大広間の二重扉を開けると、近いところから波のようにざわめきが広がっていく。一揃いのようなローブ姿が目を惹いただけではない。誰もが知っている眉目秀麗な監督生が、年下の女の子をエスコートしている──それも、有名なグリフィンドールのマルフォイの娘を。
組分けの儀よりもずっと鋭い好奇の視線が、腹を空かせた獣のように何処までも追ってくる。
半歩前を行くケイレブが振り返り、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを見せた。
「緊張しなくてもいい。今日の君は、いつにも増して完璧だから」
ナーサは周りを見回すのはやめて、自分を導く後ろ姿だけに集中した。それだけで自然と笑顔になれた。
スリザリン生達は他の寮ほどは騒ぎ立てず、ケイレブとナーサにそれぞれ恭しく会釈をした。学年も性別も関係なしに賑わうグリフィンドールとは、温度からして違う。静かな秩序に満ちた祖父の屋敷を思わせる空気感だ。
長テーブルの中央付近を通りかかった時、不機嫌そうな顔をしたリラルド・ヤックスリーが立ち上がった。兄とは違ってローブ姿ではない。フサフサしたファー襟のコートに、チェーンをアクセントにしたチョーカーベルト──私服の生徒の中でもかなり奇抜な服装だったが、彼には不思議とよく似合った。
「……お前、何考えてやがる」
噛みつくような言い方にナーサは足を止めた。ケイレブはほんの一瞬、ナーサの手を腕の内側にそっと収めた。あまりにさりげない仕草だったが、それだけでナーサの胸に温かさが広がった。
「私が招待したんだ。リラルド、君も来るといい。三人で話そうじゃないか」
ヤックスリーの眉間のシワがいつもよりも深い。けれど、友人達に一声かけると、すぐに後を追ってきた。
彼のブーツの底の金具が石床を叩くたび、カツカツと激しい音を立てる。耳を突き刺す音に、無言で責められているような気になってきた。
教職員テーブルの前を通る時、ケイレブはまるで舞台俳優のように優雅に会釈した。
スネイプ先生は眉一つ動かさなかったが、一番遠いところにいるロングボトム先生は椅子をひっくり返しそうな勢いで立ち上がった。そして、アンブリッジ校長が祝福するように手を叩いていた。マルフォイの娘があるべき場所に戻った──そんな笑みを浮かべながら。
ナーサはケイレブを見上げた。その横顔はいつもと変わらず穏やかに微笑んでいる。
「さあ、ナーサ。こちらへどうぞ」
ケイレブが当然のように椅子を引いてくれた。祖父の屋敷ではごく普通だったことが、やけに新鮮に思える。ナーサは小声で「ありがとう」と言って腰を下ろした。
ナーサの両隣にヤックスリー兄弟が座り、二人に挟まれる格好になる。何となく落ち着かなかったが、そわそわするのは、はしたない。背筋を伸ばし、ナフキンを膝に置いて微笑んだ。ケイレブは感心したように言う。
「さすが、堂々としたものだね。皆が君の振る舞いを見落とすまいとしていた。さて、食事を始めようか。何か苦手なものは?」
「いいえ。特にありません」
「なかなか最初の頃は取り分けに苦労したんじゃないかい? 私は大皿の文化に馴染めなくてね」
ケイレブは話しながらも、手慣れた仕草で大皿からチキンとサラダを取り分ける。
「分かります。最初の日はパンを一切れ取るのが精一杯で……」
初日の衝撃を思い出し、ナーサは笑いを漏らした。同じような戸惑いをした人がいたというだけで救われるようだった。笑みがこぼれると、張りつめていた緊張が少しだけほぐれた。
差し出された皿は一皿の料理のように完成されていた。野菜の彩りが引き立つような盛り付けがされていて、ナーサは「わぁ」と歓声を漏らした。いつもベチャリと皿を汚してしまい、食欲を削がれていたが、こんなにも華やかに盛り付けられるのかと驚いた。
取り分けられたサラダのチキンを口に運んでみると、空腹に染みるほどおいしかった。
「君はどうだった、リラルド?」
「別に。普通に食いたいものを食ってたよ」
