【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地   作:◆琳音◆

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17. 開けられた扉

 数ヶ月ぶりに足を踏み入れた祖父の屋敷は、懐かしさよりも、重たい空気が肌にまとわりついた。

 静謐な空気は、誰もが息を潜めているかのようだった。少しでも気を抜けば押しつぶされそうな圧迫感に、ナーサは戸惑いを隠せなかった。

 駅まで迎えに来てくれた祖父も、屋敷で出迎えてくれた母も、以前と何も変わらない。それなのに──どうしてか、そこが自分の居場所という気がしなかった。

 

 帰宅した時には、すでに午後八時を回っていた。

 祖父も母も食事を終えており、一人分だけ残された席に座ると、向かいには、二人分のティーセットが並べられた。気遣いだと分かっていても、何故か仲間外れにされたような寂しさが胸に広がった。ホグワーツの大広間で、肩を寄せ合って食べた食事が恋しかった。

 

「ホグワーツではうまくやっているようだな。成績も優秀で、寮の点数を押し上げていると報告を受けている」

「はい、おじいさま」

 

 音を立てないよう細心の注意を払いながら、ナーサは魚のソテーを切り分けた。祖父の視線が手元に刺さり、額に汗がじわりと滲んだ。

 母は美しい置物のように微動だにせず、静かに二人を眺めていた。紅茶を口に運ぶその時だけが、母の息遣いを感じる瞬間だった。

 

「それにヤックスリー家の子弟達と良好な関係を築いているとか。実によいことだ」

「……はい」

「彼らは昔からよく知っている。血筋も我が家と同格で、育ちも申し分ない。

 ケイレブは非の打ち所のない青年で、リラルドは荒削りだが光るものがある。このまま親交を深めなさい」

「……はい、おじいさま」

 

 それは会話というよりも、祖父の決定を聞く場に過ぎなかった。同じ相槌の繰り返しに、ナーサは言葉を封じられているのを強く感じた。

 あの兄弟の存在が日増しに大きくなっているのは確かだ。けれど、選択肢を与えてもらえないのは息苦しい。

 ルームメイト達と盛り上がった車内での出来事を思い出す。あの場に祖父がいたら、何を言ったろう──。

 銀器が微かに音を立て、祖父の視線が鋭く注がれる。ナーサは詫びるように目を伏せ、ゆっくりとナイフを動かした。

 

「明日の十時半からエチケットの作法講義を。一時からはダンスのレッスンを依頼している」

「──ダンス」

 

 ナーサは目を瞬かせ、頬に微かな笑みを浮かべた。ダンスのレッスンを受けるのは久しぶりだった。

 

 ──少しだけ教えてあげよう。皆が言っているのは音楽と食事を楽しむ社交の場のことだ。そうだな……舞踏会に近い。

 

 ケイレブの甘い囁きが、心の奥底を微かに揺らした。それは波紋のように消えることなく、静かに広がり続けていった。

 まだ、直接は知らされていない秘された行事への参加が迫っているのかもしれない。

 胸の高鳴りが届いたのか、ティーカップに口をつけた祖父の瞳にうっすらと陰が差した。

 

「今後必要になることが多かろう。この休暇では作法を、しかと身体に覚え込むように」

「承知いたしました、おじいさま。

 それでは……ご馳走様でございました」

 

 席を立ち、一礼すると祖父は無言で頷く。母も音もなく立ち上がると、連れ立って食堂を後にした。

 

*

 

 クリスマスまでの日々は静けさに満ちていた。

 祖父は執務室にこもり、母は静かに屋敷内を行き来する。ナーサは言いつけ通りに家庭教師から個人レッスンを受け、空いた時間は図書館から借りてきた歴史書を読み耽る。

 食事の時間以外は、それぞれ何をしているのかが分からない。

 孤独が雪のように降り積もり、心をゆっくりと覆い隠していった。

 何が変わったわけではない。けれど──かつて、この屋敷を包んでいた優しい魔法が、解けてしまったかのように思われた。

 

 そして、迎えた十二月二十四日──クリスマス前夜の夜。

 屋敷の中はしんと静まり返っていた。ナーサは香水の小瓶を後ろ手に持って、隣の母の部屋をノックした。

 

「お母さま。いらっしゃいますか?」

 

 声をかけてから、ややあって愁いを帯びた母の顔が現れた。

 

「ナーサ。どうしたの?」

「お母さまにお渡ししたい物があったんです。今……少し、お時間をいただけませんか?」

「渡したい物?」

「本当は明日の朝に渡したかったんだけど、どうしても……今夜渡したくて。あまりお時間は取らせません。だから……」

 

 翌朝になれば、例年通りに祖父が豪奢なプレゼントを贈ってくれる。きっと手作りの香水なんて霞んでしまうだろう。

 だから、ナーサはどうしても祖父よりも先に贈り物をしたかった。

 

「分かったわ。どうぞ、いらっしゃい」

 

 鳶色の目を細めて、母は柔らかく笑った。ナーサはようやく【ママ】に再会できた気がして、頬を緩めた。

 

「ママ。これ……クリスマスの贈り物に」

 

 僅かな光にもきらめく、宝石のようにカットされたクリスタル製の小瓶の形は林檎だった。金色のスプレーヘッドには、同じく金色の林檎の葉が添えられている。

 ケイレブが用意してくれた小瓶は、贈り主同様に静かな気品が感じられる。

 母は「まあ」と小さく言ったっきり、何も言わない。ただ、その顔は忘れかけていた幸福というものの存在を思い出したように輝いている。

 

