ホグワーツは、クリスマスの十日前──十二月十五日から休暇に入った。
学校に残る生徒はほとんどおらず、ホグワーツ特急は生徒であふれかえっていた。
四人掛けのコンパートメントに五人が詰めて座ると、息苦しいほど狭い。けれど、コンパートメントに一人ぽつんと座っていた時よりもずっと居心地がいい。両隣の肩に触れ合うたびに、腹の底から温かなものがこみ上げてくる。
「ねえ、百味ビーンズ持ってきてるから皆で食べよ!」
箱を開けながら、ジャニスが明るく言う。差し出されたお菓子に皆が次々と手を伸ばした。一緒に覗き込むと、原色の艶めきが宝石のように見える。
ジャニスはサッと一粒つまんだかと思うと、口の中に放り入れる。
「皆、何味だった? 私のこれは……うぇ、多分ゲロ味だ!」
「あっ、私の当たりだ! イチゴ味だよ。おいしいっ」
メイジーは幸せそうな顔で、味わうように口を動かす。
グレイスは顔をしかめ、吐き気をこらえるように口元を覆った。
「これは……な、んだろ……血みたいな味。臓物味かな、これ」
「私は土味、なのかな。ちょっとジャリジャリしてる」
渋い顔のまま、アリッサはカボチャジュースでゴクゴクと飲み干した。
ジャニスはグイッとナーサの前にビーンズを差し出した。
「ほら、何、高みの見物決め込んでんの? あんたも食べなよ、ほら!」
「あたし、これ食べるの初めてなの……変な味が多いの?」
ドキドキしながら訊くと、皆は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「よし、じゃあ、私がおいしそうなの選んだげる! この赤紫のやつ、いってみよう!」
「いやいや、この灰色のつぶつぶ入りにしよ。なんとな〜くおいしそうな予感がする!」
「ちょっとちょっと……初心者にはハードル高いって。せめて、この黄色いのにしてあげなよ。レモン味か、腐った卵味のどちらか……さあ、どっちだ?」
「ふふ。やだ、そんなのばっかりなのっ?」
どれにしようかとビーンズに手を伸ばしかけた──その時、ノックの音が響いた。目を向ける前に、グレイスが小さく叫んで「あの人じゃん!」と囁いた。
コンパートメントのドアを開けたケイレブが、ナーサに柔らかな笑顔を向けた。
「やあ。久しぶりに見かけたから、つい来てしまった」
「ケイレブ、お久しぶりです」
椅子から飛び上がって駆け寄ると、ケイレブは満足そうに目を細めた。
「友達同士、楽しくやっているところをすまない。君達、少しミス・マルフォイをお借りしてもいいだろうか?」
ルームメイト一人一人の顔を見て、丁寧に言う。
グレイスとメイジーはキャッと小さな悲鳴を上げ、「どうぞ、どうぞ!」とグイッと背中を押してきた。不意のことでよろめいた途端、硬い胸板が額に触れた。肩口と手首を支えたケイレブの息遣いが髪をくすぐった。
「──大丈夫かい?」
何か口にする前に、背後から押し殺せていない悲鳴と感想が漏れ聞こえてきた。メイジーとグレイスの「お似合い!」という声に、アリッサが教科書を開く音が重なった。忙しなくページをめくる音が、やけに大きい。
ジャニスは肩肘をついたまま、笑みを浮かべていた。その場の何物をも見逃すまいとするかのような鋭い目のままで。
ケイレブは背筋を伸ばし、口角を上げた。
「グリフィンドールの子は、いつも元気だね」
「……皆。ちょっと、行ってくるね」
ナーサは燃えるような頬に両手を当て、廊下に飛び出した。まだ触れ合った額や肩口に彼の熱を感じる。コンパートメントの陰で深呼吸していると、ドアの閉まる音が響いた。磨かれた光沢のある靴が、静かにナーサの側で止まる。
ナーサは顔から手を離すと、おそるおそる顔を上げた。いつもと変わらない柔らかな眼差しが注がれている。
「……ごめんなさい。とても失礼なことを」
「君のせいじゃないだろう?」
大したことではないようにケイレブは言い、その視線は背後のコンパートメントに向けられた。グレイスとメイジーの笑い声がドア越しにもよく通った。
だが、それも一瞬だった。ケイレブは背を屈め、ナーサの目を覗き込む。冬の湖のように穏やかな青い目を見ると、全て赦された気がした。
「それよりも、お母上へのプレゼント用の瓶は無事に手元に届いたかな?」
その言葉で、ナーサの心は小さな花火が咲いたように弾けた。
