【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地   作:◆琳音◆

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22. あの日のチェリーシロップソーダ

 図書館で卒業記念年報を目にして以来、ナーサの目の前を覆っていた濃い霧が晴れ、自分そっくりの少年が姿を見せた。

 校内を歩くと、至るところに父の影が現れ、振り返る──父の声はどんなだったろう。自分をどう呼んでいただろう。父への想いは日増しに強まっていくばかりだった。

 

 黒塗りだった父の顔を取り戻したことで、ナーサは真実の追求は必要だと実感した。たとえ知る痛みが伴っても、その奥底に希望が詰まっていれば、パンドラの箱を開く価値はある。

 

「また図書館に行くの? ここのところ、毎日じゃない」

 

 コートを羽織り、鞄を肩にかけた途端、ジャニスが声をかけてきた。

 

「うん。調べものなの」

「ねえ。まさか、また……リラルド・ヤックスリーとなの?」

 

 こわごわとメイジーが聞いてくる。グレイスも口をつぐんだまま、彼女の肩にそっと手を乗せた。談話室で同級生の男子達の軽口を聞いて以来、二人の態度がやけによそよそしい。

 そして、このところ、アリッサはナーサを見ようとしない。今も不自然に背を向けたまま、それでいて耳を澄ましているように見えた。

 

 ナーサは脇を締め、鞄の底をギュッと握りしめた。

 ホグワーツ特急で百味ビーンズで盛り上がったあの日とは、明らかに皆の目が違う。

 

「うん。約束してるから」

 

 それでも、ナーサは微笑んだ。悪いことをしているわけじゃない。そして、皆が何を思おうと自由なのだから。

 ジャニス一人だけが「行ってらっしゃい」と明るく言って手を振ってくれる。その一言でズシリと肩を押さえる鞄が、少しだけ軽くなった気がした。

 

 図書館の定位置になった学習室の入り口で、ナーサは足を止めた。

 約束していた相手の姿はない。代わりにその兄が一人、静かにそこにいた。入り口すぐ側の椅子に浅く座り、背筋を伸ばしている。

 本も勉強道具も置かれていない机──その佇まいは、まるで『誰か』が来るのを待っていたかのようだ。

 視線が交わると、彼はスッと目を細めた。

 

「ケイレブ、こんにちは」

 

 一瞬回れ右しかけたことが申し訳なくて、ナーサは早口に言った。泣きじゃくるリンジーの話を聞いて以来、彼と二人で会うのが気まずかった。

 少し離れたところに鞄を置いて、立ったまま歴史書を取り出していると、ケイレブが滑るようにテーブルを回り込んできた。

 

「やあ、今日も一段と冷え込むね。

 ……ふふ、その革手袋──リラルドのものだね?」

 

 手を伸ばせば触れられる距離から、手元に注がれる視線。取り立てて変わったデザインの手袋ではないのに、一瞥しただけで迷いなく言い切った。まるで最初から知っていたかのように。

 喉の奥が粘ついた。ナーサは大きく唾を呑み込んだ。

 

「……はい。こないだ、ここに来た時にもらったんです。寒がっていたら、サイズが合わなくなったからって」

「君に贈るなら、もっと品を選ばないと。あいつは本当にセンスがないな。そんなサイズも合わない、ボロを……捨ててしまってもいいんだよ」

 

 何処か誘導するような冷たい言葉──指や手のひら部分が余った手袋を重ね合わせて、ナーサはケイレブを見つめ返した。

 

「あたし、この手袋がとても気に入ってるんです。彼が、大切にしていたものだから」

 

 自分の手よりもずっと大きな革手袋は、身に着けているだけで彼と繋がっている気がした。

 ケイレブは笑った。いつもと同じ柔らかな笑みに、何処か冷たい光が宿っていた。

 

「そうか。君は本当に優しいな」

 

 囁くような声と共に、ケイレブの息遣いがふっと髪を掠めた。その途端、ナーサの肩が小さく跳ね上がった。

 

(今の、何……?)

 

 そう思う間もなく、ケイレブの手はごく自然にナーサの手から歴史書を抜き取っていた。静けさの中、ページをめくる音がやけに大きく響く。

 

「最近、この歴史書をよく読んでいるそうだね。何か、気になることでもあったかな?」

「はい。『アビスの剣』や『ルクスの鎖』の成り立ちのことを教えてもらって……近代史に興味を持ったんです」

 

 ケイレブの口の端が上がった。けれど、それは笑っているというよりも条件反射のように口角だけが動いた印象だった。

 人と話す時には、目を見て、微笑んで……これまでの繰り返しを、ただなぞっているだけのような──いつも感じてきた目の奥の温かみが感じられない。

 

(ケイレブの笑い方……こんな風だった? どうして今日はこんなに怖いの……?)

