ホグワーツでの最初の一ヶ月は風のように駆け抜けていった。授業はマルフォイ家の英才教育のおかげでほとんど困らなかったが、生活面では勝手が違った。
祖父の屋敷は使用人が全てを完璧に整えてくれた。服は翌日の予定に合わせて用意され、脱いだ後はリネンのバスケットに入れておけば消えていた。
ところが、ホグワーツでは着た衣類は自分で洗濯物置き場まで運び、戻ってきたものはベッドの上にくしゃりと置かれている。安っぽい柔軟剤の匂いが鼻につくたびに、ナーサは小さく溜め息をついた。
けれど、周囲は誰も気にしていない。むしろ「自分でやらなくていいから楽だよね」と笑うルームメイト達に、ナーサは黙って微笑んだ。
勉強道具の準備も一苦労だった。時間割と持ち物リストを突き合わせ、黙々と確認する。なのに、忘れ物や落とし物が人より多くて、何度もしょんぼりした。
「もっと前もって準備しなきゃ!」
「ローブ忘れてるよ、ほら」
「ナーサ、羽ペン落としてる」
ルームメイトたちは口々に声をかけてくれる。優しい笑顔に救われる一方で、その裏に失望が隠れているのではと、不安も消えなかった。
そんな中でも広い城の中を歩いている時だけは心が軽くなる。知らない教室に忍び込んでみたり、肖像画と立ち話をしてみたり、廊下をすり抜けるゴーストの後をつけてみたり──きらきら輝く石を自分だけの宝石箱に集めるように、ナーサは日々の冒険を楽しんだ。
「やあ、ナーサ・マルフォイ」
ある日の放課後の廊下で、グリフィンドール憑きのゴーストに声をかけられた。
「こんにちは、サー・ニコラス」
【ほとんど首無し】と呼ばれるのを嫌がると知っていたので、敬意を込めて名を呼び、お辞儀する。真珠色の頬がほんのりと染まり、彼はにこりと笑った。
「君は実に礼儀正しい子だ。最近よく一人で歩く姿を見かけますが、友達とケンカでも?」
「いいえ。ただ、ホグワーツ探検が楽しくて」
その答えにサー・ニコラスは嬉しそうに頷いた。
「分かりますよ。私も生きていた頃は、見知らぬ場所を探検しては胸を躍らせたものです。冒険好きはグリフィンドール生の性なんでしょうね」
その時、幾人ものゴーストが壁をすり抜けてきた。彼らと挨拶を交わしながら、ナーサはふとした疑問を口にする。
「お尋ねしてもいいですか? サーはドラコという人をご存じですか?」
「ああ、君の父親のドラコ・マルフォイのことですね。貴公子のような風貌で、人目を惹いた。君は、よく似ておられる」
その言葉に、ナーサの頬が熱を帯びた。
「父は、あたしが六歳の時に亡くなりました。ホグワーツにはゴーストがたくさんいるから、もしかして……」
サー・ニコラスは一瞬目を伏せ、やがて優しく微笑んだ。
「……お父上が恋しいのですね。
けれど、全ての者がゴーストになるわけではありません。強い未練を残した者だけが、こうして留まるのです。首を斧で四十五回も斬られ、なお死を恐れてしまった私のように」
そう言って彼は左耳を引き、頭をぶらりと外しかけた。生々しい傷跡が剥き出しになり、ナーサは思わず息を呑んで口元を押さえた。
「失礼」と慌てた様子で頭を戻すと、大きなひだ襟を整えながら言った。
「ですから、ゴーストにならなかったのは、お父上にとって幸せだったのかもしれません」
「……そうですね」
引きつった笑みを浮かべるナーサに、サー・ニコラスは丁寧に一礼し、壁の向こうへと消えていった。
廊下に静けさが戻ると、胸の奥に小さな穴が空いたような気がした。けれど、同時に心の何処かでくすぐったいような高揚感もあった。
(ホグワーツは、まだ知らないことがいっぱい。だったら、落ち込んでいる時間なんて勿体ないよね……もっと探検してみよう)
そう決めて歩きだした先には、真ん中辺りで一段消える階段があった。ナーサはドキドキしながら階段に近づいていき、まずは一段一段数えて消える段を確認した。
(つま先で触ったら、どうかな?)
