり先生の目線の先には―――いつもの、アルミホイルハットが転がっていた。
―――
―――
―――
地獄の二十分を過ごしたあと、疲労困憊で部屋を出た。目を覚ましたずんだもんが暴れに暴れ回り、それを抑える係を、なぜか俺が任されたからだ。
「はぁ……」
大きなため息をつく。と、廊下の前方から、ひときわ姿勢のいい人影が歩いてくるのに気づいた。
長い緑の髪。穏やかな微笑み。廊下を歩いているだけで「ああ、優等生だ」と一目でわかる、あの落ち着いた佇まい。すれ違う生徒たちが、次々と会釈をしていく。
「―――君が……篠原くん、だよね?」
「え。あ、はい」
(すっげ……美人な人だな)
「はじめまして。三年の、東北ずん子です。うちのきりたんが、いつもお世話になってます!」
言うが早いか、両手でがしっと手を握られた。ひんやりと冷たくて、それでいて、女子のものとは思えないくらい、硬くてゴツい手だった。……正直、ちょっとドキッとした。
「お世話だなんて、むしろ……いつも助けられてるのは、俺のほうですよ。その……ずん子先輩って、きりたんの、お姉さんですか?」
「うん。似てないって、よく言われるけどね!」
ふふふ、と柔らかく笑う。なるほど、確かに身長も、体型も、そして……服の上から見える〇っぱいの大きさも、まるで似ていない。だが、その涼しげな目元には、確かに妹の面影があった。
「ねえ、篠原くん。今日って、このあと時間ある?」
「え、ええ。まあ……特に予定は」
「よかった。じゃあ、弓道場においでよ。見学、歓迎だから!」
「弓道場、ですか」
「うん。弓道、楽しいよ〜。……篠原くん、興味あるでしょ?」
「……は、はぁ。無いわけじゃ、ないですけど。……なんでまた、俺に?」
「んーとね。……内緒」
先輩は、口の前で、ひとさし指を立てた。
「見れば絶対、好きになるよ!ほら、おいで」
有無を言わさぬ柔らかさで、俺は連行された。
……この学園の女子は、種類を問わず、押しが強く感じた。
―――
―――
―――
弓道場は、校舎裏の、静かな一角にあった。渡り廊下を抜けた瞬間、空気が変わるのを感じた。土と、藁と、乾いた木の匂い。
入口の受付で、当番らしい部員が名簿をめくった。
「見学の方ですか?……あ、ずん子先輩のお連れさん……ぜひどうぞ」
「うんありがとう!ほら篠原君着いてきて!」
道場の中は、空気の質が、違った。
床は鏡みたいに磨き上げられ、遠くの的場まで、しんとした静けさが張り詰めている。俺の悪い目には、的の詳細までは見えない。それでも―――音で、わかる。時折、空気を切る鋭い音。一拍おいて返る、どすっ、という深い音。それだけで、勝手に背筋が伸びた。
「弓道はね、的に中てる競技っていうより、正しい射を突き詰める『道』なんだって。中りは、その結果」
先輩が、小声で教えてくれる。
(……なるほど。まったく、わからん。)
だが、この空気の意味だけは、なんとなく、わかる気がした。
「あれ、人間の……」
「ほんとだ、篠原くんだ」
「なんで弓道場に」
射を待つ部員たちの、小さなざわめき。悪意のない好奇の視線がちくちくと刺さのを感じた。慣れたものだ、と受け流そうとした、そのとき。
ざわめきが、ぴたりと、止んだ。
視線の先―――袴姿の小さな人影が、氷点下の半眼で、部員たちを一瞥したのが、ぼんやり見えた。
そして、その半眼は、そのまま、俺に向けられた。
「―――な、なんで、いるんですか」
東北きりたんであった。身長ほどはあろう弓を手に、じっとりと、こちらを見上げていた。袴姿は、初めて見た。和の趣のある彼女に、その装いは悔しいくらい似合っていた。
「あ、いや、君のお姉さんに誘われて……」
頭をボリボリとかく。何故か緊張していた。
「……姉さま。余計なことを」
「いいじゃない。きりたんの晴れ姿、見てもらいなよ!」
「は、晴れ姿って……。……言っておきますけど」
きりたんは、ぷいっと顔を背けて、射場のほうへ歩き出した。
「―――見ていても、面白くないですよ」
―――結論から言うと、大嘘だった。
射位に立ったきりたんは、別人だった。
足を開く。弓を起こす。ゆっくりと、引き絞っていく。
一つ一つの動きが、まるで儀式みたいに静かで、正確だった。百三十五センチの小さな体なのに、道場の空気ぜんぶが彼女ひとりに向かって傾いでいくのがわかる。誰も喋らない。誰も動かない。俺は息をするのも忘れていた。
きりりと弦の鳴る、かすかな音。
数秒の、完全な静止。
―――ぱんっ!
