校庭には五十本もの箒が整然と並べられていた。今日は四寮合同の飛行訓練で、いつもよりも人数が多い。自分がどれだけ箒を使いこなせるのか、自慢の声があちこちから聞こえてくる。
授業が始まれば、ディゴリー先生と会える。新たな父の一面を知ることができるかもしれない。
一方で、もし箒に乗れなかったらと考えると、ナーサは不安でたまらなかった。
一流の魔法使いのたしなみとして、祖父には様々な習い事をさせられてきたが、箒だけは淑女には相応しくないと触ることも許されなかった──ナーサはローブの上からネックレスに触れ、深呼吸した。
「ねえ、緊張してるみたいだけど……大丈夫?」
隣りにいたアリッサが、大きな眼鏡の奥から心配そうに見ていた。
「ちょっと……自信がなくて」
「気楽にやんなって。箒に乗れなくたって死ぬわけじゃないし。何なら、乗れた方が死ぬ可能性高まるんだからね」
ジャニスの現実的な言葉に思わず頬が緩んだ。
その時、すぐ隣りの列に並んでいたハッフルパフの男子がナーサを振り返った。サラリと揺れる黒髪──合間から覗いた灰色の目が、大きく見開かれた。
「あ、こないだの……」
消える階段の実験中に話した男子だった。彼はパッと顔を輝かせた。
「やあ。実験の結果はまとまったかい?」
「うん。あの後も色々試してみたよ」
「そうだ。僕はルーク。ルーク・ディゴリーだ」
「もしかして……ディゴリー先生のご親戚?」
ナーサは驚いて訊き返した。
「うん、そうなんだ。父だよ」
ルークはすんなりと頷いた。短い言葉の中にも、誇らしさが滲み出ている。父親を熟知しているからこその発言だ。ナーサはほんの僅かに心が疼くのを感じた。
「それで、君はナーサ・マルフォイだよね?」
屈託のない笑顔で手を差しだしてくる。ナーサは少し躊躇いながら握手を交わした。
「……あたしのこと、知ってたの?」
「そりゃ、有名人だもん。今年の一年生には、ものすごい可愛い子がいるんだって皆が騒いでたんだよ。知らなかった?」
冗談という口ぶりではなかった。ナーサは嬉しさと恥ずかしさに頬が火照るのを感じた。
勿論、マルフォイの娘がグリフィンドールに組分けられたから有名なのだと分かっている。けれど、ほんの一瞬、自分の背後に貼りついた家名の重みがなくなったように思えた。
唐突に後ろに固まったスリザリン男子達の笑い声が大きくなった気がした。振り返ると、中心にいるリラルド・ヤックスリーの嘲るような笑いが見えた。ナーサは軽く睨みつけて、視線を逸らした。
──あいつは、なかなか自分の気持ちに素直になれなくて。ホグワーツで君と会えるのを、ずっと楽しみにしていたのに。
つい先日、彼の兄に言われた言葉を思い出し、首を振った。
仲よくなりたい意思があるなんて、とても思えない。
始業のチャイムが鳴ると同時に、十人ほどの上級生を引き連れた背の高い男性がやってきた。途端に女子達の間から黄色い声が広がった。すぐにナーサにも理由は分かった。
それは一際目を惹く人物だった。黒髪は陽光を受けて光を帯び、乱れた髪すら風に映える。俳優のように端正な顔立ちは華やかだが、微笑みには旧友に向けるような親しみがあった。鍛え抜かれた体つきはローブ越しにも伝わり、その動作にはしなやかさと力強さが同居している。
涼しい顔で手を叩くと、その人は明朗な声を響かせた。
「皆、そろったかな? まずは自己紹介だね。私はセドリック・ディゴリー。これから一年間、君たちの飛行訓練を任されている」
母親がアジア系なのか、ルークの顔立ちはあまりディゴリー先生とは似ていない。けれど、相手が誰であっても拒絶しないような空気感が親子でよく似ている。
そっと横目で見ると、ルークは喜びではち切れそうに見えた。一瞬先生は息子に目をやり、笑いかけた。すぐに視線は全体へと向けられたが、たったそれだけでも深い愛情が伝わってきた。
「箒を扱うコツは信頼だ。飛ぶのを怖がったりしたら、箒は乗り手を信じてはくれない。仲のいい友人のように、信頼を寄せるんだ。そうすれば、箒は必ず応えてくれる」
──聞いたかよ。すげぇメルヘンなこと言ってるぜ。
聞こえるか、聞こえないか。ギリギリの声で言ったのは、またしてもヤックスリーだ。近くの連中も誰も咎めようとしないばかりか、馬鹿みたいに笑っている。
