あの大広間でのセンセーショナルな事件は、一週間経っても皆の間で持ちきりだった。大広間でも、廊下でも──ゴーストや肖像画の住人ですら、この話題が楽しくて仕方ないらしい。
「ケイレブが二股をかけていた」「リンジーが嫉妬した」──そんな無責任な噂に、ナーサは貴重な当事者として何度も意見を求められた。
もどかしく思いながらも、ナーサは結局口をつぐむしかなかった。ケイレブとリンジーの過去を知らない自分が何かを言うことで、二人を傷つけてしまうかもしれないと思ったからだ。
けれど、否定しないことでますます噂には拍車がかかる。どんどん寮にいるのが億劫になり、一人歩きの時間が増えていく。皆があることないこと笑いながら話すのを聞いていると、自分だけが別世界に放り込まれたようだった。
ヤックスリーとの約束の日は、そんな時だった。
「『トゥックヤタイム、ディジェ?』」
学習室に入ると、椅子にふんぞり返っていたヤックスリーがゆっくりと身体を起こし、わざと区切ってスコットランド英語を口にした。
『遅かったんじゃねぇの、ん?』とからかうような響きに、ナーサは思わず懐中時計を開いた。まだ三時二十五分だ。
「そんなに待った? まだ時間前だけど」
ヤックスリーは目を見開き、反動をつけて勢いよく椅子から飛び下りた。明るい青い目に鋭い光を宿し、微かに鼻にシワを寄せた。
「お前、意味分かってんのか? 『ディジェ』って……誰に教わった?」
「誰にも……でも、どうしてか、分かるの」
「じゃ、こないだのも分かってたのか?」
「うん……でも、『ウィー・ラッシー』は分からなかった」
小さく答えると、ヤックスリーの顔いっぱいに笑いが広がった。それも、いつもの皮肉っぽい笑顔ではない。まるで知らない国に迷い込んでしまった人が、思いがけず懐かしい言葉を耳にしたかのような、心からこみ上げてくる笑いだ。
「へぇぇ、やっぱ面白ぇわ、お前。こないだ、発音はヘッタクソだったけどな」
逆立てた髪を払いながら言う声は、言葉とは裏腹に優しかった。それから、ふと思い出したように目を瞬いた。
「ああ。てこたぁ、こないだ兄貴が言われてたことも聞き取れたのか?」
「あー……うん」
大広間でのリンジー・マクドゥガルの叫びを思い出して、ナーサは口ごもった。
『私は操り人形じゃない。分かった?』──ひどく気になる言葉だった。ケイレブが誰かを傷つけるはずがないと信じている。けれど、感情を振り切って叫んだ言葉に嘘があるとも思えない。
ヤックスリーの方はあっけらかんと笑って見せた。
「すごかったよな、あれ。兄貴があんな取り乱すところ、初めて見た。グリフィンドールも荒れてんのか? あの兄妹がいるし」
「スリザリンも? ケイレブは……大丈夫?」
ケイレブとはあれから顔を合わせていない。あの場では気丈に振る舞っていたが、やはり相当ショックだったのではないかと思う。
しかし、ヤックスリーはニヤリと笑った。
「スリザリンで兄貴をからかえるヤツなんか、いやしねぇよ。おっかなくてな」
「おっかない?」
思わず訊き返してしまう。いつも柔和なケイレブとは真逆な評価に思えた。
ヤックスリーは「おいおい」と呟きながら、テーブルの上にどっかと座った。長い脚を組むと、眉根を寄せる。
「お前、まだ兄貴がただの優男とでも思ってんのか? ロウルを追っ払ったとこ、見ただろ……ああいうとこはマジですげぇよ。ムカつくくらいな」
まだ学生でありながら、祖父を思わせるほどの威圧感を纏っていたケイレブ。そして、リンジーに向けられた真っすぐな視線。あの一瞬、二人の間に誰も割り込めない空気が生まれていたのを思い出す。
あんた、あいつの何を知ってるっていうの?──リンジーに言われた言葉に、改めて胸を抉られるようだった。
「……そっか。それなら安心だね」
「おぅ、心配すんな。それよりお前の方こそ大丈夫なのかよ。スリザリンのテーブルでメシを食ったって、いじめられてねぇか?」
チクリと刺すような問いかけに、ナーサは両手を握りしめた。
あれから一週間、イアンはナーサに冷ややかな目を向け、リンジーもすれ違うたびに睨みつけてくる。そのたび、胃の奥をギュッと締め付けられるようだった。
「……いじめられては、いない」
