図書館での一件から一ヶ月が過ぎようとしていた。
あれ以来、ケイレブを近くで見かけることはなくなった。たまに大広間で見かけることはあったけれど、まだ彼の視線を受け止めることはできなかった。
そして、リラルド──彼ともぱったりと交流が絶えた。
以前の彼は、授業が終われば、友人達を引き連れてのんびりと廊下を歩いていたのに、最近は僅かな時間も惜しいとばかりに急ぎ足で地下へと駆け下りていく。
スリザリンは序列社会のようだから、もしかしたら下級生ならではの仕事があるのかもしれない。
少し距離を置こうと決めていたのに、いざ彼が自分を見向きもせずに去っていくのを見ると、どうしようもなく胸が苦しかった。
「ハイ、マルフォイ」
ある日、図書館へ向かう途中で、パーカーにモッズコートを羽織った女子に話しかけられた。
ハニーブロンドを二つのお団子に結い上げて、目の下にアイブラック・シールを貼りつけた顔。見覚えがあると思ったけれど、誰だか分からなかった。
「ええと……?」
「分かんない? 私、リンジー・マクドゥガル」
「あっ、こんにちは……いつもと雰囲気が違うから」
「……ふふ、よく言われるよ」
歯を見せて笑うその顔には化粧っけがなく、それでも瑞々しい美しさにあふれている。以前ホグワーツ特急で見た、毒のような甘さは何処にもない。必死さの滲んだ鋭さもなければ、今にも崩れ落ちそうな脆さもない。
柔らかなスコティッシュ・アクセントに、肩肘張らない姿。野薔薇のようなしなやかさに惹きつけられる。
もしかしたら、これが本来の彼女なのかもしれない。
「ハンカチ、ずっと借りっぱなしだったでしょ。あれから、なかなか会えなかったから……あの時はありがとう」
差し出されたハンカチはきれいにアイロンがけされていて、ほんのりと大人びた香りがした。ずっと持ち歩いて、自然と彼女から移ったのだろう。何処かホッとする匂いだった。
ナーサはポケットにしまいながら、頬を緩めた。
「もう、ご友人は回復されましたか?」
「うん、お陰様でね。心配してくれてありがとう。
あんたも……何かあった? 最近はあいつと一緒にいないじゃない」
周囲に誰もいないのを確かめてから、そう遠慮がちに訊く。
彼女の目には好奇心の欠片もない。ただ、ナーサの身を案じてくれているようで、胸から温みがあふれるように広がっていく。
「大丈夫です。ただ、今まで彼に頼り切ってしまっていたのを、自分の力で何とかしたいと思い始めただけなんです」
開心術の疑惑は伝えなかった。
言えば、彼女に残ったケイレブへの信頼の最後のひと欠片までが、砂となってこぼれ落ちそうな気がした。
リンジーは軽やかに笑った。
「そっか。深くは聞かない。
でも、もし何か困ったことが起こったら、話は聞くよ。こないだのお返しにね」
「ありがとうございます」
久しぶりにかけられた温かい言葉に、ナーサは目の奥がじわりと熱くなるのを感じ、慌てて目を伏せた。
寮では陰口を囁かれ、ルームメイト達とは距離が開いた。
ヤックスリー兄弟との時間が失われ、胸にぽっかりと空洞が空いたようだった。
その時、ようやく気がついた──自分はずっと寂しかったのだと。
リンジーは何も気づかなかったように明るく言った。
「今からクィディッチの練習なんだけど、よかったら見に来ない? 兄さんとアデリナから、飛ぶのがすごく上手って聞いてるよ」
「クィディッチ・チームに入ってるんですか?」
いつもの彼女は、まるで社交界のプリマドンナのように完璧で、誰よりも華やかだった。だからこそ、砂ぼこりにまみれるクィディッチと結びつく姿が想像できない。
思わず目を瞬かせたナーサを見て、リンジーはくすりと笑った。
「チェイサーをやってるの。グリフィンドールはシーカーがヘボだから万年ドンケツなんだけどね。
でも、空を飛ぶのって、それだけで楽しいじゃない。果てのない空を自由に飛び回るのが、最高に好きなんだ」
「……分かります。足が地面を離れて、浮き上がる瞬間……ここから全てが始まるんだって気がして」
「分かる! 自分の物語のスタート地点って感じだよね……!」
「そうっ。全てが自分の手に委ねられてるみたいで」
響き合うような感覚の共有に、ナーサは心が弾むのを感じた。
その時、背後から忙しない足音が近づいてきた。
誰かが走ってくる。邪魔にならないよう避けなければ、と思ったその時だった。
「──マルフォイ」
ナーサはその声でビクンと跳ね上がった。
そろりと振り返ると、軽く膝を押さえたリラルド・ヤックスリーがいた。ほんの僅かに呼気を乱し、乱れた髪を払いながら姿勢を正す。