 

 ナーサは微かに震える手で懐中時計を開いた。五時五分前──約束の時間まで、あと少しだった。

 軽く身体の位置をずらして入り口を見た。ヤックスリーが来てくれれば、この気まずさも消えるに違いない。祈るようにそう思った。

 

「この本、私も読んだことがあるよ。黒塗りが多いだろう?」

「……はい。どうしてなんですか?」

 

 鼓動が大きくなる。ケイレブは何かを知っているのだと直感した。

 案の定、彼は暗い笑みを浮かべて続けた。

 

「それは『悪しき歴史』が隠されているからだろうね。闇の帝王の築かれた秩序ある世界に仇なそうとした、愚かな魔法使い達の歴史が。

 ……知る価値もない、くだらないものだよ。忘れた方がいい」

 

 肺が骨にめり込むような痛みが走った。「はい」と一言口にすれば、また呼吸が緩やかになる。そう確信しているのに、ナーサは拳を握りしめた。

 

「あたしは……それでも『知る』ということは大事だと思います。

 きっと同じ物事にも裏表があるでしょう。そのどちらか一方だけでは、見方が偏ってしまいます。両面から見て、物事を判断することも必要なんじゃないでしょうか」

 

 言い終えた瞬間、図書館の空気が凍りつくように冷えた。

 ケイレブは微動だにせず、ただ静かにナーサを見下ろしていた。

 

(……怒らせた?)

 

 冬の湖のように青い瞳が、異様な輝きを放った。それを見た途端、ナーサの身体の内側を寒気が駆け抜け、一気に肌が粟立った。

 

 ケイレブは静かに歴史書を閉じ、ナーサのすぐ側に置いた。両手で持たなければ、ずしりと重たい書籍を羽根のように軽やかに。そして、その上に手をつくと、ナーサの顔を見下ろした。

 僅かに身を屈めた彼の身体で、視界の大部分が見えない。

 

「……君は正しい。しかし、真実は君を傷つけなかったかな? 例えば、君のご両親の年齢」

 

 ぞわり。無防備な脳を不意に撫でられたような不快感が走り、ナーサは両手で頭を押さえた。

 何かが思考の中に混ざり込んだ感覚。

 痛みではない。むしろ、細心の注意を払って触れられているような──けれど、大切な記憶の一部が揺すぶられるようだった。

 突如襲ってきた感覚に翻弄されて、何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。

 

 卒業記念年報は書庫の中だった。地下への階段は石造りで足音が響く。誰かが来たなら、すぐに分かったはず。

 あの場にはヤックスリー以外は誰もいなかった。

 胸の中を一陣の風が通り抜けた気がした。

 

「……どうして」

 

 声が震えた。

 彼らが仲のいい兄弟なのは知っている。けれど、人のプライバシーを軽々しく話すはずがない。

 ケイレブはいつもと変わらない柔らかな顔のまま、優しく言った。

 

「……ふふ、弟は何でも『教えて』くれるからね。

 君のお母上は、若くして君を産むことになったとか。そして、君はマグルの中で育つ羽目になった」

 

 真綿のような声が、耳を撫でる。その途端、警戒音のような耳鳴りが響き、ナーサは目を細めた。

 無意識のうちに後ずさった足が椅子に当たり、身体が大きく背面に傾いた。倒れる──そう思った瞬間、背中に添えられた手に支えられていた。

 そのまま抱き寄せられるような形になり、少しでも頭を動かせば額が彼のローブを掠めるほどの近さだ。

 

「落ち着いて。君を怖がらせようと思ったわけじゃない」

 

 真上から降ってきた声に、ナーサはビクンと跳ね上がった。彼の腕と身体の間に挟まれて、逃げ場がない。

 前にも体勢を崩した時にケイレブに抱き留められたことがある。身体が触れた恥ずかしさこそあったものの、包み込まれるような安心感があった。

 けれど、今は違う。同じ手なのに、肌がざわっと逆立った。今すぐ逃げ出したいのに、視線が動かなかった。

 

「……どうして……知ってるんですか? そんなことまで、あの人は話したの……?」

 

「君はまだ幼い。知ってはならぬこと、見てはならぬものの区別がついていない。だから、適切な管理が必要なんだ。

 怖がらないで。私はただ、君を守りたいだけだ」

 

(……守りたい?)

 

 ナーサは思わず顔を上げた。聞き覚えのある言葉──それは、彼があの大広間でリンジーにかけた言葉と同じ。

 

 次の瞬間、ケイレブの微笑みが剥がれ落ち、背中に回されていた手が急にほどかれた。

 耳鳴りが遠のいた途端、ナーサは頬が冷たいことに気がついた。拭ってみると、そこは微かに濡れていた。

 

(……涙?)

