久しぶりに出た外は空気が乾き、恐ろしいほど冷え込んでいた。駅の構内に入っても何処かからすり抜けてきた隙間風がむき出しの足を撫でていき、歯がカチカチと音を立てた。
クリスマスに贈られたミンクの襟巻きをキュッと締めつけ、ふかふかのマフの奥まで指を押し込んだ。けれど、涙が滲むほどに寒い。笑おうとした唇が、そのまま凍りつきそうだった。
けれど、前を行く祖父は一度も振り返らない。
寒くはないか。遅れてはいないか。そんな心配をする人ではなかった。
マルフォイ家の令嬢として、いかに品位ある姿に見えるか。ただ、それだけを気にかけているようだった。
すれ違うマグル達は皆、ハッとしたようにナーサを見つめて足を止める。ぶつかりかけても飛び退くように避けていく。服にそんな魔法はかけていないはずなのに。
(やっぱりコートも着てくればよかった……でも、襟巻きとマフだけでもこんなに目立ってる。
おじいさまがくださるものは、いつもそう。とても素敵だけど、華やかすぎて恥ずかしい)
ナーサはマフの内側をそっと握りしめた。
ホグワーツに入学する前までは知らなかったけれど、今はもうそれが『普通ではない』ことを知っている。
九と四分の三番線のプラットホームに辿り着いた時には心底ホッとした。少なくとも車内には暖房が入っているし、隙間風も今ほどではない。
祖父が車内に乗り込もうと足を踏み出した、その時。
「マルフォイ卿。お久しゅうございます」
ケイレブ・ヤックスリーが妹と弟を伴い、颯爽と近づいてきた。もう車内に荷物を置いているのか、三人とも身軽な様子だった。
ナーサはマフから出した片手で、冷たくなった鼻を撫でた。震えを抑えるのもそろそろ限界に近かった。ヤックスリー兄弟との再会が、今だけは嬉しくない。
祖父は軽く頷き、彼に歩み寄った。
「久しいな、ケイレブ。いつも孫娘が世話になっているようで感謝する」
「とんでもない。むしろ私の方が彼女には助けられています。実に心の美しい方なので、話していると自分の心が洗われるようです。
本当に……今日は、また一段と素敵な装いだ。君ほど純白が似合う人はいないね、ナーサ嬢」
ケイレブはナーサに目線を移し、目を細めた。社交辞令なんかじゃないとその目は訴えているようで、ナーサは思わず口元から白い歯をこぼした。
ミケイラはチラリと兄に目をやり、優雅な笑みを浮かべながら令嬢らしい慎ましやかな礼を取る。
「お久しぶりでございます、マルフォイ閣下」
「ミケイラ。しばらく見ぬ間に随分と美しくなった。宴ではさぞや多くの男の心を苛んでいることだろう」
「ふふ、ナーサ嬢がいらっしゃるまでの束の間の輝きですわ」
持ち上げるように言いながらも、ナーサに微笑みかけたその瞳は冷ややかだった。
あまりの美しさに手を伸ばさずにはいられない。けれど、指先が触れた瞬間に棘が刺さりそうな、薔薇のような人。
笑顔の下に潜む敵意を、ナーサは直感で感じ取っていた。
「孫娘には頼れる女性の支えが必要だ。君がその役目を担ってくれることを切に願う。
──そして、リラルド」
そう口にした途端、祖父の目が明らかに変わった。
ナーサはその目に見覚えがあると思った。愛しさの滲み出た、柔らかな目──母が自分を見る時と同じ、温かさ。
ナーサは心臓に一本一本針を打たれるような痛みを覚えた。祖父がそんな風に自分を見たことがあっただろうか?
