名残惜しそうに沈む陽光が、空を灰紫から群青へと変えていく。東の空には、くっきりと大きな満月が姿を現し、ロンドンの街並みを柔らかく照らしだす。
黒ずんだ石造りのテラスハウスでは、金糸で編み込まれたカーテンタッセルが遊ぶように揺れていた。窓辺の机に向かった青年は、封筒の束を押さえながら一通ずつ目を通していた。そして全てを終えると、椅子にもたれかかったまま頭上を仰いだ。両手で目を覆った姿からは、疲労が色濃くにじんでいる。
ややあって手を下ろすと、彫像のような目鼻立ちがあらわになった。濃く形のいい眉も、閉じたまぶたをくっきりと縁取る長い睫毛も、きっちりとまとめあげた髪までもが漆黒だ。
「クリーチャー」
低く明瞭な声に応じて、尖った大きな耳を持つ小人が現れた。屋敷しもべ妖精だ。
「お呼びですか、レグルスさま?」
「これをいつものように処分して、彼らの給金を整理しておいてくれ」
「かしこまりました」
「……もう、望みは薄いのかもしれないな」
そう独り言ちたレグルスは、静かに目を開けた。月と燭台の光を宿すその瞳は、多彩な色が溶け合うように混じりあい、黄昏時の空のように幻想的だった。
魔法界の純血の名門、ブラック家の当主、レグルス・アークトゥルスは年老いた屋敷しもべ妖精を除けば、この豪奢で古びたテラスハウスにたった一人で住んでいた。かつて社交界の華と謳われていた彼の末路は孤独だった。
「今夜は月がきれいだな。こんなに澄み渡った空は久しぶりだ。
──どうしたんだ、クリーチャー?」
手紙の束を両手に持ったまま、クリーチャーはまだ部屋に留まっていた。現われた時と同じように消えるのではなく、わざとらしく足を引きずっている。
「……あの女……本当にあの方か。我が家を訪問するに相応しくない姿だった。得体の知れない子どもまで」
「クリーチャー、何のことだ?」
屋敷しもべ妖精は自ら主人に話しかけることはできない。あくまで主人の求めに応じて問いに答えるのだ。長く生きたクリーチャーは、このように独り言で気を引くところがある。レグルスは苦笑しながら、しもべに問うた。
豚のような鼻をひくつかせながら、クリーチャーはゆっくりと振り返る。
「ジネヴラお嬢さまを名乗る女が訪ねてきました。それに小さな子どもが……」
「それは、いつのことだ? 何故、さっさと報告しなかったんだ」
「ご主人さまに呼びだしを受けた時以外は姿を見せないよう、ご主人さまの亡くなられたお母上も常々仰っていましたので」
クリーチャーは丁寧にそう言うと、お辞儀をした。
格式高い家柄ほど、屋敷しもべ妖精はマナーを忠実に守る。それだけなのだ。悪意はない──レグルスはすぐに落ち着きを取り戻した。
「彼女は何処にいる? 一体、いつ来たんだ?」
「夕方です。ご主人さまのお許しを得るまで、この家に入れることはできないはずなのに……何故か、クリーチャーには断ることができなかった。応接間に通しました」
屋敷しもべ妖精は主と、その家族に忠実だ。その女が本当に彼女であるなら、正体が分からずとも、見えない絆で動かされたのも必然だ。何故なら彼女はナルシッサの養女で、ブラック家の家系図に名を連ねているのだから。
レグルスはノックをするのも忘れて応接間のドアを開いた。長く閉め切ったままだった室内は埃の匂いが染みついている。ボロボロの壁紙に、片側が外れかけたカーテン──かつての美しさの名残が逆に痛々しい。
そして、頼りなく揺れる蝋燭の灯の中、ふらりと女が立ち上がった。
「ジネヴラ……ジニー、君なのか?」
かつて、この家によく遊びに来ていた少女。無邪気に笑っていた彼女の面影は何処にもない。愁いに満ちた目には光を宿していなかった。
「お久しぶりです、レグルスおじさま……」
今にも倒れそうな、か細い声──レグルスは声をかけられたことで自分を取り戻した。驚かさないよう、ゆっくりと歩み寄りながら、努めて優しい声を出した。
「無事でよかった。君達がマルフォイ邸を離れて以来、ずっと各地を調べさせていたんだ……ドラコは? 一緒じゃないのか?」
物陰からドラコがヒョイと現れるのを期待して、レグルスは視線をさまよわせた。すると、ジニーは息苦しそうに喉元を押さえながら、唇を震わせた。
「──亡くなりました」
そう言ったきり、ジニーは口を閉ざした。生まれた希望の泡が、すぐに空気に返ってしまった──重苦しい沈黙を破るように、レグルスは彼女の肩に手を置いた。見上げる目はどんよりと曇っているばかりで、涙の影もない。哀哭の時はすでに過ぎ去ったのだ。
ルシウス・マルフォイは妻も子も踏みにじった。想いを寄せていた女性の忘れ形見を引き取り、実の娘として育てた。そして成長すると、あろうことか公然と囲った。
ナルシッサは深い悲しみの中で亡くなり、ドラコとジニーは姿を消した。ルシウスから逃れ、幸せを追い求めて──こんな結末を望んでいたわけでは、決してなかったというのに。
「積もる話は上でしよう。ここは冷える……この子はドラコの?」
椅子の上で眠る幼い少女は、シルバーブロンドや目元が子供の頃のドラコに瓜二つだ。
ジニーは曖昧に首を振り、少女に手を伸ばす。抱き上げようとする手には、もう何の力も残っていないように見えた。代わりにレグルスが抱きかかえると、少女は驚くほど軽かった。丸みのない頬に尖った顎、骨ばった身体はおよそ子供には似つかわしくない。見ているだけで胸がつぶれるように痛んだ。
弱々しい足取りでついてくるジニーに気を配りながら、レグルスは階段を上っていった。