弦音が弾け、一拍おいて、的場から、どす、と深い音が返った。
「中りっ!」
部員の声が上がる。二射目。三射目。四射目。音は、四回とも、寸分違わず、同じだった。
「四射皆中*1。……相変わらず、流石ね!うちの妹は!」
隣で、ずん子先輩が誇らしげに笑う。俺は、返事も忘れて、見入っていた。
俺は、弓を引くあの小さな背中から、目が離せなくなつていた。
「―――じろじろ見ないでください。調子が、狂います」
気づけば、射を終えたきりたんが、目の前に戻ってきていた。
息ひとつ乱れていないくせに、頬だけが、心なしか紅くなっていた。
「いや……すごかったよ。本当に……なんていうか、綺麗だった」
「……っ。き、綺麗って……。的に中てるのは、当然のことです。騒ぐほどのことでは―――」
「四射皆中は当然じゃないよ〜。部で今、それできるの、きりたんと私だけだもん~」
俺でもわかるドヤ顔で、語った。
「姉さまは黙っててください」
と、そこへ。
「あの、すみませーん」
真新しい道着の部員が、ひょこりと顔を出した。今年入った一年生だろう。彼女は、きりたんを見て、にこっと人好きのする笑みを浮かべた。
「体験入部の小学生の子ですか?保護者の方は、あちらに記帳を―――」
道場の温度が下がった気がした。
きりたんの笑顔が笑顔のまま、凍りついている。弦音より張り詰めた、沈黙。まずい。これは、まずいやつだ。
「―――先輩だぞ」
気づいたら、口が動いていた。
「この人、二年の東北きりたん。……たぶん、この部で一番うまい人だ」
「た、たぶんって何ですか、たぶんって」
「え、あっ……す、すみませんっ!きりたん先輩って、あの四射皆中の!?し、失礼しましたぁ!」
一年生は、深々と頭を下げて、飛んでいった。
きりたんは、しばらく、無言だった。それから、そっぽを向いたまま、ぼそりと言った。
「……別に。庇ってもらわなくても、平気でした。このような出来事は……慣れてます」
「はいはい」
「『はい』は一回です。……でも」
その先は、ちょうど響いた誰かの弦音に、かき消されて、聞こえなかった。
「嬉しかったです……」
―――
―――
―――
「せっかくだし、篠原くんも、ちょっとやってみる?」
ずん子先輩の提案で、体験をさせてもらえることになった。といっても、初日から本物の的前には立てないらしい。まずは練習用ゴム弓―――弓の形をした、練習具からだった。
「……仕方ないですね。指導は、私がします」
きりたんである。ずん子先輩が「ふふ」と含み笑いをして、一歩、下がった。
「足は、肩幅より広く。……もっと。……開きすぎです。誰がそこまでやれと言いました」
「難しいな、おい!」
「肩、上がってます。力むから上がるんです。……ああもう、違います。こう」
背後から、小さな手が、俺の肘と背中に添えられた。位置を、ミリ単位で直されていく。耳のすぐ後ろから、囁くような指示が続く。
「弓手は、握らない。卵を持つように。……そう。息は、止めない。細く、吐き続ける」
(ち、近いな……いや、指導だからな。……俺は何を意識してんだよ!)
