翌日の放課後、ナーサは黒塗りの歴史書の延長手続きと、上級魔法の文献を探すために図書館へ向かった。
書架の隙間を縫うように歩きながら、昨夜の会話が幾度も脳裏をよぎる。
あの時、ケイレブの声は震えていた。けれど、それが演技なのか、本心なのか──答えは出せないままだった。
ぐるぐると巡る思考を逸らすために、上級魔法の分厚い本を探し当てた。ページをめくると、古いインクの匂いがふわりと立ちのぼる。
長い時間をかけて、ナーサは本の隅々まで読み尽くした。
汎用的な反対呪文フィニート・インカンターテム、秘密を暴く呪文レベリオ、現れ呪文アパレシウム──黒塗りの部分を解き明かすのに使えそうな呪文はいくつか見つかった。
杖を取り出し、ナーサは先端をじっと見つめた。
書籍が黒く塗りつぶされているということは、意図的に隠された知識ということだ。魔法をかければ、呪いが発動するかもしれない。もしくは、魔法省に知らせがいく──そして、それは祖父にまで。
胸がひやりと冷たくなり、杖を取り落としてしまう。代わりに懐中時計のネックレスを握りしめる。冷たい金属の感触が、少し頭を冷やしてくれた。
(……知りたい。でも、行動に移す前にしっかり考えなきゃ。
あたし一人の失敗じゃすまないかもしれない。おじいさまや、お母さまにも迷惑をかけてしまうかもしれないもの)
その時、書架の陰から黒髪の少年が姿を見せた──アシュタロス・クラウチ。息遣いさえ感じさせない静かな面。
彼も足を止め、琥珀色の目がナーサを捉える。視界の端で、黒いローブが風を忘れたように凪いだ。
目と目が合った瞬間、時の歩みが一段と緩やかになった気がした。
どうしてかは分からない。遠い昔に出会った友達のように懐かしさと、言葉にできない切なさが同時に込み上げてくる。
(話してみたい……何処かで会ったことがあるか。どうしてこんなに懐かしく思うのか、理由が知りたい。
でも、駄目。おじいさまが彼には近づくなと言った)
ナーサは意志の力を総動員して席を立った。失礼にならないように会釈をしてから、本を抱きかかえて移動する。視線が背中に刺さっている気がして、振り返ることはできなかった。
胸の奥が絞られて、鮮血が滲むような痛みが走った。手が冷たく、こわばる。目の奥が熱くなり、ナーサは小走りになった。
どうしてここまで苦しいのか、自分でも分からなかった。
「マルフォイ」
不意に声をかけられ、身体が跳ねる。書架の間にいたヤックスリーが本を片手に、大股で近づいてきた。
「また、来てたのかよ。ヤァル セリィス、ヤケン?」
ほんと真面目だな──優しい響きに、水底に押し込められていたような息苦しさがふっと遠のいた。目尻を拭って、ナーサは微笑んだ。
「調べ物をしてたの。そっちこそ……ヤー、ル セリス、ヤケンッ?」
一瞬きょとんとしたヤックスリーが吹き出した。うずくまって肩を震わせた後で、口いっぱいに笑みを広げた。
「お前、下手すぎ……! 取ってつけたような『ヤケン』だな」
ヤックスリーの声には、ほんのりと甘さが混じっている。からかっているというよりも、まるで拙い響きが可愛くてたまらないと言われているようだった。
ナーサの頬がじわっと熱くなった。
「お前、もう帰んのか? 折角だし、また学習室寄ってくか?」
「うん、そうしようかな」
ケイレブとリンジーの真実も、黒塗りの歴史も、クラウチへの懐かしさの正体も……すぐには答えが出そうになかった。
だからこそ、彼の誘いが、ただ嬉しかった。僅かに言葉を交わしただけなのに、胸の奥を覆っていた雲が、嘘のように晴れ渡っていく。
学習室へと向かいながら、ナーサは横目でヤックスリーを見た。今日はいつになく穏やかに見える。
ナーサはふと、ヤックスリーが自分の兄とリンジーが、今のようになったきっかけを知っているかが気になった。
もちろん、昨日の一件を問いただすつもりはない。二人は仲のいい兄弟なのだから、兄を疑われればいい気持ちはしないだろう。
けれど、過去に何があったのか、糸口だけでも掴めればと思った。
「ねぇ、ヤックスリー。
あのね……昔、ケイレブとリンジーの間に何があったか、聞いたことある?」
彼は急に歩みを止めた。振り返ると、表情がこわばり、眉間のシワがヒクヒクと動いていた。
失敗した。ケイレブを疑っているように聞こえてしまっただろうか。ナーサは軽く息を呑んだ。
ヤックスリーは怒りを抑えるように足元に視線を落とした。
「……なんで俺に訊くんだよ。兄貴に直接訊きゃいいだろ。お前ら、仲いいじゃん」
「そう、だよね。ごめん」
嫌な気持ちにさせてしまったことが申し訳なくて、ナーサの声は小さくなった。
ハァ、と小さな溜息を吐いたヤックスリーはまた歩き出した。そして、気乗りしないが、言わなければならないといった風にボソリと呟いた。
