部屋の中が騒がしい。帰省組は早めの朝食を済ませたのだろう。忘れ物はないかとトランクの中身を確認したり、休暇中に何をするかの話で盛り上がっている。
ナーサはずっと前から目が覚めていたけれど、しばらくベッドに横たわったままでいた。ここのところ気詰まりなルームメイト達との関係が、ベッド周りのカーテンを開ける手を躊躇わせる。
けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。制服に着替えて、黒塗りの歴史書を入れたバッグを肩にかけると、思い切ってルームメイト達の前に出た。
その途端、示し合わせたように彼女達の話がピタリと止んだ。
「おはよう。ちょっと寝坊しちゃった。顔洗ってくるね」
明るくそう言うと、ナーサは階下に降りていった。
返事が返ってこないのは気にしないことにした。皆、忙しいから。返すタイミングを逃しただけ──そう自分に言い聞かせるように、唇をキュッと結んで、少しだけ眉を歪めた。
(……でも、あたし、そんなに悪いことした?)
寮内で爪弾きにされるのは、まだ分かる。けれど、ずっと一緒にいたルームメイト達からも、ここまで避けられるなんて思わなかった。
(スリザリン生と仲よくしたから?)
けれど、ケイレブの時は騒がれても、どちらかというと羨望の視線を向けられた。
(仲よくしたのが、リラルドだからいけなかったっていうの……?)
ナーサは思わず握りしめた手に爪を突き立てた。
逆立てた髪やイヤーカフをつけた派手な見た目。教授にも物怖じしないで意見するところや、早口のスコティッシュ・アクセントが同学年の女子の間で怖がられていることは知っている。
けれど、彼らはそんな上辺だけの情報しか知らない。涙をこぼすくらい笑い転げたり、熱を込めて将来の夢を語ったり……傷ついた過去を慰めるのではなく、そのまま受け容れてくれた。そんな彼を知っているのだろうか。
(でも……あたしも、そうだった)
誤解が解けるあの日まで、一度も歩み寄ろうとしなかったことを思い出した。
とぼとぼと階下に向かっていると、上階から一段飛ばしをしてるようなけたたましい足音が迫ってきた。
「よ、お寝坊さん。荷造りしてなかったけど、イースター休暇は帰省しないの?」
振り返る前にトンッと肩を叩いてきたのはジャニスだった。彼女だけは変わらず、声をかけ続けてくれている。
込み上げてきた感情をぐっと呑み下して、ナーサは答えた。
「うん。調べたいことがあって」
「あんたの立派なおじいさまに怒られるんじゃないの? 家にも帰って来ずに、フラフラ遊び回るなって」
「怒られたりしないよ。ただ、ちょっと……」
ナーサは口をつぐんだ。
イースター休暇には帰らないと伝えた祖父への手紙の返事は、ひどく素っ気なかった。
『学問は尊ぶべきことだ。だが、家族を軽んじてまで得る知識に、その価値はあるか。今度の休暇で、その意味をしかと考えよ』
読んだ途端、ナーサは冷水を浴びせられたように感じた。
同時に苛立ちに似た感情も込み上げてくる。
クリスマス休暇だって家族で何処かに出かけたり、何かを一緒にするわけでもない。ただ、静かに食事をするだけ。
ほとんどの時間を個別に過ごすだけなのに、何故『家族を軽んじる』なんて言われなければならないのだろう。
つい攻撃的になってしまう心を、ナーサは恥ずかしく思った。
どうしてか、家を離れてから、祖父への想いがおぼろげになってきた。自分が薄情な人間のように思えてならない。
ジャニスはナーサのバッグを見つめた。
「あんた、最近憑かれたみたいに調べ物してるね。学期末テストに向けた勉強……ってわけじゃないよね?」
「うん。ちょっと気になることがあって」
ジャニスは意を決したようにナーサの肩に手をかけた。そのまま、有無を言わさぬ勢いで一緒に洗面所に入ってくる。
石造りの白い壁に囲まれた洗面所は、朝日を照り返して眩しい。ずらりと並んだ洗面台はいつも奪い合いになるほど大勢いたが、今は誰もいない。帰省の日は汽車の時間に遅れないよう、皆早起きして支度する。出立の時間が迫っているから、時折響く水音以外がやけに大きく聞こえる。
それなのに彼女は奥のシャワールームまで進み、わざわざカーテンまで閉めた。湿り気を帯びた空気が二人を包み込み、互いの身体の熱まで伝わるほどだ。
ジャニスはそっと耳打ちする。
「最近ずっと見てる本、持ってるんでしょ。見せてくれる?」
「どうして……知ってるの?」
思わず問い返してしまう。黒塗りのある歴史書を読む時はベッド周りのカーテンを閉めるか、図書館に行っていた。
ジャニスは眉根を歪めて笑った。
「ごめんね。気になることがあると、つい調べちゃうタチでね……何度か図書館に行って、遠目からあんたを見てたんだ。いつも同じ本を読んでるのも、それで分かった」
ナーサは躊躇いながらも、歴史書を引っ張り出した。
ジャニスは装丁をじっと見てから、パラパラとページをめくっていく。そして、終盤の黒塗りの箇所まで辿り着くと、ナーサと同じく食い入るように見入った。
「黒塗りだらけ……?」
「……うん。十九世紀頃から、急に黒塗りが出てくるの。どうしてなのか、気になって」
「他の歴史書は?」
