ロングボトム先生に手伝ってもらい、花籠いっぱいに林檎の花を摘むと、今度は魔法薬学教室へと向かった。廊下を並んで歩きながら、ロングボトム先生が太い眉を不安げに歪めた。
「香水を作るには蒸留器が必要だ。授業外のことでスネイプ先生が貸してくれるといいが……」
「ロングボトム先生は、あまりスネイプ先生と仲がよくないんですか? ロングボトム先生も、スネイプ先生に教わったんですよね?」
先日少しだけ話したスネイプ先生は気難しい人という印象は拭えなかったが、そこまで構える必要があるようには思えなかった。おまけに父の寮監だったということは、ロングボトム先生も学生時代スネイプ先生から教わっていたことになる。
ロングボトム先生は大げさに身震いした。
「スネイプ先生には大馬鹿者と何度怒鳴られたことか。時々、先生は吸魂鬼のようにグリフィンドール生の【幸福の記憶】を食べて生きているんじゃないかと思っていた。
君がそう思っていないなら、スネイプ先生も大分丸くなったんだろうね」
何処まで本気か分からない口ぶりでそう言うと、魔法薬学教室の前に立った。授業はすでに終わっているはずだが、ドアの隙間からは明かりが漏れ、ボソボソと話し声が聞こえる。
──ロウル……心配だ……あの子……目を光らせて……。
切れ切れの言葉はスネイプ先生のようだ。淡々とした授業の声とは違って、差し迫った響きがある。
「──来年、私が卒業したら」
誰かが答えたその時、ロングボトム先生はドアをノックした。話し声がピタリと止んだ。
ロングボトム先生はドアを押し開けると、ドア側に身体をずらし、ナーサに先に行くよう促した。
中にいたのはスネイプ先生と、ケイレブ・ヤックスリーだった。深刻な話だったのか、氷のように硬く冷ややかな表情にナーサは立ちすくんだ。背筋を伸ばさなければいられない祖父と同種の威圧感──その目がナーサを捉えた途端、すぐにいつもの柔和な顔に戻った。張り詰めた空気が瞬時に溶け、ナーサは微笑み返すことができた。
「こんばんは、ナーサ……ロングボトム先生もご一緒でしたか。スネイプ先生にご用ですか?」
「ミスター・ヤックスリー、邪魔をしてしまったかな?」
「とんでもない。ちょっとした相談をしていたところですので、お気になさらず」
先生同士の話を遮らないようにか、ケイレブは一歩引いてナーサの隣に並んだ。ナーサを見下ろすその目は、会えて嬉しいと告げていた。
「こんばんは、スネイプ先生。お願いがあって参りました」
「何かね、ロングボトム……先生」
スネイプ先生のこわばった口の端が僅かに歪んだ。ロングボトム先生は溜息混じりに苦笑する。
「ミス・マルフォイの課外授業にお力を借りられればと思いまして。手作りの香水を作りたいそうです。この部屋と蒸留器をお貸しいただけませんか?」
スネイプ先生の黒い目が、ナーサに向けられた。全てを見透かすような目だ。後ろめたいことがなくても、暗い洞窟のような目に気圧されそうになる。ナーサは唾を呑み込んだ。
「お願いします、スネイプ先生。もちろんご迷惑にならないように後片付けもしっかりとやります」
スネイプ先生はじっとナーサを見つめていたが、やがて静かにロングボトム先生へと目線を移した。
「……一年生ひとりにこの場を任せる? 何か事故があれば、どうするのだ。あいにくと吾輩は暇ではない。君のように、のんびりとした時間を過ごせる授業ではないのでね」
「なるほど。ですが、薬草が育たねば、先生の高尚な授業にも差し障りが出ます。病気の兆候があれば、寝る間も惜しんで世話をしますし、使用時期に合わせて芽吹くようスケジュールも調整しています。そこはお認めいただければと思います」