彼は何処か誇らしげな笑みを浮かべ、口を開いた。
「お久しぶりでございます、マルフォイ卿。このような場でお目にかかれて光栄です」
彼の言葉は完璧な標準英語だった。普段の荒っぽい言動も、スコティッシュ・アクセントの影も微塵もない。純血の名家ヤックスリー家に連なる者に相応しい振る舞いだった。
けれど、ナーサはそれに感銘を受けることはなかった。あれほど近づいたリラルド・ヤックスリーとの距離が、果てしなく広がったように思えた。
そして今、彼の隣には自分ではなく、祖父がいる。
ナーサは微笑みを浮かべながら、口元が引き攣るように動くのを感じた。
祖父と彼、どちらに嫉妬しているのか分からなかった。
「スネイプ教授から、よく聞いている。【闇の魔術と防衛術】で、君に並ぶ者はいないとか。実に素晴らしい才能だ。お父上も誇りに思っているだろう」
「恐れ入ります。
ただ、どの教科でも目覚ましい能力を発揮するマルフォイ嬢には遠く及びません」
晴れた空のような青い目が、ナーサを捉えた。その瞬間、胸の痛みが遠のき、春風が吹いたように思えた。絞め付けられていた喉に、静かに息が通う。
ナーサの肩に手を置いた祖父の目元のシワが一段と深まった。
「ああ、この子は我が家の誇りだ。そして、その横には同じく誇れる友がいることを願っている」
肩を包む温もりが少しずつ胸に流れていく。ナーサは祖父を見上げた。クリスマス休暇中に感じていた祖父への小さな違和感が、雪のように静かに溶けていくようだった。
シューッという蒸気音に、懐中時計を開いたケイレブが視線を上げた。
「お名残惜しいですが、マルフォイ卿。そろそろお時間です」
「ふむ……ケイレブ、ミケイラ、リラルド……孫娘を頼んだぞ。ナーサ、身体に気をつけて、一層勉学に励むように」
「行ってまいります、おじいさま」
肩に置かれた手が、ほんの一瞬撫でるようにして離れた。ナーサはもう一言何か言われるのではと期待して、汽車に乗る寸前に振り返った。
「おい。ぼーっとしてたら乗り遅れちまうぞ」
ヤックスリーがすれ違いざまに耳元で囁き、マフを外そうとしたナーサの眼前から、トランクをすくい上げる。いつも通りのアクセントに少し安堵する。
彼に続いて汽車に飛び乗ると、カン、カンとベルの音が高く鳴り響いた。プラットフォームを駆ける駅員が車両一つ一つのドアを閉めていく。ガチャン──重たい重たい金属音が連なり、外の世界が一つずつ閉め出されていく。
甲高い汽笛が鳴り響いた。それはホグワーツへの見えない境界が開かれる合図のようだった。
ギィと鈍い音を立てながらホグワーツ特急が動き始めた。足元がふわりと浮くような不安定さに壁に手をつく。窓から祖父に手を振るも、その姿はすぐに後ろへと流されていく。物悲しさと安堵が入り混じった複雑な感情が、静かに込み上げてくる。
「私は監督生車両に向かう。リラルド、彼女をコンパートメントまでお連れしろ」
振り返ると、妹の背を支えるように立つケイレブと目が合った。彼は特上の笑みを浮かべ、軽く手を挙げた。
「それじゃ、ナーサ。また後で」
妹を連れて先頭車両へと向かうケイレブとは逆方向に、ヤックスリーはスタスタと歩いていく。
「ねえ、トランク。自分で持つよ」
「いい。黙ってマフに手、突っ込んどけよ」
素っ気なく返したヤックスリーだったが、その声には微かな震えがあった。
ナーサは「でも」と言いかけた言葉を呑み込んで、そっとマフに手を戻す。列車の灯が反射して、彼の耳がほんのりと赤く染まっているのが見えた。
彼の背中を追って通路を行くと、同学年のグリフィンドールの男子達とすれ違った。彼らの目にはありありと好奇心がチラついている。
「すっげぇ。マルフォイのお姫さま、アイツにトランク持たせてるぜ」
「なっかよし〜。あの狂犬を、番犬にできるなんてな」
「マルフォイ、趣味悪ぃな。兄貴の方にしときゃいいのに」
背後の笑い声に、足が一瞬止まりかけた。
けれど、ヤックスリーは何も聞こえないかのように前を歩いていた。背筋を伸ばし、堂々とした歩調には乱れ一つない。
彼のそんな姿を見て、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
「……さっき、すげぇ寒かったんだろ。まだ、寒いか? 大丈夫か?」
振り返らず、ボソリと呟いたその一言に、ナーサは笑いをこぼした。祖父と話している時にも、気にかけてくれていた──それだけで、たまらなく嬉しい。
すぐ後ろまで駆けていくと、彼は嬉しそうに笑った。
「大丈夫だよ、ありがとう。あなたの方こそ、その手袋、ずっとつけてるじゃない」
ヤックスリーは立ち止まり、「これか?」と見せびらかすように手をひらひらさせた。
使い込まれたように見える黒い革手袋だ。微かに艶があり、ベルトについた銀色のバックルにも、細かな傷がついている。
「気に入ってんだよな、これ。兄貴に笑われるくらいボロいけど、すげぇ手に馴染んでさ……そろそろサイズ合わなくなってきたんだけど、どうしても手放せねぇんだ」
そう言って、片方の手を軽く握りしめる。キュッと革が鳴って、満足そうに笑う。どうしようもなく彼らしく思えた。
四人がけのコンパートメントに入ると、ヤックスリーはトランクを隅に固定した。もう一つ置かれたトランクは彼の物だろうか。
「ドア、閉めろよ」
どっかと腰を下ろすと、ヤックスリーは座席を叩いて座るよう促した。真向かいと隣、どちらに座るかを決めかねて、結局は斜め向かいの席を選んだ。
彼は一瞬不服そうに顔をしかめたが、次の瞬間、身を乗り出した。
「Ye awright, aye?」
スコットランド英語での『おい、元気か?』という挨拶──ナーサは微笑みかけ、それから唇を震わせた。懐かしいと思っていた、遠い記憶。その音の正体が急に思い出されて、ナーサは慌てて窓の外を向いた。目を瞑って、大きく深呼吸する。
「ごめん……今は、その言葉を聞きたくない」
「その言葉? スコットランド英語のことか?」
急に語尾が鋭くなる。けれど、ナーサは止められなかった。
「……さっき、おじいさまと話してたみたいに話せるんでしょ? だったら」
「ふざけんなッ!
