01. 空が泣いた日
バケツをひっくり返したような大雨だった。屋根に叩きつける雨音が、闇をつんざく鼓動のように響き渡る。まるで石造りのコテージが恐怖におののいているかのように。
その激しさ故か、暖炉の前の女性が編み物の手を止めた。赤々と燃えさかる火に照らされ、彼女の睫毛も、三日月のような弧を描いた眉も、無造作に束ねた髪も、すべてが燃えるような赤に染まっていた。化粧っけのない顔、擦り切れそうな傷んだ服──それでも彼女は一輪の花のように瑞々しく、美しかった。
「ママ。あめ、やまないね」
滝のように水が滴る窓から両手を離し、幼い少女が振り返る。「ママ」は女性に向けられた言葉だ。しかし、どう見ても母親というよりも年の離れた姉といった方がしっくりとくる。
女性は編み物をテーブルに置くと、おもむろに立ち上がった。
「そうね。雨は嫌い?」
「うん。だって、おそらがないてるみたいだもん。かなしい、かなしいっていってるみたい……パパに、あいたい」
「パパのお仕事はまだまだ終わらないの」
カーテンを閉めながら、若い母がつぶやいた。置時計はまだ午後三時を過ぎたところだ。
不服そうに唇を尖らせた少女は、母の腰にしがみついた。
「ねえ、ママ。なんでパパ、いつもいないの?
ローレンのパパは、おやすみのときは、かぞくでおでかけするんだって。ジェイミーのパパは、ママといっしょにクッキーつくるんだよ? でも、パパはいつもおそくかえってくるし、あたしがねてるあいだに、またいっちゃうんだもん……」
「パパはあなたとママを食べさせるのに頑張って働いてくれてるの。そんな風に言っちゃ、駄目」
「でも」
「シッ──」
冷水を浴びせられたように、母の顔から血の気が引いた。険しい顔つきのまま、娘の身体を振りほどいてドアへと向かう。ただ、三歩分の距離を置いたまま、凍りついていた。
雨音よりも大きなノックが響き渡る。不審な目を向けていた娘が、途端にパッと顔を輝かせた。
「パパ、かえってきたんだ!」
「だ、駄目……ナーサ! ナルシッサ!」
止めるのも聞かず、ナーサはドアに飛びついて鍵を外した。ギッと鈍い音を立ててドアが開いた瞬間、白蛇のような稲光が部屋を駆け抜けた。
ドア枠の向こうの暗がりには、全身ずぶ濡れの男が立っていた。男は口を利けないでいる母子の横を、のそりと一歩踏みだす。張りついた服からしたたる水滴が、音を立てて床に落ちていった。
がっしりとした背には脱力した男が負われている。手は力なくブラブラと揺れており、一目で意識がないのが分かった。
「ドラコッ? ドラコ、しっかりして! ねえ!」
「通してくれ! 早く寝かしてやらなきゃならねえ」
乱暴に言い捨て、男は足音荒く家の中に入ってくる。ジニーは娘の手を引き、よろめきながら追っていった。
脱力した身体から外套と衣類を剥ぎ取って、なんとか形ばかり整えると、彼女は夫を運んできてくれた男にタオルを渡しながら訊いた。
「どうもありがとうございました。あの……夫はどうしたんですか?」
「作業中にバッタリ倒れたんだよ。病院に連れてってやりたかったんだが、あいにくと、この天気だしなあ……」
病院と小さく呟くと、ジニーはうなだれた。
「……いいえ、ありがとうございました。後はこちらでなんとかいたします。急に仕事に穴を空け、申し訳ありません……」
「なんも気にすることはないさ。多分疲れが溜まってるんだな。しばらく休んで養生すればいいさ。
さあさ、ジニー、あんたもひどい顔してるぞ。ドラコ自慢のべっぴんさんが台無しだ。心配しすぎんな。あとでカミさんを寄越すよ。チビちゃんにもあったかいもんを食べさせてやらにゃ」
