まだ午後三時だというのに、空は橙から群青色へと変わり始め、城内の影を濃くしている。日一日と寒さは増していき、授業を終えるとナーサはルームメイト達とまっすぐ寮に戻った。
談話室はまだ一年生しかおらず、暖炉の前の特等席が空いていた。かじかんだ手を火にかざしながら、ホッと一息つく。
「いや~、すごい冷えるよね。めちゃ寒ー……暖炉の前から一生離れたくない~」
マフラーを緩めながら、ジャニスが足踏みする。ローブと短いスカートから覗いた足は紫色に変色している。
「もう手がカッサカサ……冬の薬草学なんて大っ嫌い!」
メイジーは両手を擦りながら、今にも泣きそうな声で叫んだ。薬草学の授業は当然土いじりが多く、グローブをはめても汚れることがある。授業後に必ず行う冷たい水での念入りな手洗いは苦行の一つだった。
あら、とグレイスは笑ってポケットからチューブを取り出した。
「土いじりした後はハンドクリーム塗って、手袋をはめるのがお勧め。寝る時にもやったら、肌すべっすべになるよ。土の匂いも取れるし。これ、使ってみる?」
「うわ~、いい匂い! ありがとう!」
メイジー、アリッサ、ジャニスへとハンドクリームが次々に回される。ナーサが横目で見ながら火に当たっていると、グレイスは「はい」とナーサにも差しだした。
「ナーサも使ってみない?」
「……いいの?」
「安物だけど、それでもよかったら」
「ありがとう……」
身体の内側から温もりがあふれ出したようだった。手のひらに落としたハンドクリームを薄く伸ばしていると、グレイスは肩を軽く叩いて声をひそめた。
「ねえ、最近ちょこちょこスリザリンの監督生といるところ見かけるんだけど。あの超絶イケメンの……!」
「……ああ、うん」
ナーサは頬を染めて頷いた。
ケイレブとはあの後も何度か校内を一緒に歩いた。一年生と七年生では授業の数が違い、滅多に会わないと思っていたが、図書室に通うようになってからはよく見かけるようになった。会えば勉強を教えてくれたり、校内を案内してくれたり、何かと世話を焼いてくれるのが監督生らしい。
グレイスは頬を緩ませながら、弾んだ声を出す。
「もしかして、付き合ってる?」
「まさか! だって彼、ずっと年上だよ?」
ナーサは思わず大きな声を出してしまって、慌てて口をふさいだ。少し離れたところにいる男子達が、チラチラとこちらを見ているのに気がついた。
メイジーまでクスクス笑いながら割り込んできた。
「えーっ、怪しいなあ。だって、あの目見た?」
「見た見た! 完っ璧にナーサをお姫さまって目で見てるよねっ」
「……そんなこと」
一緒に廊下を歩いているだけで、熱い視線や囁き声が届いていた。その皆の憧れが自分と付き合っているだなんて、あり得ない。
けれど、いつか彼のような素敵な人と毎日肩を並べて歩けたら、きっと最高に幸せだろう。
暖炉の熱が耐えきれないくらい熱く感じる。ナーサが少し離れようとすると、ジャニスがインタビューでもするように挙手した。
「はいはーい、私もその話詳しく聞きたい! 相手って七年生のケイレブ・ヤックスリーだよね? リラルド・ヤックスリーの兄貴の」
「えっ、あの最悪な奴の? 嘘でしょ、全然似てない!」
グレイスが吐き捨てるように言うのと同時に、アリッサは無言で少し離れたソファに行って教科書を広げた。
ほわっと温まっていた心が、ぐしゃぐしゃに握りつぶされたような痛みを感じた。ナーサは眉根を寄せて、声を絞りだす。
「……あの人も、そんなに悪い人じゃないけど」
「うっそ。リラルド・ヤックスリーにいいところなんてあるのっ? 先生にも暴言吐くような奴だよ」
「あの話し方も怖いんだよね。早口で、喧嘩売ってるみたいだし」
「分かる! いつ噛みつくか分かんないもんね。あいつと授業で近くの席になるの、嫌なんだ。手下をべったり侍らせて、嫌な感じだよね!」
「ピアスをジャラジャラつけたりして、柄悪いしね~」
ナーサは唇を引き結んだ。ほんの少し前までは自分もそう思っていたはずなのに、霧が広がるように胸が冷たくなる。パチパチと燃える薪の音と熱が急に遠ざかった気がした。
ナーサはハンドクリームを塗った手を何気なく鼻先に寄せた。その途端、ハッと両手を見下ろす。おそるおそる手で鼻を覆うと、目を瞑る。
(これ、昔嗅いだママの香り──)
「グレイス、このクリームって何の匂い?」
上擦った声で訊くと、唐突な質問にグレイスは目をパチパチさせた。
「……えっ、林檎の花だけど」
「あたし、ロングボトム先生のところに行かなくちゃ」
ナーサは呆気に取れているルームメイト達を置いて部屋に戻った。教科書を置いてコートを羽織ると、階段を駆け下りた。純白のコートを着ると、皆の注目を浴びてしまう──今日ばかりはそんな恥じらいは全く感じなかった。
ロングボトム先生は運よく空き時間だったようで、一号温室にいた。ナーサが駆け込んでいくと、踏み台の上で枝木を整えていた先生はハサミを取り落とした。