「はいっ。このクリスマス休暇に渡すつもりです。本当に素敵な瓶で……ありがとうございました」
「喜んでもらえてよかった。あれから……色々と忙しくなってしまってね。手渡したかったのに、なかなか時間が取れなくて。フクロウ便なんて使ってしまって、すまなかったね」
「いいえ。お忙しいのに、ちゃんと覚えててくださって、ありがたかったです」
元々七年生は卒業に向けてハードな日々を送っていると聞いたことがあった。
それに加え、あの大広間の一件──もしかしたら、監督生として咎められる部分もあったのではないかと思う。そんな中、約束を果たしてくれたのが嬉しかった。
「ふふ、君の可愛いお願いを聞くのが好きだと言ったろう? 喜んでもらえることを祈っているよ」
そう言い添えられた言葉に、ナーサはひんやりとした車内の空気が、ほんの一瞬だけ暖かくなった気がした。
「さて」とケイレブが続けた。
「すまないが、一緒に車内の見回りについてきてくれるかい? 退屈な見回りだからね。君と話しながらなら楽しめるだろう。それに、いずれ君も監督生になるんだ。予行練習になるはずだ」
「はい。喜んで」
ケイレブは肘を曲げ、ごく自然に差し出した。ナーサは頬を緩めて、その手に身を預けた。揺れでおぼつかなかった足元が、導かれるように支えられた。
「そういえば、図書館でリラルドと会ったそうだね。またスコットランド英語を?」
「はい。それに一緒に勉強もしました」
「…………ふふ。家庭教師からあの手この手を使って逃げ回っていたリラルドが勉強か。ガリオン金貨でも降ってきそうだな」
そう言いながらも、ケイレブの瞳は優しい。微かな誇らしさが透けて見える。
「魔法史がとっても詳しかったです。授業中、あんなに寝てるのに」
「まあ……ビンズ先生の授業ばかりは、私もきつくは叱れないな。
最近は人とのトラブルも減って、穏やかに過ごせているようだ。全て君のお陰だね。感謝するよ」
「そんな……あたしも彼と話すのが楽しいんです」
「彼が聞いたら、きっと」
すぐ横のコンパートメントからドッと笑い声が響いた。中を覗き込んだケイレブが、からかうような笑いを浮かべた。
「──噂をすればだな」
ケイレブの身体の陰に、逆立った金髪が見える。ナーサが小さく笑みをこぼすよりも早く、ケイレブはノックもせずにドアを開けた。
汽車の走行音がやけに耳につく。
同学年のスリザリンの男子達──誰かがおずおずと「ケイレブ様、お疲れさまでございます」と挨拶すると、皆が続いた。
ケイレブは軽く頷き、チラリとナーサに目を移す。すると、彼らは慌てたようにナーサにも挨拶してきた。
いつも「よっしゃ」「やり〜」なんてノリではしゃいでいる男子達が、取ってつけたように「ごきげんよう」なんて言うものだから、ナーサの思考は急停止した。
何か返事をしなきゃ──そう思って口を突いたのは掠れた声だった。
「……こんにちは」
言ったそばから間違いに気づいて、顔の熱が全身くまなく駆け巡った。誰も、何も言わなかった。それが余計に居たたまれない。
ヤックスリーは片膝を座席の上に立てたまま、目を見開いてナーサを見た。一瞬口元が震えるように動いたが、眉をひそめて口を引き結ぶ。
「どうした、そんな顔をして。何か困ったことでもあったか?」
ケイレブの穏やかな声が、重たい沈黙を引き裂いた。
ヤックスリーの目は冷ややかだった。ケイレブの腕に添えた、ナーサの手をじっと見つめる。男子達が兄弟を交互に見つめ、そわそわと身じろぎをする。
「……兄貴は、見回り?」
ケイレブはそんな様子など目に入っていないかのように、楽しげに笑う。
「ああ。君も来るか?」
「……やめとくよ。監督生の仕事だろ。手伝わせんなよ、面倒くせぇ」
ぶっきらぼうにそう言うと、ヤックスリーはふいっと窓の方を向いてしまった。肩をすくめたケイレブに促され、ナーサもコンパートメントを出ようとした、その時。
「マルフォイ。冬休み明け、また図書室に来いよ」
ドアを閉める前に、ヤックスリーが背を向けたまま言った。男子達が一斉に息を呑み、先を競って肘や指で突っつきだした。「うるせぇ、やめろ!」と邪険に振り払う姿に、ナーサは何故だか安堵した。
「うん。また冬休み明けにね」
後ろ手にドアを閉め、ナーサはうつむいた。顔を焦がすような熱が消え、心地のいい温かみが取って代わった。
車内の見回りはその後も続いた。
