ざわついていた周囲が、ふと静まり返った。
「おい、あれ……」と近くのテーブルで囁く声が聞こえ、ナーサはそちらに視線を向けた。
通路の奥から大柄な男子が近づいてくる。ローブの裾をはためかせ、一歩一歩に怒りをにじませているのは監督生のイアン・マクドゥガル。そして、そのすぐ後ろには──ケイレブと付き合うなと警告してきた、あの女子。遠目にも分かる、きっちりと引かれたアイラインに、紅色の口元が戦いに臨む武装のように見えた。
ケイレブはスッと立ち上がり、二人を出迎えるように通路側に出た。
「やあ、イアン、リンジー。君達まで来てくれるとは。今日はいい夜だ」
差し出された手をじろりと睨みつけたイアンが、ほとんどケイレブに掴みかからんばかりに詰め寄る。
「おい、ヤックスリー。うちの寮生に何してる?」
ナーサは息を呑んだ。朝食で失敗した時、フォローしてくれた人と同じとは思えない。
大広間中が固唾を呑んで見守る中、例の女子──リンジーがケイレブの脇をすり抜け、ナーサのすぐ側に片手を叩きつけた。振動に揺れる皿とカトラリーの音に思わず身をすくめると、彼女はグイッとナーサの腕を引いた。
「何でこんなところで優雅に食事してんの、マルフォイ! あんたの居場所は、あっちでしょ! 戻るよ、立って!」
乱暴な言い方の中にも心配しているのが伝わってくる。ナーサは迷いながら腰を浮かせかけた。すると、ケイレブが緩やかに回り込み、何事もなかったかのようにリンジーの視線を自分へと引き寄せた。
「君達何か勘違いしてるようだが、彼女は自分の意思でこのテーブルに来てくれた。そうだね、ナーサ?」
「……はい」
ナーサは椅子に座り直して、うつむいた。自分が双方を裏切ったような気分になった。罪悪感が胸をチクチクと刺すように痛い。
リンジーは一歩、また一歩と距離を詰める。今にも二人の身体が触れ合わんばかりだ。
「ミスター・ヤックスリー。また何も知らない一年生を騙すつもりですか?」
リンジーの声は微かに震えていた。ケイレブは怪訝そうに眉をひそめた。
「騙す? 心外だ。私が、いつ騙したと……」
「ふざけないで! あんた、私に何をしたか──選択肢を奪ったんだよ! 私の未来を勝手に狭めておいて!」
「リンジー。何度も言うが、あれは最善の道だった。君達が何故そんなにも……」
リンジーの目に激しい炎が燃え上がった。
怒りに震える両手でケイレブの胸倉を鷲掴みにした瞬間、どよめきが広がった。遠くの席の生徒まで総立ちになり、何事かと注視する。
けれど、リンジーもケイレブも互いの目に釘付けだった。リンジーは獣のように食いしばった歯を剥き出しにし──
「アーム ネー ヤー パペッ、イェ ケン!」
割れんばかりの怒声に、大広間が水を打ったように静まり返った。
リンジーの目は潤み、肩で息をしている。パッとケイレブを放すと、まるで汚らわしいものに触れたように両手を払う。
誰かが小さく「今のって、英語?」と囁いた。ほとんどの生徒が目を見交わし、ヒソヒソ声で話し出す。
『私は操り人形じゃない。分かった?』──衝撃的な言葉に、ナーサは視界が白い閃光に切り裂かれたように感じた。
「すっげぇ……言うじゃん」
すぐ側から興奮気味な呟きが漏れた。ヤックスリーの横顔は楽しげで、やはり聞き間違いではなかったのだと悟った。
ケイレブは乱れた襟を直しながら、苦い笑みを浮かべた。
「君を操ったつもりはない。君が選んだのは私だったし、あの夜……君も笑ってくれたじゃないか」
リンジーもイアンも一瞬、大きく目を見開いた。おそらくは完璧な標準英語を話すヤックスリー家の嫡男が、生徒の大半が聞き取れなかったスコットランド英語を理解できたことに驚いたのだ。
甘さとほろ苦さが入り混じった微笑みを浮かべ、ケイレブはリンジーのハニーブロンドの一房を撫でた。その仕草は、愛おしさが思わずあふれたような自然なものだったが、リンジーは肩を強張らせた。
「ヤックスリー、汚ねぇ手で妹に触るなッ!」
今にも殴りつけそうな勢いでイアンが駆け寄ってくる。その声に、動けずにいたリンジーは我に返ったようにケイレブの手を払い除けた。
自嘲するような笑みを浮かべ、ケイレブは振り払われた手に視線を落とす。
「……私はただ、君を守りたかった。それだけだ」
リンジーの頬が紅潮し、目が爛々と輝いた。髪を振り払い、人差し指を突きつける。
「私を守るだって? 笑わせないで! あんたなんかに頼らなくたって、自分の身くらい自分で守れる!」
ケイレブの顔は切ないほどの痛みに満ち、言葉を探すように何度か唇が動いた。やがて、抑えきれなかったように低く漏らす。
「……やっぱり、怒る君はとても綺麗だ」
声が届いたのはごく近くの席だけだったろう。しかし、近くにいた生徒から隣の生徒へと、波紋のように大広間中にざわめきが駆け抜ける。
──今なんて言った?
──綺麗って言った? 告白?
──あの二人どんな関係?
──ケイレブ様が……嘘でしょ!
