翌朝、ナーサはほとんど眠れぬまま、食堂へ向かった。隈の浮いた顔はひどいものだったが、少なくともまぶたは腫れていない。そのことに少しだけホッとする。
柔らかな布団の中に潜っても、あの言葉が耳の奥から離れない。
──スコットランドの北の方。
ヤックスリーと同じ言葉を、発音を──幼い自分に向けていた人々。名前も、姿も思い出せない影の人々を思うと、心が冷たくこわばっていく。
食堂では執事が待ち受けており、恭しく頭を下げた。ナーサは機械的に頷き返した。
銀食器が整然と並べられた長テーブル。朝日がレースのカーテンを通して柔らかに差し込み、華やかに飾られたクリスマスツリーを輝かせている。その下には、すでにスリザリンカラーの包装紙に包まれた贈り物が並べられていた。
幸福の象徴とも言える光景に、ナーサは唇を噛んだ。
ナーサは大人しく椅子に腰を下ろすと、膝の上で両手を重ね、姿勢を正した。こんなにも心が切れ切れになっているというのに、いつも通りの朝がやってくるなんて到底信じられなかった。
胸元の懐中時計からコチ、コチという秒針の音が漏れ聞こえる。普段は全く気に留めない音が、今朝の食堂ではやけに大きく響いた。まるで胸の内を責め立てるかのようだ。
間もなく祖父と母が現れた。ナーサは祖父の陰になった母に微笑もうとしたが、その顔を見て息を呑んだ。母の目は赤く、まるで夜通し泣き明かしたようだった。
「おはようございます、おじいさま……お母さま」
「おはよう、ナーサ」
母に気を取られたままのナーサをチラリと見ながらも咎めることはせず、祖父は執事の引いた椅子に腰を下ろした。
唇を震わせた母は視線に気づいているだろうに、伏し目のまま頑なに見ようとしない。一言でも口を開けば、涙がこぼれ落ちる──まるで泣くのをこらえるための沈黙だ。
「それでは、食事にしよう」
祖父の言葉を合図に、給仕達が豪奢なクリスマスの朝食を運んできた。ホグワーツの大皿とは違う、華やかに盛り付けられた個別の皿が、静かに目の前に並べられていく。
けれど、ふわりと鼻先をくすぐる香ばしいチキンの匂いよりも、母の様子が気にかかった。
いつも穏やかな笑みをたたえ、感情をあらわにしない母が──貴婦人の鑑のような母が、ナフキンを膝に置くこともせず、うつむいている。
昨夜、愛おしげに香水の瓶を抱いていた手が、今はテーブルの上で震えている。白い手には血の気がなく、陶器のようだった。
(あたしの、せい……? あたしがあんなことを言ったから……)
「──そういえば、先日はスリザリンのテーブルで食事をしたそうだな……そう報告を受けている」
いつもなら母に話しかける祖父が、自分の方を向いている。ナーサは反射的に微笑を浮かべた。
「はい、おじいさま。ミスター・ケイレブ・ヤックスリーにお誘いいただいたので……寮生の皆さまにも一通りご挨拶させていただきました」
「今後もそういった機会はあるだろうから、伝えておこう。純血同士、絆は深めるべきだが……カーヴェル・ロウルにはよくよく注意するように」
「ミスター……ロウルですか?」
その名を口にした途端、あの執拗な視線に再びさらされた気がして、全身を怖気が駆け巡った。こわばる口元を無理やり上げて、何とか取り繕った。
「問題は息子ではなく、父親の方だ。
『アビスの剣』総司令官、ソーフィン・ロウル──あれは野心的な男だ。魔法大臣と同格というだけで満足するような慎ましい男ではない。いずれ息子を動かし、我が家を味方につけようと立ち回るだろう。用心しろ」
「承知しました、おじいさま」
「それに魔法法執行部長バーテミウス・クラウチの息子もいるはずだな」
そのファミリーネームで、あの無口な黒髪の少年のことを思い浮かべた。
「ミスター・アシュタロス・クラウチですね」
「クラウチは表向きは法の番人。『ルクスの鎖』の主として秩序を掲げているが、実際は危険な男だ……何せ実の父をその手で葬っている」
「……あの方が、実のお父さまをですか?」
ナイフとフォークが手をすり抜け、ガシャンと無様な音を立てた。「失礼しました」と呟きながら、ナーサの手は震えていた。
祖父は冷ややかな目を向けながらも、話を続けた。
「違う。現魔法法執行部長が、その父親を殺したということだ。
しかし、その血を継いだ息子──アシュタロスも、この先どうなるか分かったものではない。表立って敵対する必要はないが、一線は越えるな。決して心を許さぬように」
「……はい、おじいさま」
ナーサはそっと目を伏せた。