ヤックスリーはぶっきらぼうに言うと、サッと立ち上がるとローストビーフや厚切りステーキ、チキンソテーを次々に自分の皿に放り込んだ。サラダなど最初から視界に入っていないらしい。
ナイフを突き立てるように肉を切り裂くヤックスリーは、ナーサの方を見ようともしない。また怒らせたのだろうか──あの図書室で気持ちが通じた気がしたのは、勘違いだったのだろうか。
ケイレブは横目で弟を見やり、眉をひそめた。
ナーサはふと正面を見た。真ん前の席は空いていたし、カトラリーも並べられていない。そこだけがぽっかりと不自然に空けられている。
「ケイレブ、こちらは誰か座るんですか?」
「まあね。今日は皆が君と話したいと言っていただろ。誰か、妹を連れてきてくれないか」
ケイレブが後方に向かって声をかけると、少し離れたテーブルのざわめきが一瞬止んだ。すぐに下級生の一人が食事の手を止め、椅子を蹴るように立ち上がる。
ナーサは驚いて、カトラリーを取り落としそうになった。グリフィンドールでは例え監督生でも下級生に命令することなんてない。けれど、スリザリンでは誰一人それを不満に思う様子もないようだ。
ややあって、少し不機嫌そうな顔の女子が、黒髪の男子を伴ってやってきた。組分けの儀でグレイスを助けたアシュタロス・クラウチだ。間近で見るクラウチの姿に、ナーサは目を奪われた。
闇夜のような黒い髪に、琥珀色の澄んだ瞳。影のある顔立ちは美麗という賛美がよく似合う。
そして、何故だろう。口を利いたこともないはずなのに、やはり懐かしい。
静かにナーサを見下ろす目は、その色ゆえにか感情が読み取れなかった。視線が張りつけられたように逸らすことができない。
(やっぱり……この人、何処かで会ったことがある気がする……でも、何処で?)
「ナーサ、妹のミケイラだ」
ケイレブの言葉にハッと我に返った。クラウチと腕を組んだ少女は、形のいい唇で弧を描いた。目元はケイレブとよく似ているが、その視線はナイフのように鋭い。
「はじめまして、ミス・マルフォイ。兄からよく話を伺っていたけれど、本当に可愛らしい方ね。最近じゃ、私よりもあなたの方が妹みたい」
「はじめまして、ミス・ヤックスリー。お兄さまにはいつもよくしていただいて……今日はそのご縁でお招きいただいてます」
ナーサは震える声でそう言うのがやっとだった。
テーブル越しに差し出された手を取ると、思いがけない力で握られる。にこやかに話しかけている割に、値踏みされているように感じた。
「ふふ、連れもご紹介するわ。彼はアシュタロス・クラウチ──私の大切な人よ」
大事なことのように付け足すと、ミケイラは促すようにクラウチを見上げた。
「はじめまして、ナーサ・マルフォイです。組分けの儀でグリフィンドール生を助けていただいた方ですね」
思えば、グリフィンドールを望んだのは彼を見たからだった。誰の目も気にせず、自分の信念を貫くような姿勢を。
憧れの思いでそう言ったが、クラウチの表情は硬かった。
「はじめまして」
短い言葉で、名乗りすらしない。驚きと困惑が顔に出てしまったのか、ケイレブが苦笑しながら言った。
「ミケイラは、彼と……とても親しくしているんだ。近頃は二人とも側を離れたがらなくてね」
ミケイラは甘えるように兄に笑う。兄妹ならではの親密な空気感にざわりと気持ちが粟立った。直感的に苦手と感じる彼女が、自分よりもケイレブに近いところにいる。それは当然のことなのに、自分だけが輪に入れないような疎外感に胸がチクリと痛んだ。
「お兄さまったら余計なこと言わないの。
けどね、ミス・マルフォイ。早くに自分に見合う相手を見つけるのって大事なことよ。あなたはこんなに可愛いんですもの。
甘い言葉で惑わす人がいるかもしれないけれど、血筋や家柄のしっかりとした相手を選ぶこと……ね、リラルド?」
ヤックスリーは足を組み、姉を無言で睨みつけた。ミケイラはクラウチの腕にしがみついて、にこりと笑った。
「それじゃ、私達はこれで。どうぞゆっくり食事を楽しんでらして、ミス・マルフォイ」