そろりと触れてみると石の感触はまだある。かかとならどうかと軽く乗せてみると、階段は音もなく消えた。
それならと、ナーサは靴を片方脱いで階段に触れようとした。その時、後ろからコホンと咳払いが聞こえた。いつの間にか、ナーサの後ろには長蛇の列があった。
「……あ、邪魔してごめんなさい。どうぞお先に」
ハッフルパフの一年生達だ。どんな生徒でも受け入れるという創設者の意志なのか、彼らはいつも団体行動をしている。
ぞろぞろ横を通り過ぎていく中で、そのうちの一人がナーサの前で足を止めた。ナーサと同じくらいの背丈の黒髪の男子だ。少し低めの鼻に、丸みがある顎。異国の血が混ざっているのを感じる。
「ねえ、君。さっきから何やってたの?」
声変わり前の澄んだ声──グリフィンドール生以外に話しかけられたのは初めてだ。「なんでもない」と流すつもりだったのに、その素直な眼差しに押されるように言葉が零れた。
「ちょっと、実験を……」
「実験?」
「この階段、途中で一段消えるでしょ? つま先を軽く当てたり、飛び越えるフリをしたらどうなるのかなって」
説明しているうちに、何故か体が勝手に動いた。
五段ほど下がってから、助走をつけ、ジャンプする寸前で手すりにしがみつく。一瞬消えかけた階段は点滅するように現れては消えた。
「……こんな風になるんだ! ねっ、見た?」
見せるつもりじゃなかったのに、気づけば子どもみたいにピョンピョン跳びはねて得意げに言ってしまう。ナーサは頬が火照るのを感じた。
きょとんとした男子は、次の瞬間プッと吹き出した。その笑顔には何の陰りもなく、光輝くようだ。
「頑張って。君って、すごく面白い。何でも楽しそうにやるんだね。よかったら今度、実験結果をまとめて教えてよ」
そう言うと、彼は軽やかに階段を飛び越えて、友達のところまで走っていった。
マルフォイの娘と気づかなかっただけかもしれない。けれど、警戒されてばかりの自分にあっさりと近づいてきた少年が、ナーサの心に消えない光を残していったように思えた。
しばらく実験を繰り返していると、今度はスリザリンの上級生グループが通りかかった。
「やあ、ミス・マルフォイ」
九と四分の三番線プラットフォームで祖父と挨拶していた、ケイレブ・ヤックスリーだ。
彼は滑るようにナーサの側に跪くと、右手の甲に軽く口づけた。その洗練された一連の仕草に、ナーサは思わず小さく息を呑んだ。家庭教師から習った礼儀作法の一つだと知ってはいる。けれど、いざ自分がされると──胸の奥から熱が込み上げるのを抑えられなかった。
騎士道を重んじるグリフィンドール生だって、女子にこんなことをしているのは見たことがない。まるで騎士に守られる姫になったようで自然と笑みがこぼれてしまう。
「こんにちは。ミスター・ヤックスリー」
「寮も学年も違うと、なかなか会えないものだね。グリフィンドールにはもう慣れたかい?」
「はい。色々失敗はするけれど、皆とても優しくしてくれます」
失礼な弟とは違って、ケイレブ・ヤックスリーは紳士の鑑のような人だった。ナーサの答えに彼は微笑んだまま続ける。
「それはよかった。なんというか──自由な寮だからね。君のように礼節を重んじる家で大切に育てられた子には、少し負担が大きいのではないかと心配していたんだ」
ケイレブは友人達に先に行くように促しながら、さりげなくナーサを廊下側へと導いた。
「授業の方はどうだい?」
「なんとかやっています」
祖父が側にいない自分など、価値がないと思っていた。彼が挨拶だけで終わらせなかったことに、ナーサは心がじわりと温まるのを感じた。
ケイレブは微かに目を細めた。
「私の聞く限り、君の評判はすこぶるよかった。きっと、おじいさまの教育の賜物だろう。ところで、図書室には行ったことが?」
「いいえ。まだ、道順を覚えきれなくて」
「よかったら案内しよう。なかなか魅力的な場所だよ。魔法界でも随一の蔵書数で、自習するにも最適だ」
二人で並んで歩き始めると、すれ違いざまに物珍しそうに見てくる生徒が増えた。ケイレブはそんな視線には気づいていないのか、サラリと髪をかき上げる。