リンジーとの話に夢中になっていて、彼がすぐ側まで来ているのに気づかなかった。
「久しぶり、だな。授業では見かけるけど」
「……うん」
ぎこちない笑みを浮かべたリラルドに、何と返したものか、迷った。久しぶりに見る彼は少し背が伸びて、声が低くなった気がした。
(どうしてだろう……会えて、すごく嬉しいのに……何を話していいのか分からない)
黙り込んだナーサに、リラルドは少し苛立っているように見えた。けれど、その視線が手元を捉えた途端、彼の眉が震えるように動いた。
会えない時間も、彼の革手袋はナーサの両手を温めてくれていた。
その事実に気づいた瞬間、リラルドの表情がほどける。悪戯を見咎められた子どものような顔──何処か懐かしくて、愛おしい。
「図書館、行かないか。こないだのこと、ちゃんと話したい」
「……ごめん。今は、用事があるから」
「そんな時間は取らせねぇ。頼むから」
胸に棘が刺さるような痛みを感じて、息苦しい。
今すぐリラルドの手を取って、図書館に駆け込んだら、きっと楽になれるのに──。
リラルドが一歩踏み出した。すると、リンジーが彼とナーサの間に割り込むように入ってきた。
「ねえ、あんた。私のこと、ちゃんと見えてる?」
「……はっ? 誰だよ、てめぇ。邪魔すんな」
リンジーは凄むリラルドの額を指先で軽くつついて、からかうように言った。
「Easy now, lad. She’s got company, ye ken?」
『はいはい、落ち着いて、坊や。彼女、連れがいるでしょ。分かる?』──皮肉めいたスコットランド英語に、リラルドは目を見開き、口元を押さえて後退った。まるで遠い昔の悪夢を思い出して、吐き気をこらえているようだ。
「……やめろ。その呼び方」
「あら。気に障った、ラド?」
肩を揺らすリンジーの声は甘く、鈴を転がすようで……誰かに似ている、とナーサは思った。
「……ふふ、これから私達デートだから。そっちこそ邪魔しないでよね」
その笑い方で、ナーサはハッとした。微笑み一つで場の空気を支配してしまう──ケイレブと同じ、あの笑い方。
リラルドも同じことを感じたのか、濁流に呑まれるように押し黙った。何か言いかけたが、すぐに唇を引き結び、踵を返す。
ナーサは咄嗟に口を開いた。けれど、喉に鎖が絡まったように言葉が出てこない。波のように引いていく黒いローブの裾を、ただ見送ることしかできなかった。
「ほら、行こ」
ごく自然に腕を組まれ、気づけばナーサはリンジーと並んで歩いていた。まるで仲よしの姉妹のような距離感に戸惑いつつも、温かな感触に心が和らいだ。
「ごめんね、余計なことしちゃった? 困ってるように見えたから」
「ううん、大丈夫です」
リンジーの笑顔が陰って見えた。組んだ腕に僅かに力がこもる。
「あんた、あの子にも好かれてるんだね。
リラルドはケイレブほどじゃないけど、気をつけて。彼がどうこういうわけじゃなく……あの家自体が危ないの」
「あの家……ヤックスリー家が、ですか?」
祖父の信頼の厚いヤックスリー家。現当主である彼らの父親は魔法大臣でもある。会ったことこそないものの、権威ある立派な人物だと思っていた。
ナーサが戸惑い顔で訊くと、リンジーは頷いた。
「私とあの兄弟、はとこだって知ってた?」
「あ……はい。前にケイレブが教えてくれました」
リンジーの歩みが一瞬緩まったが、次の瞬間には何事もなかったかのようにリズムを取り戻した。
「私の父の従姉が、あの兄弟の母親。
コーバン・ヤックスリーに『服従の呪い』をかけられて、無理やり結婚させられたの」
さらりと落とされた言葉に、ナーサは短く息を呑んだ。
三大禁忌──『許されざる呪文』の一つ。
人間に対して使うと、即アズカバン送りにされるという恐ろしさは家庭教師から叩き込まれた。
ただし、国家の秩序を守るために、正しく判断できる『選ばれた魔法使い』だけには例外的に許される。
いずれ、あなた様もそうお成りです。マルフォイ家を継ぐ方なのですから──。
熱を込めてそう言った家庭教師の言葉が蘇り、ナーサの胃がひっくり返るように煮え立った。
「……そんなことに使うなんて、あり得ない。どうしてアズカバンに投獄されないの?」
「ねえ。その法律をつくるのって、誰だと思う?」
小首を傾げたリンジーの微笑みは薄氷のようだった。今にも割れそうな、澄んだ静けさ。背筋を氷柱でなぞられたように身震いが走った。
『服従の呪い』は相手の意志を完全に封じるという。
ある日、自分に見知らぬ夫ができていたら……見知らぬ子どもが側にいたとしたら?