ディゴリー先生は穏やかな笑みを浮かべたまま、ヤックスリーの方へと歩いていった。スリザリン生は笑うのを止めたが、ヤックスリーは不遜な笑みを浮かべている。
「よし、君は相当腕に自信があるようだ。一つ、皆の前で手本を見せてくれないか?」
「……は?」
にこやかに言う先生に、ヤックスリーの無礼な仮面が剥がれ落ちたようだった。当惑顔の彼に、先生はもう一度繰り返した。
「どうすれば箒を手元に引き寄せられるか、皆に見せてやってほしい。お願いできるかい?」
五十人もの視線が集中したせいか、ヤックスリーの顔がほのかに色づいた。足元の箒に手を向け、吐き出すように短く言った。
「アップ!」
バシンッと音を立て、次の瞬間にはヤックスリーの右手に箒の柄が貼りついていた。ワッと歓声が上がると、彼は満更でもなさそうに逆立てた金髪をかき上げた。
ほんのりと悔しさがこみ上げてきたが、ナーサは拍手を送った。注目された中で成功させるのは、きっと一人での成功よりもずっと価値がある。
「さすがだね、ヤックスリー。お兄さんから君の腕前は聞いていてね。君ならきっと成功させられると思っていたよ。
素晴らしい。スリザリンに三点あげよう」
「どうも」
ぶっきらぼうに答えたヤックスリーだったが、先ほどまでとは違ってディゴリー先生への微かな敬意が感じられる。外面だけでなく、手強い生徒にも物怖じしない姿が最高に格好いい──ナーサは一気に先生のことが好きになった。
続いて全体練習が始まった。アップの掛け声が響く中、ナーサは箒の上に震える手をかざした。
「……アップ」
箒は地面を横に転がるだけで、少しも距離が縮まらない。段々と周りから喜びの声が増えてくると、より一層不安が募ってきた。
(このまま、できなかったらどうしよう。パパはシーカーだったのに、あたしは……)
ギュウギュウとお腹を押されるような痛みに、ナーサは泣きたくなってきた。成功した子達が好奇の目を向けてくるのも我慢ならない。
その時、肩を軽く叩かれた。見れば、ルーク・ディゴリーが安心させるような笑顔を浮かべていた。
「マルフォイ。さっき父さんも言ってたろ? 仲のいい友達みたいに箒を信じるんだ。大丈夫、君ならきっとできる。
もう一度。少しだけ大きい声で言ってみてよ」
不思議と手の震えが止まっていた。ナーサは深く息を吸い込み、声を張った。
「アップ!」
次の瞬間、箒が弾かれるように手のひらに飛び込んできた。握った感触が信じられず、思わず箒を抱きしめるように持つと、ピョンピョンと跳ねてしまう。
「……できた! ねえ、できたよ!」
「見てた見てた! やったね、マルフォイ!」
思わずハイタッチした二人に、ジャニスとグレイス、メイジーが口笛を吹いた。
「やる~、いいね! 青春だ!」
「ハッ……たかが箒を呼び寄せただけで得意顔かよ。こっち見ろよ、マルフォイ。箒ってのはこうやるんだ!」
いつの間にか傍まで来ていたリラルド・ヤックスリーが、挑発の言葉と同時に箒に飛び乗る。
足が地面を蹴った瞬間、彼の身体は矢のように空へ舞い上がる。制服が風をはらみ、大きく翻った。太陽を背にしてこちらを見下ろす姿は、思わず息を呑むほど絵になっていた。周囲からのどよめきが上がるのも当然のように思えた。
だが、次の瞬間──シュッと黒い影が走り、ゴンッ! 乾いた音が空に響いた。
「この、タコ! 先生の合図を待ってから飛ぶんだよ!」
頭を押さえてよろめくヤックスリーの後ろに、拳骨を振り下ろした癖っ毛の女子がいた。グラリと体勢を崩したヤックスリーの首根っこを掴み、そのまま空中で立て直させる。まるでじゃれる子猫を叱りつけるような手際で、周囲からはどっと笑いが漏れた。
「お、俺を殴りやがったな、てめェ!」
ヤックスリーが拳を振り上げかけた次の瞬間、頭上からもう一つの影が落ちてきた。
「うちのキャプテンに手を出すな!」
監督生のイアン・マクドゥガルだ。がっしりとした両腕がヤックスリーを羽交い締めにし、そのまま空を突き破るような勢いで地面に飛び降りる。土煙が舞い、地面に倒れ伏したヤックスリーを巨体で軽々と押さえ込んでいる。
身体をよじって逃れようとするヤックスリーだったが、びくともしない。金縛りから解けた彼の取り巻き達が慌てて駆け寄ろうとしたが、マクドゥガルの睨みに足を止めてしまう。
