窓の外はもう真っ暗で、黒い湖面は月明かりを静かに映していた。夕日で暖まった空気が急速に冷え込み、暖炉にはいつしか火が熾されていた。パチパチと軽やかな音の中で、少女達の賑やかな声が飛び交っていた。
「いや~……思った以上の大惨敗!」
ジャニスが机の上に突っ伏し、忙しなく羽ペンを動かしながら叫んだ。
「グリフィンドール、やばいっしょ! 何、あの点差! 110対330って、えげつなさすぎでしょ!」
今日の午後はクィディッチの練習試合が開催された。先日ヤックスリーをやり込めた二人の先輩、アデリナ・フォーテスキューとイアン・マクドゥガルが出場すると知り、ルームメイト達と観戦しに行った。きっと楽しい試合になるだろうと思っていたのに、結果は見るも無残だった。
「チェイサーの動きは悪くなかったと思うんだけどね。マクドゥガルの妹の方と、フォーテスキューなんか、バンバン点を取ってたじゃない」
ケージを開けてフクロウに餌をやりながら、アリッサが言う。ジャニスはうんうんと頷いた。
「分かる! フォーテスキュー、マジでかっこよかった! スリザリンのチェイサー吹っ飛ばした体当たり! 痺れちゃった!」
「本当。あの人、シュートも強烈だった。あんなの受け止められるキーパーいないんじゃない?」
「でも、一番すごかったのはリンジーじゃない? あの華奢な体で、パスカット何回やったと思う? 数えただけで七回だよ!」
グレイスが感極まったようにベッドを転がりながら熱い吐息を漏らした。
「イアンもブラッジャーで何度もスリザリンを倒してたし!
マクドゥガル兄妹、マジで最高……! あれで勝てないなんて本当信じられない!」
「キーパーがヘボなんだよ。クアッフルを追うんじゃなく、クアッフルが抜けたゴールを追ってたじゃん! いても、いなくても、変わらなくないっ?」
「シーカーもイマイチ。チェイサーの方が速かったくらい!
あ、でもさ。こないだ、ナーサ勧誘されてたよね? ナーサがシーカーになったら、もしかして」
メイジーの言葉にルームメイト達の視線が集中する。期待に輝く目がまぶしくて、ナーサは枕を抱き寄せると、そのまま顔をうずめた。
「……おじいさまは、クィディッチがお嫌いだから」
暖炉の火の音が急に大きくなった。
先日の飛行訓練の後で、ナーサは母に手紙を書いた。飛び方が父そっくりだと褒められたこと、それにクィディッチ・チームに勧誘されたこと──胸が高鳴るままに書き連ねたが、返ってきたのは祖父の冷たい筆跡だった。
──授業の一環としてやるのは仕方ない。だが、我が家の跡取りが見世物のように空を飛び回るなど、見苦しいにも程がある。周りに流されておかしなことに興味を持つのは、賢いお前らしくない。
風船のようにふくらんだ心は、針で突かれたように一瞬でしぼんでしまった。
(……パパだって、シーカーだったのに。どうして、あたしだけ駄目なの?)
「まっ……クィディッチもいいけど、今週末はいよいよグレイスお楽しみの例のやつじゃん。似合うじゃない、そのパーマ。デニス・マクガバンにやってもらったんでしょ?」
手紙を書き終えたのか、ジャニスはグレイスのベッドに飛び乗り、からかうように頬をツンツン突いた。
照れ笑いを浮かべたグレイスが、ウェーブを撫でながら弾んだ声で言う。
「彼、センスがいいから宴の前はなかなか予約取れないんだって。ラッキーだった!」
「そんなに気合入れたのに、どうする。ゴリラばっかりだったら?」
「やめてー! あの黒髪の王子ほどじゃなくても、イケメンがいることを祈ってるの!