自分にそう言い聞かせるほど、心臓は、正直に、速くなっていく。
そのとき、きりたんが、ふ、と声を落とした。
「――心拍数、九十四。……力みすぎです、篠原さん」
「なっ!……なんでわかるんだよ、そんなこと!」
「……聞こえるので」
こともなげに、彼女は言った。ロイドの聴覚は、そこまで拾えるのか。心臓の音まで筒抜けとは恐ろしい話だ。
ゴム弓で型を叩き込まれたあと、巻藁―――至近距離に据えた、藁束の的の前に、立たせてもらえた。今度は、本物の弓と矢だ。ずしり、と思ったより重い。
「いいですか。
「中てようと思わずに、どうやって中てるんだよ」
「……正しく引けば、矢は、正しく飛びます。それだけのことです」
天才肌と言うやつは教えるのが下手くそだ。だが、その声は不思議と、すっと耳に入った。足踏み。胴造り。打起し。引分け囁きに導かれるまま、体を動かしていく。
「―――放して」
言われるままに、指を離した。
―――ばすっ!
矢は、巻藁のど真ん中に、突き立っていた。
「おおー!」と、見ていた部員たちから、拍手が上がる。
「や、やった!見たかきりたん、ど真ん中!俺、才能あるかも」
「巻藁は五メートル先です。中って当然。調子に、乗らない」
きりたんは、腕を組んで、ばっさり切り捨てた。切り捨てて、それから、目を逸らして、小さく、付け足した。
「……でも。初回の型としては……素質は、なくはない、です」
「今のね、きりたん語で百点満点って意味だよ」
「―――姉さまっ!!」
真っ赤になって姉に食ってかかる小さな背中を眺めていると、ずん子先輩が、俺にだけ聞こえる声で、そっと囁いた。
「……あの子があんなに楽しそうに人に教えるの、私、初めて見たなあ」
「え?」
「んーん、なんでも。……また来てあげてね、篠原くん」
片付けが始まる前に、俺は、思い切って頼んでみた。
「なあ、きりたん。最後に、もう一射だけ、見せてくれないか」
「……なんで、ですか」
「さっきは遠くて、よく見えなかったから。今度は、近くで見たい」
きりたんは、じっと俺を見上げて、それから、無言で弓を取った。
射位に立つ。空気が、また、変わる。
今度は、わかった。引き絞られていく弓と一緒に、道場の時間そのものが、細く、細く、絞られていくのだ。放たれる瞬間まで、俺は、瞬きひとつ、できなかった。
ぱんっ―――どすっ。
「……以上です。満足しましたか」
「ああ。……やっぱり、綺麗だ」
「〜〜っ。に、二回も言わないでください!」
「え?なんでだ?」
弓を抱えて足早に去っていく小さな背中に、部員たちの、こらえきれない笑い声が、ぱらぱらと降った。
「鈍感すぎますよ……」
―――
帰り際。道場の入口で、きりたんは、使った矢を、柔らかい布で一本一本、丁寧に拭いていた。矢羽の乱れを指先で整え、光にかざして、また拭く。その手つきは、日頃の毒舌からは想像もつかないほど、優しかった。
「大事にしてるんだな、道具」
「……道具は、裏切りませんから」
ぽつりと落ちたその一言は、いつもの皮肉より、ずっと静かで、少しだけ、寂しい音がした。
「……また、見に来てもいいか?」
矢を拭く手が、止まった。
「…………好きにすれば、いいでしょう。ただし、事前申告制です。私の練習記録が、乱れるので」
「はいはい。申告します」
「『はい』は一回です」
「はい」
「……よろしい」
夕陽の道場に、誰かの弦音が、ひとつ、澄んで響いた。