数週間ぶりの再会で賑わう談話室の片隅で、ナーサはクリスマス休暇前に図書室から借りた本を読み耽っていた。魔法史の授業ではまだ習っていない近代史の図書だ。
ヤックスリーが熱を込めて語っていた、闇の帝王の台頭でこの世界がどう変わったのか。『アビスの剣』や『ルクスの鎖』など、知らない言葉が山積みだった。
また、あの話題になった時に、もっと理解した上で話したい。彼が見ている世界を、自分の目でも確かめたい。
そう思えたのは、きっと彼をもっと深く知りたいと思ったからだ。
そして、その想いは今日のホグワーツ特急で一気に確信に変わった。
マグルの中で暮らしてきたという自分の『欠陥』を、彼は自然と抱いてくれた。棄てられた、あの林檎の小瓶を欲してくれた──あの瞬間、リラルド・ヤックスリーは、ナーサの心の大部分を占める人になったのだった。
端の黄ばんだページをめくると、甘い香りが鼻先を掠める。古い蔵書特有のインクの香りが、未知なる知識へと誘っているかのようだ。
胸を高鳴らせながら、続きのページを進めていくうちに、ふと眉をひそめる。肝心の時代に差し掛かった途端、黒塗りの箇所が目についた。人名も、出来事の細部も、後から意図的に塗りつぶしたように見える。
ナーサは重い本を抱え、暖炉の前に移動した。煌々と燃える炎にページを透かすと、『Dum……』から始まる文字が薄く浮かび上がった。
(どうして、こんなに隠されている箇所が多いの? それに、何重にもインクが重ね塗りされてる)
そっと指先でなぞると、黒い汚れが細く、滲むように伸びる。
(何か、都合の悪いことが書かれている──でも、誰にとって都合が悪いの?)
そう思った途端、ナーサは額に冷たいものを感じた。口元を手のひらで覆い隠し、荒い呼気を必死に整える。
微かに汚れた指先が、まるで罪人の証のようで禁忌に触れた気がした。
けれど、目を逸らすことができない。
(黒塗りをどうにか取れないかな……初版を探せば、消されていないものが見つかる?
……でも、ホグワーツ以外にこんな本を置いてるところはある?)
一瞬祖父の書斎が脳裏をよぎったが、慌てて首を振った。用もないのに立ち入ることは固く禁じられている。
(もしかしたら、高学年で習う上級魔法の中に、使えるものがあるかも)
その時、背後で笑い声が巻き起こった──咄嗟に本を閉じると、ナーサはおそるおそる振り返った。
少し離れたソファに、グレイスとメイジーが掛けているのが見えた。その傍らには、ホグワーツ特急ですれ違った同学年の男子達がいる。心臓が微かに跳ね上がった気がした。
「すっげえと思わないか? 七年生まで従えられるなんてさ」
「しかも、あの『ケイレブ様』を、だぜ? エスコートまでさせて、もう婚約まで秒読みって感じだよな」
ざわつく室内なのに、耳が勝手に彼らの会話だけを聞き取ろうとする。ナーサはごく自然に暖炉の側のソファに腰を下ろした。うたた寝を装って、そっと目を閉じる。
「あの人、ナーサのことがお気に入りなの。でも、いいじゃない。二人とも絵になるんだもん」
「そうそう。スリザリンだけど、ミスター・ヤックスリーはいい人だもんね!」
「僻まない、僻まない。あの子ほどじゃないけど、可愛い子は他にもいるんだから」
グレイスとメイジーは何も気にする様子もなく庇ってくれている。ホッと安堵の吐息を漏らす前に、尖った声が続いた。
「でもさ、マルフォイのヤツ、あの弟にもトランク持たせてたぜ」
「そうそう。コンパートメントもずっと一緒で、めっちゃ仲よかったし」
「あの兄弟どっちともできてるんじゃね? やっば!」
「ちょっと、なんてこと言うの! 最低だね、あんた達……!」
「でも……私も見たかも。ナーサが、リラルド・ヤックスリーと一緒にいるところ……二人っきりで、笑い合ってた」
「ウソ──そんなはず」
それ以上は耐えられず、本を鞄にしまうと、立ち上がった。
顔を寄せ合っていた彼らが、一斉にこちらを見た。メイジーは気まずそうに目を逸らし、グレイスは作り笑いを浮かべた。そして、男子達は目配せをする。その目にはルームメイトの二人とは違って、ほんの僅かの罪悪感と、悪意の混じるからかいの色を含んでいる。
「……そこにいたの、ナーサ」
取り繕うようなグレイスの声に、ナーサはいつも通りの微笑みを作った。
「うっかり図書館に本を返し忘れてた。じゃあね、皆」
そう言い、談話室を後にした。
けれど、肖像画の裏の暗いトンネルに辿り着くと、ナーサの笑顔は溶けるように消えた。
(皆、何も知らないくせに……。
ケイレブはお兄さまみたいに優しくしてくれてるだけ。
それに、ヤックスリーは見た目や口調で誤解されるけど、あんなに優しい人なのに)
うなだれた影が、トンネルの奥から近づいてくる。物思いに耽っていたナーサは気づかず、肩がぶつかった。ぐらりと身体が揺れたが、相手は尻もちをついていた。
「ごめんなさい、ぼうっとしてて……」
慌てて杖明かりを灯すと、暗闇に浮かび上がったのはリンジー・マクドゥガルだった。今の今まで泣いていたかのような赤い目元と鼻。
ナーサを認めた瞬間、彼女は挑発的な笑みを浮かべた。
「……また、あいつとデートでもするわけ?」
その言い方は、なんとか傷つけたいと思っているかのようだったが、涙の影に染まった顔では全く効果がなかった。
ナーサは少し躊躇いながら、リンジーに手を差し出した。
「ミスター・ヤックスリーとは、そんな関係じゃありません……ホグワーツでのお兄さまのような人です。それに、彼はあなたのことを心から」
「やめてよ! あいつは私を支配したいだけなんだから……!」
リンジーはすぐに自分の手で立ち上がったが、不意にナーサの手を自らのもので挟み込んだ。願いを託すような切実な目で、ナーサを見つめる。
「あんた、帰省の車内で私とデニスを見たでしょ? あいつと一緒に……」
ナーサは言われて思い出した。彼女の髪を愛おしげに結い上げていた、銅色の髪の少年──彼が『デニス』なのだろうか?