ロングボトム先生は微笑みを絶やさずにそう言うと、チラリとナーサを振り返った。
「私の寮生です。勿論、私が責任を持って監督しましょう。それならよろしいですか?」
「ふん……いつかのグリフィンドール生のように、教室を吹っ飛ばすようなことにならないなら勝手にしたまえ」
スネイプ先生がほとんど口を動かさず、冷ややかに言った。
ロングボトム先生はプッと吹き出してから、気まずそうな笑みを浮かべた。丸い頬が赤く染まっている。
「まさか、まだ根に持たれてます? 三十年も前のことですが」
「人はそう変わらん。何故君がホグワーツの教授として戻ってこようとしたのか、吾輩には理解できん」
肉を削ぎ落とすような鋭い物言いに、ロングボトム先生は降参するように両手を上げた。
「まあ、そんな失敗を繰り返したお陰で、大分私も鍛えられました。何しろ闇祓いの試験よりも、先生のしごきの方が胸にこたえましたからね」
「……あの、先生。本当に教室を吹っ飛ばしたことがあるんですか?」
ナーサは思わず訊いてしまった。
ロングボトム先生のように完璧な対応ができる人でも、学生時代は大失敗をしていた──ロングボトム先生はウインクし、「昔のことだよ」と囁いた。
過去の失敗を軽く話せるのが格好いい。ナーサは今まで以上にロングボトム先生のことが好きになった。
「先生方、少し発言してもよろしいですか?」
小さく咳払いしたケイレブが、ゆっくりとロングボトム先生の前に進み出た。
「どうでしょう。私はN・E・W・Tレベルの魔法薬学の授業を受けています。成績も……僭越ながら、スネイプ先生には高く評価していただいております。私が彼女に付き添うというのは?」
ロングボトム先生の穏やかな目が一瞬鋭く光り、ケイレブを射抜くように見た。ナーサは急に背中に壁を感じた。先生の笑みは穏やかなままだったが、知らずに後退りしていた。
「スリザリンの監督生の君が、他寮の生徒に割く時間があるのかな」
ケイレブはその視線を真正面から受け止め、にこやかに笑った。
「勿論です。それに……小さな友人の力になるのも監督生の責務でしょう」
ロングボトム先生とケイレブは表面上とても穏やかだった。けれど、何故かナーサは二人の間に見えない火花が飛び散っているのを感じた。
スネイプ先生は深々と溜息を吐き、ケイレブに顎をしゃくった。
「ミスター・ヤックスリー、君が監督したまえ。悪夢が再来するリスクは避けたいものだ」
「はは、手厳しいご意見ですね。
スネイプ先生、少し私からもお話ししたいことがありました。先生の部屋に寄らせていただいても? なに、耳だけ貸していただければそれですみます」
「……いいだろう」
スネイプ先生と連れ立ったロングボトム先生は、隣の執務室に入る前にもう一度振り返った。
「それじゃあ、ミスター・ヤックスリー。ナーサを頼んだよ。私の大事な寮生だ。くれぐれも気をつけて見てやってほしい」
「ええ、勿論です。彼女は私にとっても大事な子ですから」
さりげない一言に、ナーサは心臓が飛び出してしまうかと思った。監督生で誰にでも優しい彼の言葉に、そこまで深い意味が込められているはずはないのに。
ケイレブは執務室のドアが閉められてからも、何度か気にするように振り返った。
「……ロングボトム先生は、相当君を気に入っているようだ。まさかファーストネームで呼ぶなんて」
棚から蒸留器を出す手を一瞬止めて、ケイレブはチラリとナーサを見た。いつもの穏やかな話し方の中に、何か──警戒するような響きが含まれている。
「本来、教授が一生徒をそんな風に呼ぶことなんてあり得ない……あまりロングボトム先生と距離を詰めない方がいいのかもしれない」