「林檎の花を咲かせて、花を摘んで、香りの元を蒸留して……あたしが自分で作ったの。ママのことを想いながら……」

「とても大変だったでしょう。まさか、こんな贈り物をしてくれるなんて」

 

 つぶやくような母の声は喜びに震えていた。手首に向けて噴射し、そっと鼻に寄せる。

 

「──林檎の花……懐かしい……」

「思い出したの。あたしが子どもの頃、ママの匂いだと思っていたのは、林檎の花だった」

 

 確かめるように言うと、母はそっと目を瞑った。

 

「そう。あの頃は香水なんて使えなくて……林檎の花の石鹸をパパが用意してくれたの」

「パパが……そうだったんだ。あたし、林檎の花の香りが大好き」

「ママもだよ。ありがとう、ナーサ。こんな素敵な贈り物、生まれて初めて」

 

 母は宝物のように、香水の瓶を胸元で抱きしめた。その目は、もう決して戻ることのない家族の時間を追想する痛みをも抱えていた。

 けれど、その全てを理解するにはナーサはまだ幼かった。母の仕草からは、ただ喜びだけを感じ取っていた。

 

「ママ。あたし、ホグワーツでパパのことを色々と教えてもらったの。実は問題児なところがあったとか、箒に乗るのがとっても上手だったこととか。

 それに……パパのお友達にも会ったんだよ。グリフィンドールの寮監のロングボトム先生が、パパとお友達だったの! あたし、パパとよく似てるって言われたの。それから」

 

 父の話題に触れるのは、祖父に怒られる気がして手紙には書けなかった。けれど、今なら──母と二人だけの今なら、それを伝えても赦される。そう思って、ナーサは急いで伝えようとした。

 母の手がナーサの頬を撫でた。愛おしさにあふれた手つきで、全身を包み込む。柔らかな母の胸に頭を押しつけると、ナーサは護られていることを強く実感した。

 

「パパとママの愛しい子……ホグワーツは楽しんでいるんだね。お友達はできた?」

 

 ナーサはルームメイト達や、ヤックスリー兄弟のことを思い出した。少しうつむいて、はにかみ笑いを漏らす。

 

「まだ、お友達ってほどじゃないけど……そうなれたらいいなって思う子達がいるの。それに、お兄さまみたいに優しくしてくれる人もいて……うん、あたし、ホグワーツが好き」

「それならママも安心。毎日ブレスレットを見ていたんだよ。光ることがないか、心配で」

「あたしも……いつもネックレスを見ていたの。ママが元気かなって、ずっと……」

 

 ナーサは懐中時計のネックレスを両手で包み込んだ。心細い時は、いつもこの胸元のお守りを握りしめていた。

 帰ってきた時の違和感が遠のいて、母との距離がまた近づいた。ドレスの袖を引き、ナーサは母を見上げた。

 

「ねえ、ママ……訊いてもいい? おじいさまには、内緒で」

「なあに?」

「──パパが、ホグワーツを卒業していないって聞いたの。それに、魔法界を離れたって……本当なの?」

 

 スネイプ先生とケイレブが教えてくれた秘密をそっと口にした。母の穏やかな眼差しに陰りが生じた。迷うようにその目の光が揺れる。

 

「……ええ、本当だよ」

 

 やがて、一言ポツリと呟いた。喉の奥が恐ろしさに張り付いた。無理やり話そうと開いた口からは、掠れた声が漏れる。

 

「じゃあ、あたし達は……何処にいたの?」

「……スコットランドの北の方。パパが亡くなったのは、酪農を営む人が住む小さな村だった」

「まさか、マグルと?」

「ええ」

 

 ナーサは足元から震えが立ち上ってくるのを感じた。胃の奥に詰め込んだ食べ物が逆流しそうな不快感に、両手で口元を覆って咳き込んだ。

 母の手が背中を撫でる。ナーサは一瞬その手を払いのけたい衝動に駆られた。

 

「……どうして? どうして二人とも魔法が使えるのに、マグルなんかと一緒に」

 

 口を押さえた時には遅かった。言ってはならないひどい言葉だと分かっていたのに、口が勝手に動いてしまった。

 母は痛ましげに、ただナーサを見つめた。

 

「とてもいい人達だった……働く場所のないパパとママに居場所を与えてくれた。あなたのことも可愛がってくれた。パパとちゃんとお別れできたのも、その人達がいたからなんだよ」

 

 叱りつけるのではなく、寄り添うような言葉──ナーサが言った言葉を浄化するような温かい言葉だった。

 ナーサは両耳を押さえて、激しく首を振った。最低限の魔力も持たないクズ共──祖父の言葉が、頭にこだまする。

 母の指先に力がこもる。グラグラと揺れる思考の波の間で、不意に姿を見せたものがあった。

 

「……スコットランド」

 

 聞き流した母の言葉が、頭に甦る──スコットランドの北の方にある、小さな村。

 

「ナーサ?」

「だから、あたし──スコットランド英語が分かるんだ」

 

 その言葉を口にした途端、心の奥底に封印していた重い扉が、ゆっくりと軋むように開かれていった。扉の隙間から忍び寄ったおびただしい残像が、ナーサの思考の中で影絵のように蠢いた。

 もう、取り返しがつかない──パンドラの箱は開けられてしまった。

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