何だよ、今になってそんな……お前が懐かしいって言ったんじゃねぇか! それを──」
ナーサは自分の膝に両肘をついて、うつむいた。すると、ヤックスリーは言葉を切った。
「……何があった?」
「あたし、どうしてスコットランド英語が聞き取れるのか、分かったの。子どもの頃……パパがまだ生きてた頃に、スコットランドにいたんだって……マグルの村で、暮らしてたって」
「マグル……?」
ヤックスリーの声が、急にワントーン落ちた。ほんの一瞬、間が空いた。
窓の外から汽笛の音が響いた。途端にヤックスリーは目を見開く。
「……悪い。驚いただけだ」
「驚くよね? だから、あの言葉は……きっと、その人達から覚えたんだよ。だから、もう聞きたくない。話したくない。思い出したくないの……」
ナーサは突っ伏すようにしながら頭を抱えた。
マルフォイ家の跡取りだった父が、スコットランド英語だったはずがない。そして、母もずっと標準英語を話していた。考えられるのは、たった一つの可能性。
霧の向こうに押しやられた、父のいた頃の幸せな記憶が、悪夢に変わったようだった。
何故、両親はそんな暮らしをしていたのだろう。どうして自分は祖父の屋敷で生を受けなかったのだろう。
その答えは知らないし、誰も教えてくれない──。
ヤックスリーはしばらくの間、黙り込んでいた。車輪の軋む音が、慰めるように耳を打つ。
やがて、彼は短い吐息を漏らした。
「……マグル、か。俺もどんな奴らかは知らねぇけど。少なくとも、俺はお前とスコットランド英語で話せて楽しかったけどな」
「……楽しい?」
ナーサはおそるおそる顔を上げた。ヤックスリーの顔に蔑みの色はない。彼は探るように、ゆっくりと話し出した。
「ああ。言葉を理解されないってのは結構キツいんだ。標準英語でも伝えられるけど、完全じゃねぇ。俺の心をそのまま伝えられるのは、スコットランド英語だけなんだよな。
だから……あの図書館で、お前が俺の言葉を理解してくれたのが嬉しかった。何処で覚えたかなんて関係ねぇんだ」
ナーサはその言葉を噛み締めるように押し黙った。馬鹿にされるか、取ってつけたような慰めの言葉を向けられると思った。
それなのに──。
「こうやってあなたと話すために、あの場所にいた……そう考えたらいいのかな」
「ああ。それにお前、血筋がいいんだから、んな小せぇことで悩むなよ。生まれは変えられねぇ。だけど、それはどんな呪いよりも強ぇんだ。
お前がそんな顔してたら、同じ血を誇りにしてる連中が悲しむぜ。なっ?」
押し込められていた暗い洞窟に、一条の光が差し込んだようだった。
そう、血に誇りを持つことは何よりも大切なことだ。祖父も、そう教えてくれた。けれど、今、彼の声で聞くそれは、強さよりも優しさを感じさせた。
ヤックスリーが身を乗り出し、ナーサの頬にそっと手を伸ばす。
その指先が、軽く触れた。革手袋の冷たい感触を意識して、ナーサは息を呑んだ。
将来を約束したわけでもない男女が触れ合うのは、マナー違反──脳裏を不安が掠めた。
けれど、彼の顔にもこわばりが見えた。分かっているのだ。この行為がどれだけ無作法なのか。
それでも彼は離そうとしない。革の奥から心地よい温もりが伝ってくるようで、ナーサも払いのけることができなかった。
「Ye look bonnier when ye smile, aye?」
『お前はきっと笑顔の方がいい』──ゆっくりと言い聞かせるように、一語一語を区切って言う。温かい響きの言葉に、ナーサの胸が激しく揺すぶられた。記憶の奥底に眠っていた大きな塊が、光の中へと引き上げられるような感覚。
汽車の走行音が遠のき、ナーサの世界から音が消えた。