 

 どうして、と思う間もなく、パシンッと鋭い音がした。

 ケイレブの目が見開かれた──彼の肩に『誰か』の手が置かれている。

 

「おい」

 

 低く唸るような声と同時に、ケイレブの身体が大きく後ろに傾いた。体勢を崩しかけながらも、彼は振り返った。

 

 視界に飛び込んできたのはリラルド・ヤックスリーだ。燭台の灯を映して燃える目は、兄を射抜くようにまっすぐ見据えていた。

 怒っている──そんな言葉では足りない。肩から指先までブルブルと小刻みに震え、今にも弾けそうな緊迫感が全身を覆っている。

 

「……てめぇ……今、何してた」

 

 次の瞬間、彼は身長差を物ともせず、勢いのままに兄の胸倉を掴み、自分の方へと引き寄せた。ケイレブがよろめいたが、ヤックスリーは襟元を放さない。

 

「昨日の、あれか? 俺だけじゃなく……まさか、こいつにまでやったのかよ……! 何処まで監視すりゃ、気が済むんだよ!」

 

 声が裏返ったヤックスリーの顔は蝋のように白く、額に浮いた青筋がひくついていた。

 ケイレブは喉元にかかる弟の手にそっと触れた。

 

「リラルド、話を──」

 

 その言葉を言い切る前に、怒りに満ちたスコットランド英語が炸裂した。その怒声はあまりに早すぎて、断片的にしか聞き取れない。

 『マイン』『パペッ』『スマッシュ』『ケイレブ』──切れ切れの単語と、音の響き。

 これ以上何も奪わせないという激情がほとばしった『マイン(mine)』が、澱のようにナーサの心に沈む──それが意味するものを意識しないわけにはいかなかった。

 肺の中が空になったのか、ほんの一瞬黙った弟に、ケイレブが静かに言った。

 

「……落ち着け、リル」

「馬鹿にしてんのか、てめぇ!」

 

 火に油が注がれた勢いで、ヤックスリーは歯を剥き出しにした。体内にこもった熱で、彼の周囲には今にも湯気が見えそうだった。

 

「俺はもう、てめぇにいい子いい子されてたガキじゃねぇんだよ! 俺らのことは放っとけよ!」

 

 乱暴にケイレブから手を放すと、ヤックスリーは強引にナーサの手を取った。

 

「行くぞ、マルフォイ」

 

 力強さとは裏腹に、その声の何処にも怒りの残滓はない。

 革手袋越しに感じる彼の熱。それは自分を寒さから守るために差し出してくれた優しい手だった。

 

 ナーサはケイレブを振り返った。今にも倒れそうなほど蒼白な顔で立ち尽くしている。

 その途端、繋いだ手に力がこもる──振り返るな、と言うように。ナーサは唇を噛み締め、大人しくヤックスリーに手を引かれた。

 

 歩きながら、不意に目の奥が熱くなるのを感じた。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。クリスマス休暇明けまでは、こんなことになるなんて思わなかった。

 

 二人はナーサにとって心の安全地帯だった。

 何も分からなかったホグワーツ生活を導き、将来の方向性を照らしてくれたケイレブ。卑下すべき過去を丸ごと包みこんで寄り添ってくれたヤックスリー。

 たった数ヶ月なのに彼らと過ごすのは格別で、かけがえのない時間だった。

 

 実の兄のように慕っていた人に傷つけられ、そして彼を傷つけた。あれだけ仲がよかった兄弟を仲違いさせてしまった。

 それなのに、この繋いだ手が、どうしようもなく嬉しい。

 それは、ただ隣にいたから取った手じゃない。彼が自分の兄に食って掛かってまで、自分を守ろうと選んでくれた手だからだ。

 

 図書館を出るまで、ヤックスリーは一度も手を離さなかった。空いた方の手で重たい図書館の扉を押し開け、身体で支えながら、ナーサを先に外に通してくれた。

 そのまま彼は廊下を急ぎ、角を曲がったところでようやく足を止めた。晴れた空のような青い目が、今は陰って見える。

 

「……大丈夫だったか? もっと早く来てりゃよかった。そしたら、あんな真似させなかったのに」

 

 ぽつりと漏らした言葉には労りが満ちていて、こわばっていた身体から、ふっと力が抜けた。

 けれど、次の瞬間、さわさわと寒気が走り抜けた。

 

(あんな真似させなかった……? ケイレブが、何をしたの?)