「彼、クリスマス休暇中に大怪我をしたの。事故じゃない……誰かに襲われたんだよ」
「まさか、ケイレブがそんなこと」
「あいつが直接手を下すはずない。私には分かるの──あの時、あいつの前で見せつけてやったから」
思い出したのか、リンジーの目がまた潤み始めた。あの大広間で皆を巻き込んだ勇ましい少女とは真逆の弱々しさだ。
ナーサはハンカチを取り出して、彼女に手渡した。
「あたしは……ケイレブがそんなことをするなんて、信じたくありません。
でも……誰かが、あなたの大事な人にひどいことをしたなら、それだけはどんな理由があっても許されないと思います」
リンジーはハンカチを握りしめ、ナーサを見つめた。それから、赤く染まった顔を僅かに綻ばせた。その笑顔は見ているだけで痛々しく、泣きたくなるほどに哀しみの色に染まっていた。
「……なんだ。あんた、マルフォイなのに、マトモなんだね。ごめんね、前にひどいことを言った。
ハンカチ、ありがとう──完全に信じられなくてもいい。けど、ケイレブ・ヤックスリーを少しだけ疑ってみて。
あんた、いい子みたいだから、私みたいな目に遭わせたくないの」
ナーサはそう言われた瞬間、ケイレブの柔和な笑みを思い浮かべた。
ホグワーツに入学して以来、ずっと支えてくれている兄のような人。優しく、高潔で、威厳にあふれ、いつかこの人のようになれたらと願わずにはいられない人──。
「……ミスター・デニスをお大事になさってください」
リンジーにそう声をかけると、ナーサは寮の外に出た。リンジーの泣き顔と離れても、誰かの手に心臓を鷲掴みにされているような息苦しさが消えない。
(もし、今、ケイレブに会ったらどうしよう……どんな顔をしたらいいの? そんな偶然、起きるはずがないのに)
もう夜間の自由時間が終わりに近づいている。けれど、耳を澄ませば、乾いた靴音が響いている。
階段を降りていく金髪の後ろ姿を見て、ナーサはドキリとした。まるでナーサの動揺を見透かしたかのようだ。
「ケイレブッ」
人違いを願っていたのに、振り返ったのは紛れもなく彼だった。ナーサを見上げ、頬を緩めた。
「やあ、ナーサ」
長時間立っていたかのように足が震え出した。手すりを押さえながらも、自然と階段を駆け下りていった。
「……見回りですか? こんなところで会うなんて」
「ああ。ひょっとしたら君に会えるかもしれないと思って、グリフィンドール塔の近くまで来てしまった。
今日は長旅で疲れたろう。あと少しで寮に戻る時間だが、どうしたんだい?」
「……あ、の。図書館に行こうと思って。本を延長したかったから」
上擦る声が不自然に響かなかっただろうか。喉が鳴る音が、自分の耳にやけに大きく響いた。
「初日から図書館に通うなんて勉強熱心な君らしい。ただ、今から図書館に向かったら門限を過ぎてしまうよ」
いつもと何も変わらない穏やかな話し方だった。ナーサは小さく息を呑んだ。舌を縛られたように、言葉が出てこない。
ケイレブは背を屈めて、顔を覗き込んできた。
「今日は沈んでいるように見える。何かあったのかい、ナーサ。もしかして、車内でまたリラルドが君を悲しませるようなことでも言ったかな?」
「いいえ、そんなことは……実は、ついさっき、ミス・マクドゥガルと会って」
ナーサは何一つ見逃すまいと、じっと彼の顔を見つめた。燭台の灯に照らし出されたケイレブは、不安げに眉根を寄せた。
「──リンジーに……何があったんだ?」
そして、声が微かに震えている。彼の変化が動揺なのか、作られたものなのかの判別がつかない。ナーサは唾を呑み込んだ。
「親しいご友人が、誰かに襲われたそうなんです……とても取り乱している様子で、お気の毒で」
「そんなことが……彼女は大丈夫だったのか? 怪我は?」
「いえ。彼女は無事です」
「そうか」と吐息を漏らしたケイレブからは、微かな綻びも感じ取れなかった。愛する人が無事だったことに安堵しているようにしか見えない。
けれど、泣いているリンジーと顔を合わせた直後に、ケイレブに会う。それは偶然にしてはできすぎているような気がした。
『あなたがやったんですか?』──その言葉が喉まで込み上げた。けれど、彼の柔らかな笑みを見ていると、声は見る間に形を失った。
それを口にした途端、ケイレブとの関係が終わりを告げる気がしたからだ。