ドラコの帰宅から数時間が経った。隣の部屋でナーサがシチューを貪るように食べる音が、やけに耳につく。激しい雨脚は通り過ぎたのだ。ジニーはぼんやりとそう思いながら、ドラコの濡れた身体を拭いた。暖炉の火はくすぶり、消えかけても薪を足す僅かな時間も惜しい。
それから、さらに数時間。ナーサは半分ベッドに寝転がって、眠りの世界に行きかけていた。何者かに引き離されるのを恐れるように、布団の中でドラコの手をしっかりと握りながら。寄り添った寝顔が、胸が詰まるほどに愛おしい。
「……ナーサとあなた、本当にそっくり」
眠る夫にそっと語りかけながら、ジニーは微かに笑みを浮かべた。
「覚えてる? 二人で逃げだしたあの日のこと。
もし、あのままあそこにいたら……あなたは、今よりもっと幸せだったでしょうね……学校を卒業して、あなたに相応しい仕事をして、ちゃんとした人と結婚を……」
声が、震えた。けれど、ジニーは気丈に顔を上げた。
「……巻き込んで、ごめんなさい。それでも、あたしは、今が幸せだった。どんなに貧しくて、どんなに苦しくても。あなたが、側にいてくれるから」
胸の奥にしまいこんだ、遠い記憶。優しく抱きしめてくれた養母の、柔らかい手。いつも寄り添ってくれた少年の日の兄。そして全てを投げ打って、自分の隣にいてくれる人を──。
「……ドラコ兄さま」
遠い日の呼び名を口にした瞬間、視界がにじんだ。けれど涙をこらえたまま、彼の肩にそっと身を寄せる。静かなその仕草は、言葉よりも雄弁に、彼への想いを物語っていた。
「……重い」
その微かなつぶやきに、ジニーはハッと身体を離した。ゆっくりと目をまたたいているドラコを見て、こらえきれず大粒の涙をこぼしてしまう。
「ドラコ! よかった……このまま死んでしまうかと……」
口元を微かに歪めて、ドラコは首をもたげた。添い寝しているナーサが目に入ったのだろう。ぎこちなく娘の頭に手をやった。
「この子にも……心配させてしまったんだな。ごめんな、ジニー」
「なに、突然……?」
日に焼けていたはずの肌が、灰色に見える。唇は蒼白で、乾いたひび割れていた。
「絶対に……幸せにしてやるなんて、大層なこと言っておいて、結局は……お前に苦労ばかりさせてしまった」
「そんなこと……どうして、ドラコ。どうして急にそんなこと言うの?」
まるで別れの挨拶みたい──ジニーは不吉な言葉を呑み込み、笑おうとした。けれど、笑いは途中で凍りついてしまう。
ドラコはゆっくりと首を振り、目を瞑った。重く、苦しげな息が漏れ聞こえている。口に含ませた方がいいだろうか。立ち上がりかけたジニーを、縋るような目でドラコは見上げた。
「……ブラック家……覚えてるな。レグルス……あの人なら、きっと……力を貸してくれる。連絡を取って、頼るんだ。
ナーサの、こと、頼んだ……ごめん、ジニー。ずっと、守ってやれなくて──」
「ドラコ?」
娘の頭を撫でていた手が、止まった。
ジニーは待った。ドラコの手がもう一度動くのを。疲れて、また寝入ってしまったのだ。ただそれだけだ──そう必死に言い聞かせながら、手首に指を当てた。息せき切って走ったように荒い呼気が、彼のものであってほしかった。
嗚咽を漏らしながら、そっと口の上に手をかざしてみた。だが、何も感じられない。
まだ父の手を握りしめたままのナーサが、身じろぎして身体を起こす。娘の不安に満ちた顔を見ても、ジニーにはかける言葉がなかった。彼女はただ、涙に暮れるばかりだった。