香水はほとんどが完成し、残すは瓶に詰めるだけになった。部屋に戻ったナーサは姿見の前に立ち、入念に乱れがないかを確認した。
(ケイレブはいつも完璧だもの……恥をかかせないようにしなきゃ)
ナーサはふと制服に目を留めた。金曜日の夜から週末にかけて、ほとんどの生徒が私服で過ごす。そんな中、グリフィンドールの制服を着て、スリザリンのテーブルに座るのは悪目立ちしそうな気がした。
(でも、他に着られる服なんて……)
トランクを開けて、私服のローブを一枚一枚取り出してみる。
祖父の選んだ服はどれも溜息が出るほど素敵だ。けれど、デザインや色が大人っぽすぎたり、華美だったりして気後れしてしまう。
それに私服にローブを着る子なんてほとんどいない。家ならいざ知らず、学校で袖を通すには勇気が要った。
その中では一番落ち着いているロイヤルブルーの布地に目を留めた。リンドウの刺繍を施した豪奢なローブ──小粒のパールを散りばめたそれは、夜空の星のようだった。
(これなら……大丈夫かな。でも、コートを着た時みたいに笑われるかも)
ナーサは急に恥ずかしくなって、胸元にぎゅっと抱えて隠した。
その時、グレイスが息を呑んで駆け寄ってきた。
「えっ、なにそれ。私服なの?」
「う、うん……」
おそるおそる答えると、グレイスは「見せて」と奪うように手に取った。ベッドに広げて、隅々まで確かめるように眺め、目をきらきらと輝かせた。
「へえ。ザ・魔法使いって感じだけど、めっちゃオシャレっ。ちょっと着てみてよ」
躊躇いながらも着替えてみると、ルームメイト達がワッと声を上げてナーサの周りに集まってきた。
「すごーい。宴に着てくドレスみたい!」
「おっ、いいじゃん。すごい大人っぽいよ」
「わあ。似合うよ、ナーサっ」
口々に言われる褒め言葉に、ナーサは頬がじわじわと熱を帯びるのを感じた。膝下まで隠れる伝統的なローブは、まだ子供じみた身体のラインを覆い隠し、上品に見せてくれる。姿見に映した自分の姿に、ナーサは笑いをこぼした。
けれど、グレイスは眉間にシワを寄せながら、「うーん」と何度か首をひねった。
「でも、髪型がね。飾りっ気のないポニーテールじゃ、勿体ないよ。ちょっといじらせてくれる?」
櫛とバレッタを持ってくると、ナーサの髪を器用に三つ編みにし、くるりと巻き付けるようにしてアップにしてくれた。ガラリと変わった大人びた姿に、ナーサは大きな吐息を漏らした。
「わぁ……ありがとう、グレイス!」
華やかになった髪に手を触れると、じっとしているのが勿体ないような気持ちになる。くるりとその場で回ると、緩やかに編んだ髪がふわりと揺れる。ルームメイト達の「可愛いっ」という歓声が、こそばゆくも嬉しい。色んな角度から自分を眺めて、笑いを漏らした。
「いいねいいね~。素材がいいと、こういうのすごく楽しい! 男子達、ザワザワしそう!」
「さて。何人の男子がナーサを二度見すると思う? 私、三十人!」
「いやいや、少ないって。五十は固いっしょ!」
「じゃ、私はロングボトム先生が『可愛い』と言うに1ガリオン!」
「私はスネイプが『……悪くない』と言うに1ガリオン!」
ジャニスのスネイプ先生の声真似があまりにそっくりで、ルームメイト達は一斉に吹き出した。ナーサもついお腹を抱えて笑ってしまった。
「や、やめて──先生の顔見たら、思い出しちゃいそうっ」
その時、アリッサがケージを抱えて部屋に戻ってきた。部屋が一瞬しんと静まった。
「おかえり、アリッサ」
トーンダウンした声で、ジャニスが声をかけた。アリッサは軽く頷き、おめかししたナーサに目を留めた。眼鏡の奥の目をゆっくりとまばたきする。
「……今日は、何かあるの?」
ケージをベッドのサイドテーブルに置きながら、アリッサが尋ねてきた。疲れているのか、少し声が尖っている。
「あっ……食事に誘われたの。だから、今日はあたし、別なところで食べるね」
ナーサは弾む心を抑え、さりげなく伝えようとした。すると、アリッサ以外の三人がキャーッと甲高い声を上げた。
「うっそ、ヒュー、やるじゃん! で? で? 相手はマクドゥガルとか?」
ジャニスはニヤニヤ笑いを浮かべながら、肘でグリグリとナーサを小突いた。ナーサはほんの一瞬躊躇ったが、隠してもすぐに分かると思い直した。
「あ、あの、ミスター・ヤックスリー……お兄さまの方」