「黒塗りはないんだけど、出版年が最近のものばかりなの。禁書の棚までは探せてないから、全部がそうなのかは分からないんだけど……」
「黒塗りを魔法で外したりできるかな」
「それは……あたしも考えたんだけど、無理だと思う。多分この黒塗りには呪いがかかっているから。迂闊に何かするのは危険な気がしてる」
ケイレブは『悪しき歴史』と言っていた──知る価値もない、くだらないものだから忘れた方がいい、と。それは重大な隠匿に思える。もしかしたら、国家絡みの重大な事案の可能性もある。
不意に、ざわりと心が波立つ音が聞こえた気がした。
ナーサはジャニスの手から歴史書をもぎ取った。やはり見せない方がよかったかもしれない。
ナーサがバッグの中にしまい込んだ次の瞬間、ジャニスはクスリと笑った。
「なんだ。そんな面白いこと、一人でやってたの?」
「……えっ?」
「私も手伝うよ。真実を探るのは新聞記者の務めだもん」
任せろというように拳で胸を叩くジャニスを、ナーサは呆気に取られて見た。けれど、無鉄砲にも見えるその勇気の熱が、ナーサの胸にじわりと染み込むようだった。
「でも、きっと……危険だよ」
ジャニスは頷いてカーテンを開けた。布が擦れる小さな音と共に、閉ざされていた空気がふわりと動いた。
白く眩い空間に躍り出た彼女は両手を後ろで組み、不安を鎮めるように、ゆっくりとその場を回りだした。いつもの悪戯っぽい目の光は鳴りを潜め、真摯な顔が取って代わっている。
そう、ジャニスは無謀なのではない。リスクを承知の上での申し出なのだと、ナーサはその瞬間感じ取った。
「……ペンって使い方によっちゃ、どんな攻撃魔法よりも強くなる。私はそれの正しい使い方をしたいと思ってるんだ。だから、協力するよ」
「ありがとう、ジャニス」
そう口にした途端、重い足枷が音を立てて外れたような気がした。
黒塗りのある歴史書のことを共有したのは、彼女が初めてだった。それが、どれだけ重たかったか、自分自身気づいていなかった。
『打ち明ける』ことがどれだけ大切か、ナーサは初めて学んだ気がした。
鏡に映った自分の顔には、いつも以上の輝きが宿っている。
マルフォイの娘なら常に感情を律せよ。感情をあらわにするな。好印象を与えるのに笑顔など不要だ。ほんの僅かに微笑みを保てば、それで十分だ──そんな祖父の教えを忠実に守ってきたが、込み上げる感情をどう制御すればいいのだろう。
ジャニスも歯を見せて笑った。その笑顔につられて、ナーサの頬も緩んだ。
「それはそうと、最近はヤックスリー兄弟とは一緒にいないね?」
「うん。ちょっと……色々あってね」
「残念そうだね。あの二人のこと、好きだったの?」
ナーサはじっとジャニスの目を見つめた。彼女の訊く『好き』は、グレイスやメイジーがはしゃぎながら言う言葉とは違って聞こえた。だから、頷いた。
「そう、だね……一緒にいるのが当たり前みたいに感じてた。でも、それって依存だったのかなと思って。
一方的に寄りかかるだけじゃなく、ちゃんと並び立てるような関係になりたいって……そう思ったの」
「そっか。実はさ、私たちの軽口が原因で、リラルド・ヤックスリーと喧嘩したのかなって心配してたんだ」
ジャニスは踵で床を叩きながら、気まずそうに足元を見つめる。
「あんた、あいつと仲よさそうだったのに、私達バンバン悪口言ってたっしょ? でもさ……仲のいい相手の悪口言われるなんて嫌だったよね、ごめんね」
ツンとした痛みが鼻を通り、ナーサは思わずうつむいた。自分の痛みをちゃんと分かってくれる人がいた──それが、こんなに嬉しいことだなんて。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえるなんて思わなかった」
滲むような声が、自分の耳に入る。
顔を赤くしたジャニスはもう一度笑った。悪戯を叱られた後の子どものような顔だった。
「ホグワーツって第二の家みたいなものでしょ。その中でも、ルームメイトって七年間ずっと一緒なの。学校での家族みたいなものだって思ってるんだ。
だからさ、たまに揉めたりしても、きっとまた元通りになれる。グレイスにメイジー、それにアリッサだって……きっとまた皆で笑える日がくるって私は思ってるよ」
家族──それは夢のように温かく、希望に満ちた言葉だった。まるで春の日差しのように穏やかで、優しい。
本当は『家族』というものは、こうしたものではなかったか。父と母と暮らしたスコットランドでの暮らしは、祖父の屋敷の冷たい静けさとは違ったように思える。
ジャニスと別れると、ナーサは部屋には戻らずに少し遠回りをしながら大広間に向かった。
出立の時刻が迫っている。すでに外で待機している生徒達のざわめきが風に乗って、ナーサのもとにまで届いた。
やがて、時計台の鐘がしめやかに鳴り響く。
窓から外を見下ろすと見慣れた姿を認めた。陽の光を受けて燦々と輝く金色の髪。遠目からでも一際目を惹く立ち姿。
(……ケイレブ)
早々と出てきた低学年の生徒達を導く姿に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。いつかの自分の姿が重なり、懐かしく、そして苦しかった。