組分けの儀で校長の暴挙に誰もが何もできなかった時、ただ一人誰の目も気にせずに、倒れた少女を救おうとした──その彼に近づいてはならない。
祖父の決定に頷きながらも、テーブルの下で爪が喰い込むほどきつく拳を握り締めた。ロウルへの忠告の時には感じなかった、強い痛みが込み上げてきた。
「その点、ヤックスリー家は信用に値する。お前と同学年のリラルド──彼について、どう思うか?」
急に祖父の声の調子が穏やかになり、ナーサは僅かに肩から力を抜いた。
「……初対面の時には誤解があって怒らせてしまいましたが、その後は驚くほど優しくしてくださいます。飾らない言葉で話す方なので、親しみやすいです」
「そうか。彼もお前との仲を深めたいと望んでいるようだ」
ナーサは思わず熱い吐息を漏らし、ほんのりと頬を染めた。友達になりたいと思っていたのは、自分だけではなかったのだ──そう解釈した。
ただ、それでも胸の奥に刺さった棘は抜けなかった。
祖父はそんな孫娘の様子を見ながら、満足そうに目を細めた。
食事を終えると、クリスマスプレゼントの包みを開ける時間となった。祖父の目配せで、執事が給仕係に合図を送る。ツリーの下の贈り物を銀のトレイに載せ、一つずつナーサの前に差し出してくる。
「おじいさま、頂戴いたします」
ナーサは一礼してから、杖を振り、一つ一つ包装を解いていった。純白のミンクの襟巻きと、同じ毛並みのマフ。家紋が刻印されたエメラルドのブローチ、ヴァイオリン形の飾りがついたオルゴールの宝石箱──どれも吐息が出るほどに美しい。
ミンクの柔らかな頭をうっとりと撫でながら、ナーサの胸によぎったのは不安だった。
(でも……この贈り物をホグワーツに持っていったら? また、白い目で見られるかもしれない。
いけない。こんなこと、考えちゃ……おじいさまは、あたしのことを考えて送ってくださったのに……)
無機質なミンクと目が合った。生なきその目は冷ややかな光を反射する。祖父の視線を彷彿とさせ、ナーサは喉が締めつけられるような気がした。
「……ありがたく使わせていただきます、おじいさま」
続いて、母への贈り物が運ばれてくる。けれど、隣の母は立ち尽くしたままで微動だにせず、口を開くことも拒絶していた。
静寂の中に、給仕係の戸惑いが透けて見えた。
「──ジネヴラ」
祖父の静かな怒りが、呼びかけにこもる。ナーサは息を呑み、一歩進み出た。
「おじいさま。お母さまは少し体調が優れないようなので……あたしが代わりに包みを開かせていただいてよろしいですか?
おじいさまが、お母さまに選ばれたお品ですもの。あたしも、早く見てみたいです」
無邪気さを装ってそう言うと、祖父は微かに口の端を上げた。
「いいだろう。お前が開けてみなさい」
「ありがとうございます、おじいさま。
それでは、お母さま……失礼します」
母の横に立ったその時、鼻を掠めたのは林檎の花ではなく、冷ややかな白百合の香り──ナーサは母の横顔を見た。潤んだ目は何処か遠くに向けられている。
ナーサは杖を取り落とさぬよう、震える指先に力を込めながら、包みを開いていった。そして、物言わぬ母に代わって歓喜の声を上げた。
ただ、自分が何に対して声を上げているのかはまるで分からなかった。長年の暮らしで身につけた反応を、身体が勝手にしているようだった。
それでも──祖父は満足そうだった。
贈り物の披露を終えると、ナーサは一礼して食堂を後にした。昨夜から今朝にかけて何があったのか、母と話し合いたかった。けれど、祖父が鋭く母を呼び止め、それは叶わなかった。
ナーサは廊下を駆け出した。「はしたない」という内なる祖父の声も、今は届かない。母の部屋に辿り着くと、息を整えながらドアに手をかけ、ゆっくりと押し開く。
しっとりと香り立つ匂いは、白百合の香り──主のいない部屋に足を踏み入れるのを躊躇いながらも、ナーサは一歩踏み出した。
室内に乱れはなかった。そのことに少し安堵しながら、化粧台の前に立つ。
きっちりと並べられた化粧台の片隅に、母に贈った林檎の小瓶を認め、ナーサは思わず手に取った。光に透かさなくても、中身がないことが分かる。
「……どうして」
声に出した途端、部屋の静けさが痛いほど戻ってきた。
寒い夜空の下で、ロングボトム先生と林檎の花を咲かせたことを。ケイレブと一緒に香水を作り上げたことを思い出した。一つ、一つ……母を想いながら、心を込めて作ったというのに。
ナーサは小瓶を顔に近づけた。まだ、香りは残っている。
荒い息を抑えるために目を瞑り、胸いっぱいに香りを吸い込んだ。
それから、ナーサは小瓶を胸に抱えたまま、静かに母の部屋を後にした。