つぶやきと悲鳴が入り混じる中、リンジーは耳まで真っ赤になってよろめいた。
「……はっ? あんた何言って」
「てめぇ、いい加減に」
「そこまでだ、マクドゥガル」
グリフィンドール側から人をかき分けて進み出たロングボトム先生が、イアンの肩をぐっと押さえた。荒い呼吸で胸を上下させるイアンに鋭い視線を向ける。
「ここは大広間だ。監督生同士での喧嘩など言語道断。君もだ、ミスター・ヤックスリー。私的な会話をこれ以上皆に触れ回りたいのか?」
ケイレブは今にも倒れそうな蒼白な顔で、しかし平時と変わらぬ優雅な一礼を返した。どれだけ内面が動揺していても、ヤックスリー家の嫡男という殻が覚え込んでいるかのように。
イアンは眉間に深々とシワを刻んで、ケイレブを、そしてナーサを順に睨みつけた。絶対に許さないとその目は告げていた。
妹を庇うように肩を抱いたイアンが去ると、ナーサはハンカチを出して額に当てた。汗が流れなかったのが不思議なくらいだった。
ヤックスリーはニヤリと笑って立ち上がると、軽く兄の肩を叩いた。
「誰だっけ。さっき俺に『感情を出すな』とか偉そうに言ったの」
「皮肉は結構だ。今は何も言うな」
ケイレブは溜息を吐き、椅子に腰を下ろした。こめかみをトントンと指で叩きながら、努めて余裕の笑みを浮かべる。
「騒がせてしまったね。見苦しいところを……まったく、私らしくないな」
「ケイレブ、今のは……」
何と聞いたものか言い淀んでいると、ケイレブはグリフィンドール側のテーブルに視線を移した。
「イアンとリンジー・マクドゥガル。あの兄妹は私のはとこだ」
「ご親戚だったんですかっ?」
ナーサは思わず目を見開いた。飛行訓練でヤックスリーにタックルした時、イアンは容赦の欠片もなかった。とても親戚にする態度とは思えない。
ケイレブは目を伏せ、溜息を吐いた。
「母と、二人の父親が従姉弟でね。ただ、遠い昔に家同士は断絶してる……色々とあってね。私が何を言っても、彼らは信じない」
ゴホッと隣で咳込んだヤックスリーが口元を押さえたまま、鋭い視線を送ってきた。
「それであそこまで言うって相当だぞ。兄貴、絶対別なところで嫌われたんだろ。あいつの前で、他の女にちょっかいかけたとか」
「もう黙ってろ」
うんざりしたように言ったケイレブだったが、すぐに頬を緩ませた。軽口が的を射ていると思ったからなのか、もしかしたら弟の気遣いを感じたのかもしれない。
祖父と母の静かな暮らしでは想像もつかなかった。ナーサは二人を見比べて、胸がじわりと温まるのを感じた。
「……いいですね。ご兄弟仲がよくて」
羨望を込めて呟くと、ケイレブは椅子を引いてナーサの方に身体を近づけた。
「ふふ、そうかい? 私としては君が本当の」
「兄貴こそ、黙ってろよ」
ヤックスリーは顔を赤くして、テーブルを下から蹴った。また、何かが気に障ったのかもしれない。ただ、ケイレブは片眉を上げ、からかうような笑みを浮かべている。
(本当の……何? でも、聞いちゃいけない気がする)
話題を変えようとナーサは口を開いた。
「あたし、あの人……リンジーに以前、ケイレブに近付かないように言われたことがありました」
「そうか。それでも、君は私と一緒にいてくれたんだね」
救われたように目を細めるケイレブに、ナーサは微笑み返した。
「あなたがいい人なのは知ってますから。早く誤解が解けるといいですね」
ケイレブは頷いて、ナーサの肩に軽く手を置いた。途端に、横から低い声が飛んだ。
「おい、兄貴。こいつ、ガキじゃねぇんだから。やめろよ、そういうの」
刺々しい声音に、ナーサは肩に置かれた手からそっと身を引いた。ケイレブは名残惜しそうにゆっくりと手を戻す。
「そうか。確かにレディに取る態度ではなかったな」
「お前もさ、嫌なら嫌って言えよな」
ヤックスリーは鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。ナーサは一瞬考えてから、うつむいた。
「……嫌、じゃない」
「はっ?」
「お兄さまがいたら……きっと、こんな感じかなって」
触れられた肩に、まだ温もりが感じられる気がした。
火照った頬をごまかすように、ナーサはチェリーシロップソーダに口をつけた。甘さの中にほんの僅かに含まれた酸味が、小さな刺激と共に入ってくる。それはケイレブが側にいる時に感じる気持ちとよく似ていた。
(本当のお兄さまだったら、ずっと側にいてくれたのかな……)
ケイレブは一瞬だけ目を見開き、すぐに目を細めてグラスを傾けた。その仕草はいつもと変わらずスマートだったが、微かに頬が震えているのに気がついた。まるでこぼれ落ちそうな笑みを必死で抑えるかのように。
ヤックスリーは口をへの字に曲げ、厚切り肉に無言でフォークを突き立てた。カトラリーの擦れる不快な音もお構いなしに、乱暴にナイフを引き、肉を口に放り込む。ナーサはチラリと見て、肩をすくめた。
(さっきまで音を立ててなかったのに……変なの)
何事もなかったかのように平然と食事を取り続けるケイレブの目が、時折遠くに向けられる。何気なく目で追うと、彼の視線の先にはリンジーがいた。それも、隣にいる男子と隙間なく身体をつけて──ケイレブの表情からは何も読み取れない。けれど、彼が本気でリンジーを想っていることだけは伝わってくる。
これまで見たことのない一面に、ナーサは少しだけ胸が軋んだ。また置き去りにされるような、そんな予感が頭をよぎった。