陽光に透ける金髪に、凪いだ海のように青い瞳──彫像のような横顔といい、女子に騒がれるのがよく分かる。
ナーサの視線は自然と彼の服装に向かった。シャツの襟はパリッとアイロンがかかり、袖口や肩の線まで整っていた。同じ環境でどうやってこんな風に整えているのだろう。今さらながら、自分の乱れた服装が恥ずかしくなる。
目が合いそうになり、ナーサは慌ててうつむいた。すると、微かにケイレブが笑う気配を感じた。
「そういえば、ホグワーツ特急で……リラルドは君に何か失礼しなかったかな?」
──いくら血筋がよくたって、育ちが悪けりゃな。
ナーサはホグワーツ特急で言われた言葉を思い出し、きつく拳を握りしめた。
「失礼というか……弟さんは、きっとあたしのことが嫌いなんだと思います」
淡々と語ったつもりだったが、ケイレブは深い溜め息を吐いた。
「やっぱり……あいつは、なかなか自分の気持ちに素直になれなくて。ホグワーツで君と会えるのを、ずっと楽しみにしていたのに」
ナーサはどう反応していいか分からず、曖昧に微笑んだ。自分の気持ちに素直になれないから真逆の言動をするなんて──そんな馬鹿なこと、あり得るのだろうか。
回廊の窓から、バサバサと羽音を立てて飛び立つ二羽のカラスが見えた。ぴたりと寄り添うように並んで、同じ空へと向かっていく。
「君達二人には育ちという共通点がある。他の生徒には及びもつかない環境を生き抜いてきたのだから……それ故の孤独も抱えることになる」
ナーサは思わずケイレブを見た。グリフィンドール憑きのサー・ニコラスはともかく、ケイレブと会ったのは数週間ぶりだ。なのに周りと隔たりがあることを見透かしているかのような言葉だった。
「真に分かり合える相手は一握りだ。それを心に留めておいてほしい──さあ、ここが図書室だ」
ケイレブが扉を押し開いた瞬間、古めかしい紙と甘いインクの匂いが一気に押し寄せるようだった。思わず感嘆の声を上げかけたナーサに、ケイレブは人差し指を唇に当てた。
「……司書が、話し声を嫌う。もっと奥へ」
図書室の中は完璧なまでに美しかった。居並んだ高い書架、丸みを帯びた高い天井、ステンドグラスのはめ込まれた窓。学校の一部というより、ここ自体が一つの美術品のようだ。ナーサはあちこちを見回しては吐息を漏らした。
「自習の時はこちらへ……少人数の学習室だ。ちょっとした内緒話をしたい時にもお勧めだよ」
ケイレブは中に入りかけ、足を止めた。燭台の明かりが、組分けの儀でグレイスを助けた、あの黒髪の男子を映しだしている。
「やあ、アッシュ」
ケイレブが声をかけると、彼は僅かに目線を上げた。長い前髪の合間から覗く琥珀色の目は、暖色なのに冷たく感じる。彼は無言のまま、ケイレブと、そしてその後ろにいるナーサを見つめた。
彼は机に山積みにした蔵書の束を抱えると、静かに立ち上がる。すれ違ったその目は、話しかけるな──そう言っているようだった。
「……ミスター・ヤックスリー、あの人は?」
「四年生の、アシュタロス・クラウチだ」
ケイレブの声には微かな棘が含まれていた。ナーサは気づかず、口の中で何度かその名を転がしてみた。不思議と耳に残る名前だった。
ケイレブは眉をひそめながらも、穏やかに続けた。
「彼はなかなかの秀才でね。来年のO・W・Lでは数年ぶりに十二ふくろうを達成すると言われている。我がスリザリンの誇りだよ」
「すごい……! 優秀な人なんですね」
ナーサは頬を紅潮させたまま、クラウチが出ていった出入口に目を向けた。ケイレブは渋々といったように頷く。
「ただ……そうだな、少し人間嫌いの気がある。あまり人に関心がないというか。寮に馴染めるよう手を貸してやりたかったんだが、私の力不足でね」
人に関心のない人が、校長に咎められる危険を冒して見ず知らずの少女を救った? ナーサにはそれが矛盾に思えてならなかったが、ケイレブは口元だけで笑ってみせた。
「もし、君が寮の外に友人をつくるなら、君の立場をよく理解してくれる人が望ましい。必要なら私はいつでも手を貸すよ──ナーサ嬢」
「ありがとう……ございます」
何処までも好意的なケイレブの申し出に、ナーサは何故か鎖でがんじがらめにされるような息苦しさを覚えた。