「やあ、誰かと思ったらミス・マルフォイじゃないか。見違えたな……やはりマルフォイ家のご令嬢だ」
先生はコートから顔へと目を移し、微笑んだ。ナーサは息を整えてから、声を振り絞った。
「……先生、温室に林檎の花はありませんか?」
「林檎の花? 林檎は薬草にはならないからね。どうしたんだい?」
先生は軽やかに踏み台を飛び降り、心配そうに顔を覗き込んでくる。ナーサは目を伏せた。期待が外れて、唇が震える。
「……クリスマスプレゼントに、ママに香水を作ろうと思ったんです。子どもの頃……ママからは林檎の花みたいな香りがしてたことを思い出して。今つけている香りよりも、ずっと似合う香りで……」
思いつきをすぐに形にできると思ったのが浅はかだったのかもしれない。
ロングボトム先生はしばらく黙り込んでいたが、やがてふっと吐息を漏らした。
「そうだ、もしかしたらあそこに……」
先生に連れられて向かった先は城の外だった。もうとっくに陽は落ち、しめやかな闇が辺りを包んでいる。
先生は都度杖を振り、深い雪をかき分けて道をつくりながら進む。ナーサは後ろから杖明かりを灯しながら、そわそわしながら暗くなった辺りを見渡した。
校庭を横切って近づこうとしているのは、黒く生い茂った禁じられた森だ。昼間でも不気味な森なのに、木の影が未知の生物のように見えて背筋が冷えた。
(生徒は、立ち入り禁止なはず……先生が一緒なら大丈夫なのかな)
しかし、先生は森の手前──すっかり葉の落ちた、低めの木のところで足を止めた。
ナーサは杖明かりを大きくした。雪の積もった木の枝は空に向かって広げられた手のひらのように、緩やかな形状で頭上へと伸びている。
「立派な木ですね」
元は空き地だったのだろうか。一本だけ立っている木は、孤高の象徴に思えた。寂しそうだけれど、何処か力強い。
「昔、ここにいた森番が植えた林檎の木だ。もう、誰もここには立ち寄らなくなったけれど、この木はたくましく残っていたんだ」
ロングボトム先生は奇跡を目の当たりにしたように目を輝かせ、囁き声で言った。
「……森番?」
聞き慣れない言葉にオウム返しすると、ロングボトム先生は大きく頷いた。
「私が学生の頃にいた森の番人のことだよ。禁じられた森に入り込む生徒が多かったから。君の父上なんかもね」
「えっ……?」
広い敷地を歩いてきたせいか、身体が火照っていた。胸の鼓動がどんどん速くなる。
先生はクスリと笑いながら、木を見上げた。
「深夜に出歩いて罰則を受けたこともあったっけな……森なんか怖いもんかって息巻いてたけど、本当は震えてた。それなのに、しんがりは引き受けてくれたんだ……」
「先生。もしかして、父と一緒に……?」
「ああ。まあ、ね」
胸がキュッと締めつけられるようだった。ナーサは乾いた喉を押さえながら、口を開いた。
「先生はグリフィンドール生だったんですよね。父とはあまり仲がよくなかったんじゃ……」
「寮が違うから分かり合えないわけじゃないさ。君も、最近はケイレブ・ヤックスリーと親しいようだね」
思わぬ名前の登場に驚いたものの、ナーサはすぐに頷いた。
「はいっ。とても優しくしてくれて……お兄さまみたいな人なんです」
ロングボトム先生は穏やかに笑った。グリフィンドールの寮監にも関わらず、先生にはスリザリンへの偏見がない。それが分かって、ナーサは嬉しかった。
「私とドラコもそんなところさ。なんだかんだで面倒見のいい人だったからね。あまりに手際が悪くて、もたついている私を気にかけてくれたんだろうな」
ふと、ナーサはホグワーツに来る前日に母から聞いた話を思い出した。
「ママが……パパにはグリフィンドールの友達がいたって教えてくれました。それじゃ、先生が?」
「ドラコが──そうか、私のことを、友と言ってくれていたのか」
細まった目が、杖明かりに僅かに光ったように見えた。先生はしばらく木を見上げていたが、やがて決心したように口を開いた。
「さ、クリスマスに間に合わせたいんだったね。花を咲かせよう。杖を出して。君は呪文学が得意だったね? 呪文はこうだ。オーキデウス」
「オーキデウス」
先生を真似た発音を繰り返した途端、構えた杖先から薔薇の花が飛び出した。出したかったのは林檎の花なのに──杖を下ろし、ナーサは頬を赤らめた。先生は微笑んで言った。
「花を出せたなら上出来だ。次はこの枝に集中するんだ。ただ魔力を放つんじゃない。放った魔力で、枝を覆うようにイメージするんだ。
いくよ、オーキデウス」
先生が杖を向けた先の枝から、雪を払いのけるように葉が生い茂り、次々と白い花が芽吹いた。息を詰めて見つめていたナーサも、隣の枝に杖を向けた。
「オーキデウス!」
それは不思議な光景だった。真逆の季節から咲き乱れる白い花──ふわりと吹いた風に、鼻をかすめる香り。ナーサはじわりと熱くなった目を瞑り、大きく深呼吸した。
「ママの香りだ……!」
子どもの頃に抱きしめた母の姿を思い出し、ナーサはネックレスの上で両手を重ねた。