サワサワと全身の毛が逆立つような心地だった。
(リラルドや、ケイレブは……お母さまの過去を知ってるの? 二人とも……どんな子ども時代を過ごしたの……?)
まるで、まだ幼い兄弟の救いを求める声を間近で聞いたようだった。そんな状態で、彼らは愛されて育ったのだろうか?
リンジーは続けた。
「父さんは子どもの頃から言ってたの。ヤックスリー家には決して近づくなって。理由は知らなかった。けど、口にできないようなひどいことがあったんだろうって……父さんの顔を見たら分かった。
でもね、私……生まれたのがあの家だったっていうだけで、ケイレブ本人が悪いだなんて思ってなかった」
リンジーの声が不意に和らいだ。まるで遠い子どもの頃の夢を語るような、儚く柔らかな響き。
「彼は困っている私に手を差し伸べてくれて、救いだしてくれたの。自分の理想が形になって現れたみたいで……あの夜、私は恋に落ちた。
四歳も離れてるのに馬鹿みたいでしょ……でも、その時の私は、彼が本気で私を好きだって信じていたし……私の世界の中心には間違いなくケイレブがいた。
その完璧さが作られた『演出』だったと気づくまで……私は知らずに駒みたいに動かされてた」
「そんな……でも」
ナーサは打ち消す言葉を探そうとした。
ケイレブとのこれまでのやりとりを思い返すと、胸の奥に冷たいものが広がった。
もし、これまで自分が『選んだ』と信じていたことが、巧妙に『選ばされていた』のだとしたら?
(でも……もし、そうだったとしても……これまでの選択全てが間違いだったわけじゃないもの。後悔なんて……してない)
ナーサはきつく目を瞑った。
ケイレブと過ごした時間の中で得た温もりや学びまで、誰かの思惑の産物だなんて思いたくなかった。
(それに……リラルドは絶対に違う。あの人はいつだって、まっすぐに心に語りかけてくれたもの)
「……今のは、あくまで私の考え。ケイレブに関しては、そう結論を出してる。
でも、あの子──リラルドのことは、あなたが自分でしっかり見定めて。同じ家の血でも、人はそれぞれ違う。
選ぶのはあなただよ。でも……後悔はしないように、しっかりと目を開いて見てほしい」
凛とした横顔が、ナーサの目には眩しく映った。
玄関ホールから外に出ると、夕陽がもう沈みかけていた。積もった雪は両端に避けられ、クィディッチ競技場へと続く道が出来上がっていた。
競技場の上空は茜色に染まり、いくつかの影が飛び回っている。
リンジーは「あっ」と吐息のような声を漏らし、するりとナーサの腕を離した。
「デニスーッ、お待たせ!」
伸びやかに駆けていく先には、銅色の髪の少年が立っていた。飛びつくように抱きつき、頬を寄せて笑うリンジーは、この上なく幸せそうに見えた。
微かに甘い痛みが、チクリと胸を刺した。
ナーサは背後にそびえるホグワーツ城を振り返り、両手を胸の前で重ね合わせた。
図書館でスコットランド英語を話した、あの日。
『ウィー・ラッシー』──復唱した途端、全身を震わせて涙がにじむほど笑ったリラルド。恥ずかしくて、つい怒ってしまったけれど、あまりにも優しい笑顔を見せてくれた。
──あの日に戻りたい。
そう思った途端、木から舞い降りた粉雪を巻き込んだ風が駆け抜けた。冷たくなった頬は、溶けた雪で涙のように濡れていた。