二人の挨拶が始まりだったのか、次々にナーサのところにスリザリン生が押し寄せてきた。笑顔で対応していたものの、まったく気が休まらない。張りつけた笑顔が剥がれ落ちないようにと必死だった。
ただ、誰もが監督生のケイレブの手前か、とても優しくしてくれた。いつも遠巻きにされていたグリフィンドールとは真逆で、手厚い歓迎に安堵した。
ようやく人が途切れて落ち着いて食事ができると思った時に、背の高い男子が近づいてきた。ローブ越しにも逆三角形の体型が分かる。緩やかなウェーブのかかった黒髪に、頬骨の張った顔が吸血鬼を連想させる。
ヤックスリー兄弟が示し合わせたように背筋を伸ばした。二人に何かを訊く前に、その男子生徒はテーブルに身を乗り出すようにナーサを見つめた。吟味するように、じっと見つめる目は獲物を狙う光を放っている。
「リトル・ミス・マルフォイ、お目にかかれて光栄だ。カーヴェル・ロウルです」
からかうような声音に、ナーサは身をすくめた。舐め回すような執拗さ──全身を視線が這いずるような不快感に、背筋をなぞられるようだった。
「……はじめまして、ミスター・ロウル」
「『宴』にはまだ参加されないと聞き、大変残念に思っていました。いずれ……参加される時には、お相手願いたいものです」
ねっとりと絡みつくような言い方に、ナーサは思わず横目でケイレブを見た。その顔に笑いの影は何処にもなく、ゾッとするような底冷えのする目でロウルを見ている。
石の床に椅子の擦れる鈍い音が響く。両手をテーブルについたケイレブが、鼻から深い息を吐いた。
「──もう戻ったらどうだ、ロウル」
ナーサが一度も聞いたことのないようなケイレブの声だった。まるで、祖父がこの場にいるような──全てを統べる純血名家当主としての威厳。ケイレブもそれと同種のものをすでに兼ね備えているのだと、その時初めて意識した。
ロウルは一瞬息を呑み、負け惜しみのように笑いを漏らすと後方の席へと戻っていった。ナーサはホッと胸を撫で下ろしながら、懐中時計のネックレスを握りしめた。
ゆっくりと座り直したケイレブと目が合うと、もういつもの彼に戻っていた。
「怖がらせてしまったかな、すまない」
「いいえ。ただ、すごいと思いました……おじいさまも声を荒らげずに人を従わせることができます。あたしも……いつか、そうなれれば」
ナーサは膝に置いた手を握りしめた。いずれマルフォイ家を継げば、今のようなトラブルはいくらでも起こり得る。先ほどのように助けを求めるだけの自分では駄目だと思った。
ケイレブは目を見張り、共感するように笑みを浮かべた。
「君には本当に驚かされるな。ただ可愛いだけじゃなく、肝が据わっている。さすがはマルフォイ家の令嬢だ。実に頼もしい……将来が楽しみだな」
名家の嫡男である彼にそう言われるのは、服装や仕草を褒められるよりも何倍も重みがあった。自分がこれから歩むべき道を照らし出してもらえたようで、全身が熱くなる。
「……気に入らねぇ、ロウルの野郎」
ヤックスリーは足を組み替えてぼそりと呟く。ケイレブはグラスを傾けながら弟を見た。
「思うのは勝手だ。だが、場所を選べ。誰に聞かれているか分からぬ場で、感情をあらわにするな」
「分かってるよ。だから、さっきは黙ってた──ったく。お前、本当にここに来て大丈夫だったのかよ?」
自分に向けて言ったのだと気づいて、ナーサは目をぱちくりさせた。
「もしかして心配してくれてるの? ずっと黙ってるから怒ってるのかと思った」
「別に、怒っちゃいねぇよ。ただ」
ヤックスリーが言い淀み、視線を泳がせたと思うと、急にそっぽを向いた。
「……そんな格好でスリザリンに来るなんて、馬鹿じゃねぇかと思っただけだ」
「馬鹿って……失礼だよ」
その横顔はほんのりと赤く染まり、いつもよりもソバカスが浮いて見える。そのせいか、不思議と腹は立たない。
ケイレブは吹き出すのをこらえるように短く笑った。
「君は、本当に素直じゃないな」
「うるせぇな、兄貴は……こいつの世話で満足に食ってねぇんじゃねえの?