ヤックスリーは前屈みになり、両肘を太ももに置いて顎を支えた。そのままじっとナーサを見つめていたかと思うと、軽く鼻を鳴らした。
「『アフフローティンゲン、エ?』」
「……え、なに?」
「また浮いちまったのかって。やっぱスラングは分かんねぇか……お前、結構つらいんじゃねぇの?」
そっと言い添えられた言葉に、ナーサは一瞬キュッと口を閉じた。一週間前のあの日から、アリッサには露骨に避けられるようになった。他のルームメイトはいつもと変わらない。けれど、グリフィンドール自体の空気が重く、寮にいるのもつらい。
でも、付き合う相手は自分で選ぶと決めた──ナーサはにこりと笑った。
「平気だよ。ねえ、折角図書室に来たんだし、一緒に勉強もしない? 今日の魔法史のレポートを完成させたくて。
そろそろちゃんと座ったら? もしかして椅子が見えてない?」
「『ヤーセリィス、ヤケン?』」
からかうように言った言葉に、ナーサは吹き出してしまう。
「お前、真面目かって……普通だよ。あなたが少し真面目になった方がいいよ」
バッグからインクと羽根ペン、羊皮紙を取り出して並べていると、ヤックスリーは当然のようにすぐ隣の椅子を引いて腰を下ろした。少し口を尖らせて、書きかけの羊皮紙を覗き込む。その僅かな空気の流れに、少し胸が温かくなる。
「へぇ、ちゃんとやってるじゃん。俺、魔法史って嫌いなんだよな。ビンズの授業、皆寝てるし」
ゴーストのビンズ先生の授業は身体を傾けない生徒の方が珍しい。ナーサは頬をピクピクさせながら、羽根ペンを動かした。
「確かに眠たくなるけど、ちゃんと聞いてると結構面白いよ」
「すっげぇ物好き。あの授業で起きてられるヤツなんていたんだな。お前、不眠症?」
「そっちこそ生ける屍の水薬を常用してる?」
お互い真剣な目で見つめ合ったと思ったら、次の瞬間には声を上げて笑っていた。彼の軽口には不思議と腹が立たなくなっていた。
「ねえ。じゃあ、何の授業が好き?」
羽根ペンを一旦置くと、ナーサは椅子ごとヤックスリーの方へ向けた──途端、彼はガタンッと椅子ごと飛び跳ねた。目を見開いたまま固まる様子が、警戒心の強い小動物じみていて可愛い。
「いきなり、こっち向くんじゃねぇッ」
つい笑ってしまうと、尖った声が飛んできた。ただ、それは本心からの言葉ではないとナーサにも分かってきた。両手で顔を隠すと、指の間からチラチラと覗き見る。
「ねえ、もうそっちを向いても大丈夫? びっくりしない?」
「お前な……『ヤーライトスニーキィイン、エ?』」
聞き慣れない言葉にナーサは一瞬考え込んだ。そして、先ほども聞いた語尾にハッとする。
「『エ?』って、『でしょ?』とか『だろ?』って意味?」
「お、分かったかっ?」
興奮気味にそう漏らしたヤックスリーは、椅子をさらに近づけた。気づけば、膝が触れ合わんばかりで、彼の口元は隠しきれないほどの喜びに満ちていた。分かり合えたという感激に、ナーサの胸も熱くなる。
「『エ?』の前は? 聞いたことはある気がするけど」
「すげぇ陰険だなって言ったんだよ」
「そっちは先生にケンカ売ってばかりじゃない。
あ、でも飛行訓練は好きでしょ? 先生に聞こえるように文句言ってたくせに、今じゃ素直だもの。それともフォーテスキューに殴られて、マクドゥガルにタックルされて懲りた?」
「……おい!」
「ふふ。ディゴリー先生は褒め上手だもんね。あたしも……パパに似てるって褒められて、嬉しかった。分かるよ」
ヤックスリーは少し視線を泳がせ、咳払いした。
「……お前は、何が好きなんだ?」
「どれも好きだけど、一番は呪文学かな。実用的な魔法が多いし、すぐに試せるから楽しい」
ヤックスリーはホッとしたように頬を緩め、ポケットから杖を取り出すと、クルクルと弄びながら目を細めた。
「俺も呪文学は好きだな。やっぱ杖を振ってこその魔法使いだろ? あとは【闇の魔術と防衛術】。自分の強さを量れる感じがいい」
「それっぽい! あたしは防衛の方は得意だけど、攻撃魔法が苦手……痛そうな顔や、苦しむ顔は見たくない」
ナーサは懐中時計のネックレスを両手で握りしめた。お互いに呪いを掛け合う授業はどうも苦手だった。まだ一年生だから、せいぜい相手に鼻血を流させたり、脚を痺れさせたりするくらいが精一杯だが、学年が上がればどうなるかが見えない。
ヤックスリーは杖先で自身のこめかみを何度か叩いた。