「痛ェんだよ! よけろ、クソがッ!」
「口の利き方に気をつけろよ、お坊ちゃん」
ヤックスリーの髪は乱れに乱れ、まるで雨に打たれた金色のハリネズミのようだった。さっきまで尊大に笑っていた姿はどこにもなく、哀れっぽい顔に思わず頬が緩む。
けれど、マクドゥガルのタックルで、背中はきっとひどく痛んでいるに違いない。ナーサは苦笑しつつも、少しだけ気の毒にも思った。
マクドゥガルは癖っ毛の女子に目をやった。
「大丈夫だったか?」
「サンキュ、助かった!」
そう言うと、つかつかと歩み寄り、もう一度ヤックスリーの頭を殴りつけた。先ほどよりも激しい音に、思わずその場の皆が顔を見合わせた。
「飛行訓練を舐めるんじゃない。この、バカタレが!」
「おーい。そこのグリフィンドールの二人……!」
涼しい声が割って入り、セドリック先生が困ったように笑みを浮かべた。マクドゥガルはすぐさま立ち上がり、背筋を伸ばした。
「すみません、先生。行き過ぎました」
「いや……まあ、気持ちは分かるがね。新入生相手ってことを忘れないように」
先生の言葉にマクドゥガルは「はい」と素直に応じた。
よろめくヤックスリーは二度も殴られた頭を押さえながらも、何も言い返せないようだった。ナーサは思わず笑ってしまった。
「よし。じゃあ、皆も一度飛んでみようか。箒を跨いで、地面を強く蹴るんだ」
ナーサは素早く箒に跨った。ついさっきの成功体験が緊張を解していた。
両足で地面を蹴った瞬間、身体が大きく浮き上がる。ゆっくりと目線が上がっていき、綻びた口元から喜びの声が漏れた。
「もうコツを掴んだんだ。すごいや!」
同じ目線でそう言うルーク・ディゴリーに、ナーサはにっこり笑った。
「あなたのお陰だね。ありがとう」
「まさか。君の力だよ」
宙に浮いているのは、全体の半分くらいだった。バランスを取るのが難しいのか、左右をサポートの上級生に支えられたり、暴れ回る箒から振り落とされそうになったり──授業前に聞いていたよりも、乗りこなせている生徒は少なかった。
「そこのアンタ。なに、さっきまではふざけてた?」
癖っ毛の女子がナーサのすぐ隣りに並びながら、ジロジロと見てきた。「信じられない」と言いながら、ナーサの周りを回りだす。
「全っ然芯がブレてない……家では結構乗ってたの?」
「ううん。今日はじめて箒に触ったの」
責められるのかとドキドキしながら言うと、癖っ毛の女子は目を見開いた。
「マジで? はじめてだってっ? ねえ、ちょっとイアン、聞いたっ?」
横で別な生徒を見ていたマクドゥガルも向かってきて、ナーサは上級生二人に挟まれる格好になった。
「はじめてで箒に乗れるヤツなんていたんだな。俺も初乗りの時は相当時間かかったぞ。すごいじゃないか、マルフォイ!」
「ねえ、アンタさ、二年生になったら、うちのチームに入ってよ!」
「チーム?」
グイグイ近づいてくる癖っ毛の女子から僅かに身を引いたナーサだったが、彼女は両手を離してガッチリとナーサの両肩を押さえつけた。
「グリフィンドールのクィディッチ・チーム。私、キャプテンのアデリナ・フォーテスキューね。
くっそ、一年生からチームに入れたらな~……前例がないとか言って、あのカエルババアは許しちゃくれないだろうな~。あー、勿体ない!」
ナーサは少しずつ彼女が自分を評価してくれていることに気がついた。風に当たっているのに、頬は何故か燃えるように熱い。
「よし、皆そろそろ降りておいで!」
ディゴリー先生の掛け声で、空に浮いていた生徒達はゆっくりと降り立った。飛べなかったアリッサやメイジーをはじめ、ジャニスやグレイスも揉みくちゃにして褒めてくれた。
胸がはち切れそうな嬉しさの中、ディゴリー先生が近づいてきた。
「とても安定した飛び方だったね、マルフォイ。
君のお父さんも身体の使い方がとても上手だった。そんな風に最小限の力で、流すように飛行することができたんだ……懐かしいな。
君の初飛行は本当に素晴らしかったよ。グリフィンドールに三点あげよう」
ワッと上がった歓声にグリフィンドール生達が一斉に抱きついてきた。ナーサはもらった点数以上に父とよく似た飛び方を褒められたことが嬉しかった。