お前は? まだ腹空いてるか? なんか取ってきてやろうか」
そわそわと言うヤックスリーが気を遣ってくれているのを感じて、ナーサはにこりと笑った。
「ありがとう。じゃあ、飲み物をお願いしてもいい?」
「お前、どんなやつが好きなんだ?」
「チェリーか、ベリー系の……ほんのり甘酸っぱいのが好きなの」
「おう、任せとけ」
待ち構えていたように立ち上がるヤックスリーに、ナーサはうつむいて、ほんの少し笑ってしまった。いつも嫌味なリラルド・ヤックスリーと、こんな風に和やかな時間を過ごせる日が来るなんて思わなかった。
ケイレブは弟の後ろ姿を見守るように目を細めた。
「根は可愛いんだよ、リラルドは」
「はい。最近、ちょっと見直しました」
「君が側にいると、いつもよりも優しい。少しは考えて行動しているようだし……いい影響を受けているんだな。感謝するよ」
間もなく、ヤックスリーが赤いグラスを手に戻ってきた。
「ほら、これでどうだ?」
「わぁ、ありがとう。チェリーシロップソーダ? 大好きなの」
両手で受け取り、氷の上に置かれたチェリーをつまんで口に含んだ。途端に歯に当たる硬い感触に眉をひそめる。
(……え? 何これ)
種だと気づいて、ナーサは固まってしまった。祖父の屋敷ではチェリーに種があったことなんて一度もない。
ヤックスリーがニヤッと笑った。
「やっぱ引っかかったな。チェリーって普通種があるもんらしいぜ。手に吐いて、ナフキンで包めばいいんだってよ」
「こちらを」
おそるおそる口元に手を運びかけた時、ケイレブが銀の小皿を静かに差しだした。ナーサはナフキンで口元を隠しながら、そっと種を移した。顔が燃えるように熱い。
「……ありがとうございます」
「気にすることはない。私も昔、同じことをした。
それよりも、リラルド……君、そんな食べ方をしてたのか。父上に知られたら殺されるぞ」
「うちじゃ、やんねぇよ」
ナーサは兄弟のやりとりに笑いながら、グラスに口をつけた。爽やかな酸味と柔らかな刺激が喉に染みていく。
「……おいしい」
ヤックスリーは満足そうに口の端を上げると、ナーサに身体を向けた。
「そういや、こないだ教えてやったスコットランド英語、忘れてねぇだろな?」
「勿論。テストするんでしょ?」
「へぇ、自信あるんだな。まあ、こないだ教えてやったのは簡単な言葉だからな……今度はもうちょい難しいのを教えてやるよ。来週の金曜とかどうだ?」
甘い痛みが胸を走る。約束をして待ち合わせるなんて友達みたいだ。
「アイッ」
「へっ、気に入ってんじゃん!」
スコットランド英語で返すと、ヤックスリーは鼻の下に手を当てながら笑った。