ほとんどが通路から目視するだけだったが、羽目を外して決闘ごっこをする生徒から杖の没収や、食べたら火を吹くキャンディーなど危険物を押収したりと、力が必要になる場面が多いことも分かった。
しかし、ケイレブが静かに声をかけるだけで、諍いはそこで終わりを告げる。それも彼の属するスリザリンだけではなく、他寮の生徒までが従ってしまう。叱責を恐れるためでなく、彼に褒められるというご褒美をもらうために。
それは柔軟だが、いつの間にか絡め取られている蜘蛛の糸のような支配──ヤックスリーの求める圧倒的な力とは全く別種のものだった。
ナーサはその鮮やかな手管に息を呑むと同時に、ほんの僅かな畏れを感じた。まるで、もうすでに自分が絡め取られているような窮屈さを。
「ケイレブはホグワーツに入学した頃、どんな生徒だったんですか?」
監督生達の先頭車両に近づいてきた。思い切って尋ねてみると、ケイレブの顔が硬くなる。それはほんの一瞬で、違和感を感じる間もなく口元が笑みを形作る。
「……と、言うと? 勉強面のことかい?」
「いいえ。今日ご一緒させてもらって、やっぱりすごいなと思って……ケイレブの言葉自体が魔法みたいでした。丁寧に伝えるだけで皆、すぐに動いて」
「入学したての頃は悪夢のような日々だった」
「悪夢?」
思わずナーサはケイレブを見上げた。しかし、その横顔はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「その頃は……スコティッシュ訛りがひどくてね。挨拶をしただけで失笑が漏れた。話す内容じゃない。アクセント一つで、誰も何も聞いてくれなかった」
触れ合う微かな腕の震えだけが、消えぬ過去の屈辱の怒りを体現しているようだった。
ナーサは息を呑み、目を伏せた。以前、軽く「ケイレブのスコットランド英語を聞いてみたい」とお願いしたことが、ひどく残酷だったことを今になって知った。
「だから、二年かけて正しい音に矯正した。
そうしたら、世界が変わった。笑う者はいなくなり、耳を傾けてもらえるようになったんだ」
「とても……大変だったでしょうね。大人に近づくにつれて矯正は難しくなると聞きました。アクセントの違いで、そんなことが……」
その時、ヤックスリーがスコティッシュ・アクセントを馬鹿にしたと激昂したことを思い出した。それに、ルームメイト達にも彼の話し方が怖いと言われていた。
ナーサにとっては遠い記憶のように懐かしい音が、差別の対象という事実に、胸がキュッと締めつけられた。
「彼はその気になれば完璧に話せるんだ。私よりも先に正しい音で話し出したんだから。けど、やろうとしない。困ったものだ」
そう言いつつも、ケイレブの口調は柔らかかった。何処か弟の選択を尊重しているようにすら聞こえた。
「──ケイレブ?」
急に足を止めたケイレブにぶつかりそうになる。
コンパートメントの小さな窓の向こうには、身体を斜めにずらして座ったリンジー・マクドゥガルが見える。
髪をほどいた彼女の後ろには、銅色の髪の男子が立っていた。西陽を受けて輝くハニーブロンドを梳く目は愛しさにあふれ、宝物に触れるような優しい手つきで彼女の髪を結い上げていく。
リンジーと目と目が合った──そう思った途端、彼女は口の端を僅かに上げた。振り返って後ろの男子に何かを囁き、そっと指を絡める。
ケイレブの顔から笑みが消えた。するりと腕が解かれ、何も言わずにコンパートメントの前を通り過ぎた。
(やっぱり、ケイレブはあの人のことが好きなんだ……)
二人の間に何が起こったのかは知らない。けれど、わざと見せつけるように笑ったのは何故だろう。まるで傷つけるのを楽しむかのように。
ローブの裾が、目の前を行き過ぎる。ナーサは思わず手を伸ばしかけたが、ケイレブはすでに隣の車両に移ろうとしている。ナーサは行き場のない手を下ろし、足を止めた。
(今は、一人にした方がいいのかもしれない。傷ついた顔を見せたくないのかもしれないもの……)
けれど、ケイレブはハッとしたように振り返った。ナーサと目が合うと、頬が微かに蠢く。
「すまない……少し、考え事をしていたようだ」
一瞬遅れて笑みの形を作ったが、血の気の引いた顔は誤魔化せなかった。ナーサはその時初めて完全無欠と思っていたケイレブ・ヤックスリーの僅かな綻びに気がついた。