 

 剥き出しの意識を直接盗み見られたような感覚を思い出して、ナーサはハッとした。

 開心術──確信した途端、脚がガクガクと震え出した。魔法省で尋問に用いられる手法と聞いたことがある。

 

(ケイレブは……あたしを罪人扱いしたの?

 違う、彼は守りたいと言った……あの、黒塗りの本に隠されているのは、そんなに大きな秘密なの?)

 

 ナーサの両手を取り、ヤックスリーは向き直った。そばかすを数えられるほどの距離に、息を呑む。彼の顔の熱が頬を焦がすようだった。

 

「兄貴には……あいつには、もう近づくな。俺が近づかせねぇから」

 

 自分を守ろうとする意思そのものの言葉に、胸の奥からじわりと熱が込み上げる。こんなに自分をまっすぐに想う言葉をもらったのは生まれて初めてだった。綻びた口元から吐息が漏れる。

 

 嬉しい──確かに、そう思った。

 

 その途端、口の中に甘酸っぱい味が広がっていった。

 スリザリンのテーブルで三人並んで食事したあの日の、チェリーシロップソーダの味。

 

 本当の兄妹だったら──そんなあり得ない願望を抱いたのは、二人とずっと笑っていられたら、どんなに幸せだろうと心が動いたからだ。

 けれど、夢と現実はあまりにも遠い。

 今まさに血を分けた彼らが、袂を分かとうとしている──それも、他ならぬ自分のせいで。

 

「ありがとう、ヤックスリー。

 でも……それで、ケイレブと仲直りできる?」

 

 その言葉が合図だったかのように、時が止まったようだった。まばたきするだけでも音が立ちそうな静寂。口からこぼれた言葉が、取り返しのつかないものに変わっていくかのような気配──。

 

 ヤックスリーが突然乾いた声で笑い出し、ナーサの手を振りほどいた。蝋燭の灯が、その陰を濃くしている。片手で顔を覆い隠し、彼の口元だけしか見えない。

 まだ互いを誤解していた頃に見た、歪んだ笑み──組分けの儀で、校長の魔法で倒れた子を笑っていた笑みと同じだった。

 静かな廊下にかすれた笑い声が染み入り、吸い込まれるように消えた。

 ヤックスリーはゆっくりと顔から手を離す。

 

「──お前、あいつのことは名前で呼ぶくせに……俺のことはいつまで経っても『ヤックスリー』なんだな」

「えっ……?」

 

 一瞬何を言われたのかが分からなかった。ヤックスリーの怒りの正体が掴めなかった。

 彼は視線を落とした。

 

「あいつはいつだってそうだ……俺が欲しがってるものを知ってるくせに、先に手に入れる。それで、俺にお恵みをくれようとするんだ」

「あたし──」

 

 ナーサは言いかけて、言葉を呑み込んだ。

 

 もうずっと前から、彼を『リラルド』と呼びたかった。けれど、彼は自分をいつも『マルフォイ』と呼ぶ。

 だから、何処まで踏み込んでいいのか分からなかった。

 

 名前で呼ぶのは、距離を近づけることだ。自分からその一歩を踏み出すのが、どうしようもなく怖い。

 大切な人が、突然いなくなったからだろうか──ナーサの人生から突然姿を消した父のように。

 けれど、胸の奥にずっと沈んでいるのは、それだけではない気がした。もっと曖昧で小さな不安が、心がかき乱された途端に濁りとなって舞い上がる。

 

 大切な人とは、すぐに離れ離れになる──影のように付き纏う強迫観念は何処から来ているのだろう。

 けれど、それはただの言い訳に過ぎない。

 ナーサがもう一度口を開きかけた途端、彼は遮るように言った。

 

「──いや、いい。お情けで呼ばれるなんてごめんだ……悪い。俺、今日はやっぱ帰るわ……また、今度な」

 

 黒いローブの裾が翻る。ナーサはその後ろ姿に手を伸ばしかけ、下ろした。

 コチ、コチ……懐中時計が鳴る。まるで、自分の胸がひび割れていく音を聞いているようだ。

 

(二人とも、傷つけた。あたしのせいだ。

 ケイレブも……リラルドも、あたしを守ろうとしてくれた。それはあたしが弱かったから。二人に甘えすぎてたんだ……)

 

 ナーサは冷たい石の壁に背をもたせ、懐中時計を握りしめた。身体はどんどん冷えていくのに、目の奥が燃えるように熱かった。

 

(ちゃんと一人で立てるように……守られなくてもいいくらい、強くならなきゃ。

 それまで、二人には頼っちゃ駄目。いつか……二人と並んで立てるようになったら。

 そうしたら、またきっと元通りになれる。きっと……また三人で笑って話せる日がくるよね)

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