「先生はお父さまのお友達だったんです。あたしもさっき知って驚きました」
少し迷ったが、先ほどの二人の様子を思い返し、伝えることにした。ケイレブは「なるほど」と短く言ったきり黙り込んだ。
いつもとは違う雰囲気のケイレブに戸惑いながら、ナーサは図書室から借りてきた書籍を開いた。ページをめくっていると、不意に彼が横から覗き込んできた。ローブが触れ合う気配に少しドキリとしてしまう。
「……まずは花の汚れを落とす。呪文が『プルクリフィカーレ』……聞いたことのない魔法だな。君、呪文学は得意かい?」
「はい。でも、はじめてだから、うまくいくか……」
ナーサは両手で杖を握りしめて呟いた。家庭教師に習った以外の魔法を試すのは初めてだった。熱くなった手から、汗がにじむ。
ケイレブは少し考え込みながら呟いた。
「それなら私がやってみようか? 魔法の難易度からしたら、問題なくできると思う」
「ありがとう。でも、お母さまへのプレゼントだから全部自分でやりたいんです」
ナーサは落ち着くために目を瞑り、二、三度深呼吸してみた。それから、ゆっくりと杖先を花籠に向ける。
「プルクリフィカーレ」
室内に急にそよ風が吹き、花籠から林檎の花が天井近くまで一気に舞い上がった。春先の雪のように軽く揺れながら、ゆっくりと落ちてくる。
このままなら、床に落ちてしまう──
「アレスト・モメンタム」
ケイレブが命じると、花は見えないピンで留められたように動きを止めた。彼は軽い吐息と同時に、申し訳なさそうに眉を歪めた。
「すまない。ただ、折角一緒にいるんだ。少しだけ力になれたらと思って」
「わぁ、ありがとう……全部台なしになるところでした」
ナーサが胸を撫で下ろして言うと、ケイレブの目尻に小さなシワが寄った。いつもよりも柔らかな声が、包み込むように囁いた。
「君の魔法のお陰で、花の光沢が増したようだ。見事だったね。さあ、次はこの花をどうする?」
「この蒸留器のフラスコに花を入れて……」
「アクシオ」
ケイレブが軽く杖を振ると、止まっていた花が一つずつフラスコの中に入っていく。ナーサはあまりの手際のよさに、ほぅっと小さな吐息を漏らした。
「すごいっ。あたしも七年生になる頃には、こんな風に自然に魔法を使えるようになれるでしょうか?」
「もちろん。私が君くらいの時には大した魔法は使えなかった。はじめての魔法でも成功させるセンスがあるんだ。きっと七年生になる頃には、私よりも優れた魔法使いになっているだろう」
口元がムズムズする感覚にナーサはうつむいた。例えお世辞だったとしても、監督生の彼からそんな風に言われると、胸が高鳴ってしまう。
蒸留器の下に火をつけると、ナーサはしゃがんで火加減を見た。花びらが少しずつ萎れ、蒸気が上がっていくのが分かる。
「そういえば、リラルドと仲直りしたそうだね」
ゆっくりと机の周りを歩いていたケイレブが、何気なく言った。ただ、その声はいつもよりも弾んで聞こえる。ナーサは立ち上がって、にっこりと笑った。
「──はい! 彼を怒らせてしまった理由も分かったし、お互いに謝って……それに、スコティッシュを教えてもらいました」
「リラルドが、スコティッシュを? それは、また……」
「ケイレブも昔、スコティッシュを話してたって聞きました。よかったら聞いてみたいです」
ケイレブが微かに眉をひそめたのに気づいた時には、口から出てしまっていた。
彼の顔に一瞬複雑な躊躇いが混じった。けれど、彼はすぐに微笑んで、低く囁いた。
「『ユーラ・グイド・ラス、イェ・ケン』」