震える声でそう言った瞬間、心臓がドクンと鳴った。口に出すと、緊張がますます強くなる。楽しみ半分、不安半分だ。
室内に一瞬奇妙な沈黙が落ちた。最初に張り詰めた空気を破ったのはグレイスだった。
「やだ! あのイケメン監督生とっ? うっそ、羨ましい!」
「マジでっ? あの人、ホグワーツ全女子の憧れの的だよ? ナーサ、アバダ・ケダブラされないように気をつけなきゃ!」
アリッサは一人離れたところでケージの掃除に夢中になっている。ふと顔を上げた彼女と目が合った。一瞬、何か言いたそうに口が動いたが、結局すぐに顔を背けてしまう。
グリフィンドールなら、スリザリンと親しくしないで──そんな心の声が聞こえた気がした。真新しい羊皮紙にインクを落としてしまったような、小さな罪悪感が湧いてくる。
その時、誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえた。ノックもせずに部屋に飛び込んできたのは上級生の女子だった。ハァハァと息を吐きながら膝を押さえた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……マルフォイ。寮のすぐ近くまで、スリザリンのヤックスリーが来てる」
硬い声で言いながら、上から下までナーサを眺め回した。一瞬悔しそうに唇を噛んだと思うと、「ほら」と急き立てるように言う。
(ケイレブが? でも、まだ約束の時間になっていないのに)
ナーサは不思議に思いながらもルームメイト達に手を振って、階段を降りていった。
談話室に残っている生徒はあまり多くなかった。けれど、ナーサが姿を現すと、話し声がピタリと止み、視線が張りついた。まじまじと見つめられるのが恥ずかしくて、小走りになってしまう。
長い裾を踏まないように気をつけながら肖像画の穴を降りていくと、少し離れた柱の側にケイレブ・ヤックスリーの姿を見つけた。待ち遠しそうな顔で懐中時計を見下ろす彼も、伝統的なローブ姿だった。
(格好いい……それに、あたしと同じローブ姿。なんだか、お揃いみたい)
金の肩章のついたマントはローブと同じ深緑色で、彼の金髪によく映える。ただ立っているだけなのに、まるで物語のワンシーンから抜け出してきたような完璧な出で立ちだ。
ケイレブの視線が不意にナーサを捉える。すると、彼は大きく目を見開いた。言葉を忘れたように立ち尽くす彼に、ナーサは笑顔で駆け寄った。
「大広間で待ち合わせじゃなかったんですか?」
「……ああ。待ち切れなくて、つい来てしまったんだが」
ケイレブはゆっくりと口を閉じ、美しい夜空に魅入るような目で見つめて、静かに微笑む。まるで探し物をそこに見つけたというように。
「──正解だったようだ」
ナーサの前に屈んでゆっくりと手を取ると、唇をそっと触れさせた。いつもよりほんの一瞬長く、優しく──ふるりと震えるような喜びが内からあふれてくる。
「さあ、行こうか」
「──はい」
差し出された腕に手を預け、ナーサはゆっくりと歩き始めた。石畳の廊下に、足音だけが静かに響く。肖像画やゴーストすらもいない、そこは二人だけの空間になっていた。
見慣れた大広間へと続く道が、初めての場所のように思える。大広間に着くのが楽しみなようでいて、ずっとこの時間が続けばいいとも思う。燭台の火のように、ナーサの心は揺れ動いていた。
「もうすぐクリスマス休暇だ。君は当然、家に帰るんだろうね」
「ええ。ケイレブも?」
「ああ。卒業に向けてやらなければならないことが山積みだ……もう、あと少しでこの学び舎に戻ってこれないと思うと、少し寂しいな」
ケイレブは廊下のランプに照らされたナーサを見下ろし、柔らかく笑った。その笑顔は何処か遠く、手を伸ばしても届かないように見えた。
ナーサはそっと目を伏せた。学年が上がれば学びも増える。それは嬉しい反面、大切に思う人との別れもやって来る。
母と別れてホグワーツに来た時もそうだった。六歳の時に父を亡くして、突然置いていかれる痛みを味わった。あの日から、胸の奥の小さな隙間が埋まらない。
(卒業したら、もうケイレブにも会えないんだ……)
そう思うと、心から乾いた音が鳴るようだった。
けれど、いつかは別れずにすむ人も現れるかもしれない。ずっと一緒にいてくれる人、手を離さずにいてくれる人が──ナーサはそっと預けた手に力を込め、まっすぐに前を見据えた。まだ見ぬ未来に、高鳴る心を自覚しながら。