初めて立ち入った二号温室は甘く優しい香りに満ちていた。雪の結晶を思わせる小さく可憐な花が固まり、一つの大きな花に見えるエルダーフラワー。ナーサはしゃがんで、咲き誇る花の一つをそっと揺らしてみた。サラサラと軽やかな音と共に、一層香りが強くなる。
「マルフォイ、よく来てくれたね」
大きな植物の陰から、ロングボトム先生が姿を見せた。
「こんにちは、先生」
ナーサは姿勢を正して、素早く先生に駆け寄った。
授業が終わった後、頼みたいことがあると言われた時に、ナーサは直感的に父のことを思い浮かべた。今日こそ何かが聞けるのではないかと思うと気持ちが急いてしまう。
先生は作業用のグローブをナーサに手渡しながら、優しく言った。
「今日はエルダーフラワーの剪定作業を手伝ってもらおうと思ってね。知っているかい、この花のことを」
「発熱や呼吸器系の炎症、鎮静効果など色んな効能のある万能薬ですね。花がなった後にできるベリーにも同様の効果が含まれますが、毒もあるとか……」
家庭教師に習った知識をそのまま伝えると、ロングボトム先生は大きく拍手してくれた。ナーサは口元がムズムズ動くのを抑えられなかった。
「その通り。お手本のように完璧な説明だ。グリフィンドールに五点あげよう」
ナーサは思わず拳を握りしめ、にっこりと笑った。一気に五点もらったのは初めてだった。
「でも、先生。開花期が違う気がして」
思い違いでなければ、祖父の屋敷の庭では初夏に満開になっていたはずだ。それを伝えると、ロングボトム先生は目を丸くした。
「よく気がついたね。魔法で開花期を調整しているんだ。生徒が夏休み中で不在だからね。こうすれば薬草学の授業に使えるだろう? それに魔法薬学にもね。君はなかなか洞察力が鋭いようだ」
先生の言葉にナーサは胸がぐんと熱くなるのを感じた。ロングボトム先生はただ普通に話しているだけで、人の長所を汲み取ってくれる──そんな気がした。取ってつけた褒め言葉ではなく、優れたところを見つけて拾い上げてくれる。
陽に透ける先生の顔には薄い傷跡がいくつも浮いている。先生のこれまでの歩みには、きっと隠された冒険の数々があったんだろう。戦士のような勇ましい過去を想像し、ナーサは密かに胸をときめかせた。
(グリフィンドールの寮監が、ロングボトム先生でよかった……)
先生はひとかたまりになった花の前で膝をついた。
「花を摘む前に、茎の下の葉を整えてあげるんだ……こんな風にね。枯れた葉や傷んだ茎があると、香りや効能が落ちてしまうからね」
ロングボトム先生に渡されたハサミで、そっと葉を取り除いた。指先に伝わる柔らかな感触、微かに漂う甘酸っぱい香りが心地いい。
「次に、花を摘む。花弁を傷つけないように、茎の根元から丁寧に切るんだ。ハサミの先端を使うと、茎を余計に傷めることがある。奥の方で……そうだ」
手元の花をそっと握ると、薄い白い花びらがふんわりと指先に触れる。まるで羽毛のように柔らかい。花を切り取り、籠に入れていくと、甘い香りがますます広がった。
ナーサは夢中で剪定に没頭した。話をするでもなく、作業の合間にロングボトム先生と目が合うと笑いを漏らす。
薬草学なんざ、クソつまんねぇ──スリザリンのヤックスリーのように悪しざまに言う生徒も少なくなかったが、ナーサにとって、これは新鮮でやりがいのある作業だった。
気づけば温室のガラス越しに西陽が注ぎ込んでいた。こもった熱が外気よりも大分上がっている。ナーサは目を細め、そっと額に浮いた汗を拭った。
「よし、もう十分だ。大変だったろう」
「いいえ。とても楽しかったです、先生!」
ナーサがそう答えると、ロングボトム先生の顔が一層和らいだ。
「そんな風に言ってくれる生徒はなかなかいないよ。君は不思議な子だな。マルフォイ家で育った箱入りのお嬢さんなのに、何にでも楽しく向き合える。
君のお父さんといったら──プライドが高くて、時々こちらが辟易するくらい鼻持ちならないところがあったというのに」
父の話題にナーサは軽く息を呑んだ。胸がトクトクと音を立てているのを感じる。
先生は悪戯っぽく笑いながら、摘んだ花を籠に整えていく。
「取り巻きを従えて、わざと大きな声で笑ってばかりいるようなところがあったな。薬草学なんて何の役にも立たないと、授業中にわざわざ言い放ったこともあった」
「……パパが、そんなことを?」
ナーサは目を瞬いた。リラルド・ヤックスリーのような嫌な奴だったんだろうか。ナーサの顔をよぎった不安に、先生はゆっくりと首を振った。
「まあ、うっかりイモムシを触って絶叫した直後のことだったからね。無理もないさ」
「やだっ」
思わず声を上げて笑ってしまうと、先生はおどけるように肩をすくめた。それから、少し声を落として続けた。
「だが、私は知っているんだ。彼は陰では誰よりも努力していた。分厚い本を抱えて図書室に通い詰めて、取り巻きに見られないように勉強していたんだよ」
その口調は不思議と柔らかかった。
「君もきっと努力の日々だったろう。エルダーフラワーの説明を聞いただけでも分かったよ。血は争えないものだ」
ナーサは胸が温かくなるのを感じた。学生時代の父は完全無欠な人間ではなくとも、尊敬できる人だった──そう分かっただけで十分に嬉しい。
ロングボトム先生はわざとらしく咳払いをした。
「──っと、危ない危ない。うっかり昔話に花を咲かせすぎるところだった。歳を取ると、つい口が軽くなってね」
「ありがとうございます、先生。父のことを知ることができて嬉しかったです。
あの……もしかしたら、ホグワーツには先生以外にも父を知ってる人はいるんでしょうか?」
サー・ニコラスのように父の存在を知っている人が残っているかもしれない。期待に胸をふくらませるナーサに、ロングボトム先生は考え込むように眉を寄せた。
「……おそらく飛行訓練のディゴリー先生は知ってるはずだ。シーカーとして競っていたから」
「シーカー? パパ──いえ、父はクィディッチ選手だったんですかっ?」
シーカーといえばクィディッチの花形ポジションだ。目を輝かせるナーサに、ロングボトム先生は困ったように笑った。
「詳しくはディゴリー先生に聞いてみるといい。ちょうど来週から飛行訓練が始まるんだろう?
他には……そうだな。スネイプ先生は、私達が在籍していた頃からスリザリン寮監だった。目立つ生徒だったから、ドラコのこともきっと覚えておいでだろう」
新たな情報にナーサの心は一気に浮き立った。
ディゴリー先生のことはよく知らないが、魔法薬学のスネイプ先生なら何度も授業を受けたことがある。気難しそうな印象の先生だが、魔法薬に関しての知識が豊富で、家で予習していた範囲でも学びが多かった。寮監だったなら、父と親しかった可能性は十分にある。
「ディゴリー先生に、スネイプ先生……ありがとうございます、ロングボトム先生っ。お二人にも父のことを聞いてみようと思います」
弾んだ声でそう言うナーサに、ロングボトム先生の頬が僅かにこわばった。
「……ああ。まあ、聞いてみるといい。ただし、スネイプ先生は簡単には口を割らないだろうがね」
先生の口調は優しかったが、その目の奥には何故か不安が渦巻いているように見えた。