ああ、フェリックス・フェリシスがあったらな~。一生分の幸福凝縮してでも『宴』でイケメンに巡り会いたーい!」
「──…宴?」
ナーサは聞き慣れない言葉に顔を上げた。ジャニスはきょとんとナーサを見た。
「……ん? あんた、もしかしてまだ参加できない?」
「それ、組分けの儀みたいな催しのこと?」
奇妙な沈黙が落ちた。皆、まるでナーサが突然マーミッシュ語を話し始めたような目で見つめてくる。ジャニスは大きく咳払いをした。
「ま、そんなとこ。気にしない、気にしない……まだ、お子さまには関係ないことだから」
ジャニスはやんわりとそう言うと、四人の会話に戻ってしまった。週末の服装はどうする、髪形はどうする、教室は何処に──ナーサはもう一言も口を挟めず、静かに部屋を出た。暖炉のない廊下はひんやりと寒かった。ドアを閉めると、あれだけ賑やかだった声が、もう別世界のように遠い。
(関係ない──そうだよね。ルームメイトだけど、あたしは、友達じゃないもの……)
ナーサは向かう当てもなく校内を歩いた。いつもなら散策中に見かけた随所で色んなアイディアを試していたのに、今日は全てが色褪せて見える。
廊下のずっと向こうから、ガシャーンッと派手な音が響いてきた。ピーブズだろうかとぼんやりと思う。確かめに行くのも億劫だった。
「──ナーサ嬢?」
振り返ると、そこにはケイレブ・ヤックスリーが立っていた。図書室帰りなのか、その腕には何冊かの分厚い本が無造作に束ねられている。目が合うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「やはり遠くからでも一目で分かる。君のそのシルバーブロンドは、マルフォイ家だけの特別な輝きだからね」
特別という言葉に心がくすぐられた。ナーサはもう少しだけ、この優しい人と話をしてみたくなった。
「こんばんは、ミスター・ヤックスリー。弟さんは、その後大丈夫でしたか?」
いつも教室の後ろに陣取って取り巻きの男子達と私語ばかりだったヤックスリーが、あの飛行訓練を境に大人しくなった。マクドゥガルの豪快なタックルでプライド以外にも砕けたものがあったのではと心配になるほどに。
ケイレブは「ああ」と苦笑して見せた。
「あれは自業自得だ──先生の指示を待たずに勝手をやったとか。いい勉強になったと思っているよ。心配してくれてありがとう。
それよりも……何だか浮かない顔をしているね。何かあったかな?」
ナーサは言おうかどうか、少し躊躇った。馬鹿馬鹿しいと一蹴される気もした。けれど、湖水のように穏やかな双眸は何でも受け入れてくれるように思えて、つい漏らしてしまう。
「……部屋にいても、皆の話に入れなくて。ちょっと散歩してたんです」
「なら、少し歩こうか。気が紛れるかもしれない」
ケイレブは邪魔にならないように本を左腕に抱え直すと、ゆっくりと並んで歩きだした。七年生の彼は、見上げるほどに背が高い。長い脚はその気になれば、あっという間にナーサを置いていけるはずなのに、ずっと歩幅を合わせてくれている。何も聞かずに、ただ側にいてくれる──胸の奥に溜めていた不安が、音を立てて溢れだした。
「……皆が、今度の週末が楽しみだって。でも、あたしだけ何の話か分からなくて……別に仲間外れにされてるわけじゃないけど、でも……」
震える声が、段々と大きくなる。言葉にすると、自分は寂しかったのだと理解できた。ルームメイト達は皆優しいのに、時々厚い壁を感じてしまう。自分が異物のように思えるのが、哀しい。
ケイレブは意外そうに目を見開いたが、すぐに口元を緩めた。
「心配はいらない。君が知らないのは、まだその時が来ていないからなんだ」
ナーサが首をかしげると、ケイレブはふっと笑いを漏らした。手招きすると、そっと耳元で囁く。
「少しだけ教えてあげよう。皆が言っているのは音楽と食事を楽しむ社交の場のことだ。そうだな……舞踏会に近い」
低い声が耳をくすぐった途端、ナーサは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
いつか習わされたダンスは、このためにあったのだ。正直踊るのはあまり得意ではなかったけれど、華やかな音楽を聴きながら、きらびやかなドレスに身を包むことには憧れがあった。
熱を帯びたナーサを見て、ケイレブは唇の端を微かに上げ、やがてスッと目を細めた。
「君のドレス姿は花のように皆を魅了するはずだ。早くその日を見てみたいものだね」
ナーサは頬を赤らめた。あんなに塞いでいた心が嘘のように軽くなった。
「お話しして、よかったです。こんなことを打ち明けて、恥ずかしいなって思ったけど……モヤモヤしてた気持ちが晴れました。ありがとうございます」
「それはよかった。君の話なら、いつでも喜んで話を聞くよ」
「……ミスター・ヤックスリーは、とてもいいお兄さまなんでしょうね。弟さんが少し羨ましいです」
不意にケイレブの目が鋭く光ったような気がした。それは瞬きしたほんの一瞬で消え失せたが、ナーサは軽い違和感を感じた。
「妹や弟には正直煙たがられている。私も……君のような妹がいれば、もっと優しくなれたかもしれないね、ナーサ嬢──この呼び方、少しよそよそしいな。君が嫌でなければ、名前で呼ばせてくれないか」
予想していなかった提案に、ナーサは少しだけ戸惑った。けれど、寮が違っていてもこんなに親身になってくれる人だ。
胸の奥がほんのりと熱い。その心地よさに押されるように頷いた。