耳をくすぐる甘い響きに、ナーサは肩を震わせた。初めて聞くフレーズなのに、やはり何故か意味が理解できる。心の底から湧き上がる喜びに、ナーサは顔を紅潮させた。
「──今、君は本当にいい子だねって言った?」
ケイレブは一瞬目を瞬かせ、息を呑んだ。そして、次の瞬間パッと顔を輝かせて手を叩いた。
「すごいじゃないか……! もうリラルドに教わってたのかい?」
「ううん、何となく……分かったの。ケイレブのスコティッシュが、聞き取りやすかったからかな」
何気なく言ってから、ナーサは口をふさいだ。まるで友達に言うみたいにフランクに言ってしまった。
ケイレブは遠い昔を懐かしむように目を細めて、何も気づかなかったように続ける。
「ああ、アイツのは大分早口だからね。学校では標準寄りに話してるようだけど……怒ったら全然聞き取れないだろ?」
「ふふ、そうかも」
先日の図書室で怒った時も意味を理解するのがやっとだった。思いだして笑っていると、ケイレブは人差し指を唇に当て、声を落とした。
「ナーサ、今のは誰にも言わないでくれ……君にだから聞かせたんだよ。ヤックスリーの嫡男がスコティッシュを話してたなんて父に知られたら、こってり絞られてしまう」
「アイッ」
反射的にスコティッシュで返すと、ケイレブは喉を震わせながら口元を押さえた。何故か懐かしく感じるスコティッシュが合言葉になり、ヤックスリー兄弟との距離をぐっと近づけてくれた気がした。
ナーサはキュッとローブの袖を握りしめ、ケイレブに向き合った。
「ケイレブにお願いがあります。すごく、図々しいけれど……」
「私にできることなら遠慮なく。君の可愛いお願いを叶えるのが好きなんだ」
ケイレブのサファイアのように輝く目は、何を聞かせてもらえるのか楽しみでたまらないと言っているように見えた。ふっと肩の力が抜けて、ナーサは口を開いた。
「この香水を入れる瓶がほしいんです。でも、おじいさまには……内緒にしたくて」
ケイレブの口の端が微かに歪み、目線を上に逸らした。そして一瞬の沈黙の後、彼は朗らかに続けた。
「大切なお母上へのプレゼントだ。最高の物を用意してあげよう」
「……よかった! ありがとうございます」
ナーサがホッと息を吐いた途端、彼はふと声の調子を変えた。
「そうだな。私も一つお願いしても?」
「はい、もちろんです」
「今夜の食事、君をスリザリンのテーブルに招待したいんだ」
ナーサは目を瞬いた。
「夕食の時……? でも、寮ごとに食べなければならないんでしょう?」
寮ごとに用意されたテーブルがあるのに、別な場所で食べてもいいのだろうか? 校則では確かに決められていなかった気がする──けれど。
ケイレブはサラリと前髪を払って、微笑んだ。
「あれはただの伝統だ。正式な規則じゃないから破っても罰せられることはない。皆やってることだよ」
ナーサはほんの少し戸惑いがあった。監督生のケイレブが言うなら、きっと問題はないのだろう。けれど、寮の皆──とりわけルームメイト達がどんな反応をするのかが気になった。
(……でも、ケイレブはあたしの頼みごとを聞いてくれた。嫌な顔一つせずに。誰かの顔色を窺って断るなんて、失礼……だよね)
「分かりました。それなら……」
「ありがとう。それじゃあ、今夜七時に大広間の前で待っているよ」
彼は満面の笑みを浮かべたまま胸元に軽く手を当て、ナーサを見つめたまま一礼した。まるで舞踏会のダンスに誘うような優雅な仕草に、ナーサは戸惑いも忘れて見惚れてしまう。
「君の隣で食事ができるなんて光栄だ。皆、先を競ってマルフォイ家の令嬢と話したがるだろう」
こんなに素敵な人が自分を招待してくれたという事実は、まだ子どもを抜け出しきれないナーサの心をも大いにときめかせた。