「攻撃が最大の防御になることもあるぜ。それに俺が攻撃得意で、お前が防御得意なら、俺らが組んだら最高なんじゃね?」
さらりと言った彼の瞳は、晴れた日の澄みきった空のような色をしていた。その言葉は特別な提案をされたようで、ナーサは思わず笑みをこぼした。
「そっか……そうかも。ねえ、将来はもしかして魔法法執行部に入ろうとしてる?」
「まあ、俺は政治家には向いてねぇしな。兄貴みたいにはできねぇし。父上も、元々は魔法法執行部で闇祓いをやってたんだよな」
「闇祓い?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、ヤックスリーは肩をすくめた。
「知らねぇのか? 昔は『闇祓い局』って呼ばれてたんだよ。
今の『アビスの剣』と『ルクスの鎖』は、どっちもそこから分かれた部隊なんだ。元々はどっちも魔法法執行部の一部署だったけど、半分が独立して軍隊になった。『闇を祓う』なんて言葉がマズいってんで、あの方がブリテン全土を掌握してからは名前ごと作り替えられたんだ」
「へぇ……魔法史聞いてないのに詳しいね」
「好きなんだ。こういうの。俺らの世界が、どうやってできあがったのか」
いつもよりも早口で語るヤックスリーの目が生き生きとしている。よく分からない単語ばかりが飛び交っていたが、得意げに語る彼の姿を見ていると胸が高揚するのを感じた。
ヤックスリーは抑えきれない気持ちを紛らすためか、立ち上がった。机の周りを、ゆっくりと回り始める。
「それに授業聞いてなくたって家庭教師に教えられりゃな。お前だってそうだろ?
俺はアビスの剣に入りたい。強くなって、あの方に認められたら……最高だろうな。闇の印を戴いて、最高の名誉を手にするんだ。
けど、父上にも兄貴にも反対されてる。命の危険を冒してまで所属する場じゃねぇってさ。
ルクスの鎖なら安全で目も届くって言うけど……ただの番犬なんてダセェ。そんなのはごめんだ」
剣のように杖を握りしめ、決意を込めて漏らす。夢を語る彼が急に大人びたように見えて、ナーサは小さな胸の疼きを感じた。さっきまでの近さが嘘のように、急にヤックスリーが遠い人になったように感じた。
「……すごく意外。将来のこと、ちゃんと考えてるんだね」
ヤックスリーは僅かに視線を落とし、すぐ隣に手をついた。軽く身を屈め、ナーサの目を覗き込むようにして言う。
「そりゃあな……お前はどうなんだよ。将来のこと、なんか言われてねぇのか? 決まってることとか、ねぇの?」
「あたしは……まだ自分が何を目指せばいいのか、分からない。おじいさまやケイレブみたいに、いつか威厳のある当主になれればいいと思うけど……ホグワーツで学んで、どう未来を選んでいけばいいのか。
ちゃんと考えてるあなたが、ちょっと羨ましい」
ヤックスリーはフッと鼻で笑うと、視線を逸らした。
「お前、勉強できるしな。目指せば、何でもなれるんじゃねえの?」
「ありがとう。そういえば、ケイレブは何を目指してるの? N・E・W・Tレベルの魔法薬学を取っていたけど」
ほんの好奇心から訊くと、ヤックスリーは片眉を吊り上げた。投げやりに椅子に座ると、シーソーのように椅子を揺らす。
「スネイプ先生と交流するためだろ。別に就職に必要で取ってるわけじゃねぇと思うぞ」
「スネイプ先生と親しそうだったもんね」
「……兄貴は誰とでも仲よくできるからな。自分をよく見せるのがうまいんだ」
その声は何処か棘を隠そうとしているように聞こえた。ナーサは思わず笑みをこぼした。
「あたしも嫌だなと思ったら、近づけないよ。こないだの──ロウル? ああいう人には、絶対に近づきたくない。だから、一緒だね」
「はは、確かに……お前、すぐに顔に出てたな。
兄貴は魔法省に就職希望なんだ。父上の跡を継ぐためにな。父上も出来のいい兄貴を側に置きたいだろうし、多分補佐官にでもするんだろうな……で、いずれは大臣の座を譲りたいんじゃねえかな。
兄貴が求めるのが権力なら、それはそれでいい。けど、俺は別な力がほしい。あの方のような……誰をもひれ伏させる絶対的な力が」
その声には、幼さも迷いもない。ナーサは何も言えず、ただ彼を見つめていた──力を求めるその瞳は、どこまでも澄んでいて、息を呑むほどに綺麗だった。