「どうぞ」
「ありがとう。じゃあ、私のこともケイレブと呼んでほしい」
「──ケイレブ」
それは交換条件のようで、嫌とは言えなかった。そっと口にすると、ケイレブは満足げに微笑んで、またゆったりと歩きだした。
胸がこそばゆく、ナーサは押し黙った。
気づけば少しずつ、下へ下へと足を向けていた。夜の闇は城内にも侵食し、自分達の話し声と足音だけが大きく響く。大半の生徒が自分の寮に戻っている頃合いだ。
「──魔法薬学は杖を振る授業とは違って、なかなか難しいだろう。あればかりは生まれ持ったセンスが物を言う。座学以外は、予習・復習もやりづらいからね」
「そうですね。だから、スネイプ先生の授業は好きなんです。教科書に書かれている以外の知識もたくさん教えてくださるから」
「スリザリン以外で先生を評価する生徒はいないよ。さすが、お目が高いね。ホグワーツ内外問わず、魔法薬学でスネイプ先生の右に出る者はいないだろう。本当に素晴らしい先生だよ」
ナーサはずっと話を切り上げるタイミングを計りかねていた。ケイレブの教えてくれる話はどれも興味深く、もっと聞きたいと思わせる。
けれど、九時になれば寮の外には出られない。もう少ししたら、この楽しい時間も終わりだと思うと、しんみりとしてしまう。
「──この先はスリザリン寮だ」
さりげない言葉にナーサは驚いた。グリフィンドール塔から、すっかり離れたところに来てしまった。そんな心細さが顔に出たのか、ケイレブはクスリと笑った。
「心配しなくていい。時間までにはグリフィンドール塔まで送り届けるよ。私は監督生だからね」
「ありがとう。少し心配だったんです……迷わず戻れるかなって──あの、ここは魔法薬学教室にも近いですか?」
ナーサは胸元から母からもらったネックレスを引っ張りだし、蓋を開けた。時計を確認すると、八時十分──まだ自由時間は五十分ある。
「スネイプ先生に用事が?」
「ずっと聞きたいことがあったんです……あたし、六歳の時に父を亡くしたんです。父はスリザリンで、在学中の寮監がスネイプ先生だったそうで……何かご存じじゃないかと」
ナーサはネックレスを撫でながら、ケイレブに視線を移した。彼は考え込むように僅かに眉をひそめた。
「なるほど──お父上の。それは気になるだろう。
ただ、スネイプ先生はなかなか難しい方だ。スリザリン寮生には情に厚いが、他寮の生徒には手厳しい」
ナーサは授業中のスネイプ先生を思い出した。無駄を徹底して省くような手際のよさ、端的な説明、ほんの少しの違いにも容赦しない苛烈な姿勢──ロングボトム先生も一筋縄ではいかない相手だと言っていた。ナーサは両手を握りしめて、足を止めた。
「……ケイレブは、スネイプ先生とも親しいですか?」
「もちろんだよ。父の古い友人でもあるからね」
「もし……もし、よかったら先生のところに一緒に行ってもらえませんか?」
焦りに声が上擦ってしまう。ケイレブの深い青の瞳が僅かに揺らいだが、「君の助けになれるなら、喜んで」とすぐに返してくれた。それだけで肌を刺すようだった地下の空気が、不意に和らいだ気がした。
魔法薬学の教室と並んだ執務室からは僅かな明かりが漏れていた。ケイレブは当然のようにノックをし、中に向かって声をかける。
「ごきげんよう、スネイプ先生」
羊皮紙の山に顔を埋めるようにしていた先生が、ゆっくりと顔を上げた。刺すように鋭い目で、ケイレブとナーサを順に見る。
「ミスター・ヤックスリー、こんな時間に何の用だね?」
「マルフォイ卿の孫娘をお連れしました。まだ授業以外でお話しされていなかったのではないかと思いまして」
「……ナーサ・マルフォイか」
ナーサは口がカラカラに乾いていることに気がついた。ゴクリと唾を呑み込み、口を開いた。
「父の──ドラコ・マルフォイのことを、教えていただきたくてきました。
父はあたしが幼い頃に亡くなりました。ほとんど何も覚えていないんです。祖父も、母も……誰も、父がどんな人だったかを教えてくれません。せめて、この学校でどんな人だったのかを知りたいんです」
スネイプ先生は光のない黒い目で、じっとナーサを見つめた。それから背後に立つケイレブに目を移し、深いため息を吐いた。
「……ドラコは優秀な生徒だった。私の授業では常に最高点を取り、他者に弱みを見せない強さを持っていた。大事なことは何一つ打ち明けようとせず、全てを抱え込んだまま、彼は──」
スネイプ先生は急に言葉を切った。ナーサが身を乗り出したその瞬間、ケイレブが横から口を挟んだ。
「卒業前に魔法界を離れる決断をなさったと、父から聞いています」
「……離れる? どうして?」
ナーサは呆気にとられた。ホグワーツを卒業せずに一体どうしたというのだろう。
ケイレブは微笑むばかりだった。スネイプ先生は、ほんの僅かに口元を引き結んだ。
「……意味が分からぬのなら、今はまだその時ではないということだ。忘れたまえ」
スネイプ先生は用は済んだとばかりに再び羊皮紙に目を落とした。ナーサはしばらく先生を見つめていたが、もう言葉はかけられなかった。
グリフィンドール塔までの長い道のりを、ナーサは父のことを考えていた。当然のようにホグワーツを卒業したものと思っていたが、魔法界を離れたということは行き着く先はただ一つ。
(あたしは、いつからおじいさまと住んでるんだった? パパとママと暮らしていた時、おじいさまはいなかったはず……じゃあ、あたしは? あたしも、マグルなんかと一緒にいたの?)