「……俺らが入学する前のことだからな。
あいつ……リンジー・マクドゥガルの初めての『宴』の時に──『宴』って知ってるか?」
(ケイレブが前に言ってた、舞踏会みたいなもの……だよね? ご馳走を食べながら、生徒同士の親睦を深めるような……)
以前、ケイレブが言っていたことを思い出して、ナーサは頷いた。
「うん。何かは教えてもらったよ」
ヤックスリーは少しホッとしたように見えた。
学習室の中に入ると、一番奥の椅子を静かに引いて、ナーサの方に向けた。
「座れよ」の短い言葉は、ついさっきまで怒っていたのが嘘のように優しかった。
「……そこで一緒に踊ったって、ミケイラが言ってたな。
四学年も下だけど、兄貴は相当入れ込んでたらしい。それに、あいつも満更じゃなかったらしいけどな」
きらびやかなホールの下で優雅なダンスを踊るケイレブとリンジー。まるで自分の目で見てきたかのように、鮮やかに脳裏に浮かんだ。
息を呑むほどにきれいで、笑い合っている二人の姿──誰もが羨むような幸福の一場面だったに違いない。
「そうなんだ。ケイレブは……今でもリンジーが好きだよね?」
きっと、ケイレブなら好きな人を悲しませるような真似はしない。そんなこと、できるはずがない。
震える声で、ナーサは言った。自分の直感が正しいと、彼に一番近い弟に肯定してほしくて、祈るような言葉を続けた。
「……好きなら、きっとあの人を傷つけることはしないよね?」
ヤックスリーはスッと目を逸らした。窓には雪の華が張り付き、外の景色を閉ざしている。
西陽を受けて、彼は目を細めた。髪も眉も睫毛も、夕映えに溶けて消え入りそうな光を宿していた。ソバカスまで淡く染まり、彼はまるで見知らぬ少年のように見えた。
ふぅ、と長い溜息を吐いた後、ヤックスリーは目を瞑った。
「あのな。兄貴とそんな話したことねぇよ。好きとか、何とか……あいつがそんな甘い奴に見えんのか?
もう、いいだろ、この話。
本当のところは、本人にしか分かんねぇよ。好きに見せかけることも、嫌ってるように見せることも、やろうと思えばできるんだからな」
その言葉は胸の奥を抉るように鋭く、ナーサは一瞬返す言葉を失った。まるで、誤解が解ける前の──あの頃の彼に戻ってしまったようだった。
「……そう。何度もごめんね」
やはり尋ねなければよかったのだろうか。気分がいい質問ではなかったはずだ。
それでも、二人の始まりが、確かに光に満ちていたことだけは理解できた。どうして、それが放り出された糸玉のように絡まってしまったのか。
気まずい沈黙に耐えられず、ナーサは黒塗りのある歴史書を開いた。ただ読んでいる風を装って、眺めているうちに『名簿』という単語が目に飛び込んできた。
黒塗りの箇所。そこにも、消された名前がある。
その瞬間、ナーサの脳裏に黒く塗りつぶされた顔が浮かんできた。
(……パパの顔も、知らないままなんだ)
胸の奥がきゅっと痛んだ。
ケイレブとリンジーの過去を探ろうとしてうまくいかなかったのに、今度は自分の過去を求めてしまっている。
微かな靴音が学習室の前で止まった。ヤックスリーは椅子から腰を浮かせ、出入り口に目を光らせた。
その視線にナーサは気づいていなかった。
「ねぇ、ヤックスリー」
「今度は何だよ」
苛立ったような声音に一瞬躊躇いながらも、ナーサは勇気を振り絞って口を開いた。
「あなたの家には、家族写真とかある?」
「そりゃ、それなりにはあるけどな……で、何が言いたい?」
「あたし、お父さまの顔を知らないの。家族写真も残ってなくて……おじいさまも、お母さまも、思い出したら悲しいからって何も教えてくれない。
きっと写真も何処かにしまいこんでると思うの。
もし……大切な写真を隠すとしたら、どんなところだと思う?」
「顔を知りたいだけなら、卒業記念年報を見りゃ──」
ヤックスリーは急に言葉を切る。ナーサは目を見開いた。
「卒業記念年報って?」
ヤックスリーの顔に、禁句を口にしたような微かな怯えが滲んだ。
一瞬の沈黙が落ちた。けれど、その単語に気を取られたナーサは、彼の変化に気づかなかった。
ナーサの目の輝きに、彼は観念したように呟いた。
「……卒業年ごとにまとめられた年報だよ。集合写真や、功績者の写真が載ってる……けど、お前の父親、卒業してねぇんだろ? だから、載ってねぇよ。きっと」
「でも、載ってるかもしれない。あたし、探してみる! ありがとう、ヤックスリー」
ナーサは胸の高鳴りのままに、学習室を出ようとした。
すると、ヤックスリーが出入り口に立ちふさがるようにした。青ざめた顔で、一言漏らす。
「……待て。俺も行く」
「いいの?」
「場所、分かんねぇだろ。俺、母上の年報を探したことがあるから知ってるんだ。案内してやるよ」
「ありがとうっ。あなたに相談してよかった」