(今の、何……)
その時、ツッと、頬を温かいものが伝った。
ヤックスリーがあり得ないものを見たというように口を開けた。
はらはらと伝う温みに視線を落とすと、膝には小さな染みが生じていた。泣いているつもりはなかったのに、涙が後から湧いてくる。
間違いなく口元は笑っていると感じるのに、不思議な感覚だった。ナーサはポケットからハンカチを出して、そっと目元を押さえた。
「どうしてかな……涙が、止まらない。
すごく嬉しかった。今の言葉……ありがとう。あたし、やっぱり……あなたの言葉が好き」
その直後、早口で一気に吐き出された言葉は、いくつかの音が溶け合って聞き取れなかった。それでも『やめろ(stop)』と『照れる(blush)』という響きだけは、はっきりと耳に残った。
まるで歌うように感情を乗せた音が、続けざまにいくつもナーサの耳を撫でていく。
懐かしくも、優しい音。けれど、いくつかの言葉は意味を掴めないまま、風のように耳を掠めていった。『fair chuffed』──とても大切な言葉だった気がしたのに。
その続きの言葉も、ナーサはほとんど聞き取れなかった。けれど、それでも伝わった。言葉を理解する前に、彼の喜びと嬉しさが心に染み渡るような感覚。
その音で、ナーサの心にはもうマグルの中で育った引け目はなくなっていた。彼と心が通じ合えた。それで十分だと思った。
胸がじんわりと熱い。ヤックスリーも紅潮した顔に満ち足りた笑みを浮かべ、しばらくの間、互いの顔を見つめ合っていた。
汽笛の音が、また遠くで鳴り響いた。そして。
「……お母さまに手作り香水を贈るって言ったの、覚えてる?」
あのクリスマス休暇中の痛みを、初めて言葉にできる気がした。そして、彼になら、きっと受け止めてもらえる。そう思えた。
「おう。喜んでもらえたのか?」
「喜んでもらえたよ。でも……色々とあって、持ち帰ってきたの」
「そっか」
ヤックスリーの表情には理解が広がっていた。手作り香水の話をした時に、彼にはこうなることも分かっていたのかもしれないと思った。
ヤックスリーは少し考え込むように眉を寄せた。
「……俺、ちょっと嗅いでみたかったんだよな。お前が作った香水」
「瓶はあるよ。もうほとんど匂いは残ってないと思うけど……嗅いでみる?」
ナーサはトランクの中から林檎型の小瓶を取り出し、ヤックスリーに手渡した。
彼は窓から差し込む陽に瓶を透かすようにし、それから鼻先に持っていった。何度か深呼吸を繰り返し、やがて吐息を漏らした。
「へぇ、よくできてるじゃん」
「……うん。あたしもうまくできたと思ってた」
失われた香水を思い、ナーサの声が低くなった。
ヤックスリーは丸みがかった瓶を撫でながら、じっとナーサを見た。
「なあ。これ、俺がもらったら駄目か?」
「──え?」
「この香り、好きなんだよな」
「林檎の花だよ? あなたには合わないでしょ、そんな可愛い香り。瓶だって……」
「つけるわけじゃねぇし。ただ、側に置きてぇと思った……駄目か?」
母のために、一から創った香水──けれど、それは母を傷つけただけだった。
物語のように遠い記憶の片隅から香る、林檎の花。それは、あどけない笑顔を浮かべていた母の、そして──それを見つめていた父の香りでもあった。
(……でも、棄てられた香りを、この人は好きだって言ってくれた)
ナーサは微かな胸の痛みに抗いながら、微笑みを浮かべた。
「大切にしてくれるなら……いいよ」
「ああ、大切にする──ありがとな」
両手で瓶を包み込むようにしながら、ヤックスリーは笑った。林檎の瓶を愛おしげに眺める彼の姿に、ナーサはこれでよかったんだと言い聞かせた。