最低限の魔力も持たない野蛮な輩──祖父から聞かされた言葉を思い出し、ナーサは震えた。見えない部分に無数の虫が這いずっているようで気持ちが悪い。
ケイレブはそんなナーサの気持ちを知っているかのように、慰めるように言った。
「お父上のことは残念だったろう。だが、知るべき時は必ず来る。週末の『宴』のように。それまでの辛抱だ」
「……はい。遅くまで付き合ってくれてありがとう、ケイレブ」
「いいや。またこうしてゆっくりと話そう。君と話すのは実に楽しい」
ケイレブは真摯な口ぶりでそう言うと、片脇に本を抱え直した。そっとナーサの手を取り、優雅に身を屈める。微かに唇を触れさせると、ゆっくりと手を離した。
「おやすみ、ナーサ」
ケイレブの後ろ姿が消えるまで、ナーサは太った婦人の肖像画の前で立ち尽くしていた。父に対する不信感が僅かに収まったのは、頬を焦がす熱でぼうっとしたせいかもしれない。
石床を蹴る音が近づいてくる。門限前の駆け込みだろうか。ケイレブの去った方から女子生徒が駆けてきた。
「──ナーサ・マルフォイ!」
声の主は頬を紅潮させた、とてもきれいな子だった。背丈はナーサとそこまで変わらないが、一年生ではない。緩やかに巻いたハニーブロンド、きっちりと引かれた眉、微かに煌めくまぶた、ふっくらとしたコーラルレッドの口紅──その一つ一つが彼女を輝かせている。それに、ふわりと漂う花の香りはただ甘いだけでなく、渋さも併せ持つ大人びた香りだ。
彼女はナーサのすぐ側まで来ると、射抜くような鋭い目で睨みつけてきた。
「さっき、ケイレブ・ヤックスリーと一緒にいたでしょ? やめときなよ。あんなのに近づいたら、ろくなことにならないから」
瞬間的に少女への怒りがふくらんだ。グリフィンドールとスリザリンは険悪な仲だ。けど、そんなことで悪口を言うなんて許せない。
「ケイレブは──あの人は、悪い人じゃない」
「……あんた、あいつの何を知ってるっていうのっ?」
少女は一歩踏み出し、ナーサの両肩を押さえた。薄茶色の目には嫌悪感が透けて見える。
「あいつは言葉巧みに取り入って、人を駒みたいに動かすの! あんた、あいつが自分のことを全て理解してくれてると思ってるでしょ? 私もそうだったから分かる──でも、このままじゃ大きな代償を払うことになるよ!」
ナーサは身をよじって少女の腕から逃れると、顎を上げて睨み返した。
「ご忠告ありがとう。でも、付き合う人は、自分で決める……そう決めてるの」
少女はキュッと唇を引き結んだ。腕組みをし、ふいっと視線を逸らす。
「ああ、そっか。あんた、マルフォイだもんね。ヤックスリーとは同類だったのに──馬鹿みたい。心配して損した!」
少女は捨て台詞を吐いて、肖像画の穴を上っていった。去っていく背中を見送りながら、ナーサは深く息を吐いた。
(……ケイレブは、そんな人じゃない。でも、どうしてだろう……あの人、ただスリザリンが嫌いだから言ってるようには思えなかった)