ヤックスリーに連れられて向かった先は地下の書庫だった。階段を下るたび、闇が濃くなっていく。自分ひとりなら決して足を踏み入れようとは思えない、息の詰まるような狭い部屋。
「父親の誕生年月、分かるか?」
「……分からない。でも、お母さまは闇の帝王がブリテンを統一された年に生まれたって聞いたことがある。お父さまは、お母さまよりも年上なはずだから……きっと一九八〇年以前の生まれだと思う」
「じゃあ……これから見てみるか」
ヤックスリーは棚の上段に目をやった。
書庫の空気は、ひどく冷たい。陽が差さない上に換気ができず、ストーブも使えないからだ。
吐息が白く曇り、指先がかじかむ。コートの前ホックをすべて留めても身震いするほどに寒い。
両手に息を吹きかけて擦っていると、ヤックスリーが振り返った。
「寒いのか?」
「……うん。少しだけ」
そう言うと、彼は黒革の手袋を片方ずつ外した。少し艶があり、彼の手の形に馴染んでいる。
見覚えがあるように感じたのも当然だった。クリスマス休暇明けの車内で、彼が身につけていたお気に入りのものだ。
ヤックスリーはほんの一瞬躊躇うように見た後で、ナーサに差し出す。
「ほら。これ、使えよ」
「えっ……でも、それ」
「もうサイズ合わなくなってたって言ったろ。だから、お前にやる。落とすなよ」
そう言うと、もう次の棚を探り始めた。
ナーサは躊躇いながらも、そっと手を入れてみた。フリースの柔らかい生地には、ヤックスリーの熱がこもっている。ナーサの手には大きかったけれど、まるで彼の手に包まれているような気がした。
「ありがとう。大切にするね」
「ああ」
ナーサには届かない上段の年報を手に取ったヤックスリーは表紙を確かめる。ナーサも一緒になって覗き込んだ。
黒い革表紙の中央には四寮の獅子・穴熊・鷲・蛇が金糸で刺繍されていた。
その下には金色の文字で『ホグワーツ魔法魔術学校 卒業記念年報 1979–1980年度』と刻まれていた。
その時、ナーサは微かな違和感に気がついた。
(あたしが生まれたのは、一九九六年。
もし、この年度なら、パパが十六歳で……ママは、十五歳……?)
喉元までこみ上げた小さな悲鳴を、唇を噛んで飲み込んだ。計算間違いをしたのかと、何度か頭の中で考えてみる。けれど、結果は変わらない。年報の文字も動かない。
母が若いことは知っていた。けれど、【数字】になった瞬間、その事実が刃のように胸に突き刺さる。
十五歳──五年生の子達と同じ年に、自分を産んだということになる。自分とたった四歳しか違わない。
「おい……どうした?」
「な、んでもない」
ナーサは口元を覆い隠した。身体中の血という血が、沸騰して音を立てているように思えた。
身体が芯から焼き尽くされるように熱い。怒りとも絶望ともつかない感情に全てが呑み込まれるようだ。
(パパはどうして、そんな時に……ママのこと、考えてなかったの? 卒業してないって、だからなの……?
それなら、二人とも、まだ子どもだったんじゃない……)
それでも、装丁から目が離せない。もし今より恐ろしい事実を突きつけられても、遠い記憶の彼方に行ってしまった父の顔をもう一度この目で見たかった。
ヤックスリーの手から年報を受け取ると、震える手でページをめくっていった。彼の目を見ることはできなかった。きっと生年がおかしいことに気がついたのは、自分だけではないはずだ。
その証拠に、彼は何かを言いかけ、口を閉ざした。
N・E・W・Tレベルの成績上位者の中に、ロングボトム先生の名前を見つけた。数人の生徒の写真の中で、手を振る金髪の少年──学生時代の先生は今よりも少し丸く、そして変わらず優しそうだった。
ページを手繰り、クィディッチ・チームの紹介まで進めた。そこには年度別のチームの写真が掲載されていた。
鼓動が一つ飛んだ気がした──1993年度、1994年度の写真に写った小柄な少年。
「……パパ」
思わず、そう言ってしまった。試合に勝った直後なのか、駆け寄ってくるチームメイト達と手を叩いて、片手を上げる。得意げな笑顔には見覚えがある──鏡に映る自分とそっくりだった。
ついさっき感じた両親への不信感が、きれいにかき消えた。残ったのは、ただ胸の高揚感だけだ。
ナーサは指先で父に触れた。紙面と革手袋を通して、父の温もりが感じられた気がした。
「……お前と、そっくりだな」
横から覗き込んだヤックスリーは、言葉少なに言った。驚きと罪悪感の入り混じったような響きに、ナーサは顔を上げた。けれど、ナーサには『そっくり』という言葉の意味だけを受け取った。
「本当っ? あたし、パパに似てる?」
「ああ。すげぇ……似てるよ」
亡き父の欠片が自分の中に宿っていることを、この目で確かめられた──ナーサは無邪気にそのことを喜んだ。