二週間のイースター休暇は帰省する生徒が大半だった。
グリフィンドールで残ったのはナーサただ一人で、今朝までの喧騒が嘘のようだった。パン一つだけをつまんですぐに立ち去った朝食の時は、まだ生徒の影がチラホラと感じられたというのに。
その静けさに追い立てられるように昼食に向かったが、ガランとした校内は異様に感じられた。
まるで生ある者は自分だけになったような──そんな心細さに震えながら大広間に入り、足を止めた。
四つ並んだ長テーブルや教職員用テーブルは跡形もなく消え去り、中央には大きなテーブルが一つだけ置かれていた。生徒が数人掛けていたが、学年も寮も接点がないのか、会話はなく、ひどく居心地悪そうに見えた。
その時、背後から石床を叩く金属音が鳴り響いた。聞き覚えのある靴音に振り返ると、リラルド・ヤックスリーが駆け寄ってくるところだった。
「……あっ。家に、帰らなかったの?」
帰省する生徒達を先導するケイレブの後ろ姿を見ていたから、彼もてっきり帰ったのだとばかり思っていた。
リラルドは鼻のソバカスを消すように擦りながら、ぎこちなく言った。
「ああ。やることがあったし」
「やること?」
「まあ──学期末試験に向けた追い込みだ」
リラルドはボソリと言ったが、その笑みは何処か不自然だった。まるで、それ以上深く踏み込むなというように、視線はすぐに逸らされる。
いつも真っすぐに見つめてきた青い目が、遠く感じられた。
「……お前も、残ったんだな」
「うん。あたしは調べ物をしたかったから」
そして、それはナーサも同じだった。
リラルドと、もっと深く話したくて調べ始めた黒塗りの歴史書──ケイレブが真実を知っていることを思うと、リラルドに聞けば糸口が掴めるのではないかと思う。
けれど、もうそれを話そうとは思わない。あの兄弟の亀裂をさらに広げることになりそうで怖かった。
物珍しげに振り返る視線を感じて、ナーサは目顔で詫びて、そのままテーブルに向かおうとする。
けれど、リラルドが足を踏み出す方が早かった。
「なあ、一緒に食おうぜ」
その声は思ったよりも近くて、ナーサの足は止まった。
「……ごめん。試験に向けて、年号を暗記したいと思ってたの」
「食事中にか。ヤーセリィス、ヤケン?」
もう何度目かの『マジかよ』という響きに、ナーサは泣きたくなった。
図書館で彼を真似た、拙いスコットランド英語──途端に笑い転げたリラルドを思い出した。あんなにも近かったのに、今は遠く隔たれてしまった。
涙の影を見られそうで、うつむいた。彼の両の拳が、もどかしげに何度も握りしめては解かれる。
筋張った手に、まだ革手袋はなかった──うっすらと浮いた血管は、ナーサに温かさを譲ってくれたせいだ。
「……お前、やっぱり俺のこと……避けてるのか? 怖いのか、俺のこと」
その声は静かで、怒りも悲しみもなかった。ただ、自己嫌悪だけが滲んでいる。
ナーサは思わず、顔を上げた。
リラルドが怖いんじゃない。ケイレブに激昂したのも自分を守るためだったと分かっている。
そして、ケイレブも、彼なりに自分を守ろうとしていたことは事実なのだと思う。
二人とも、自分さえいなければ、あんなに激しい断絶にはならなかった。軽口を言い合って、許し合える兄弟だったのだから。
だから、距離を置いた。せめて、ケイレブが卒業するまで波風を立てなければ、きっとまたリラルドとは仲よくなれる。ケイレブとも時間が経てば、いずれ歩み寄れる。そう思っていただけなのに。
(仲直りしたい。でも、それは今じゃない……)
どう言えば、伝わるだろう。乱れた思考はまとまらず、言葉が出てこなかった。
トン、と軽く肩を叩かれた。振り返ると、そこにはロングボトム先生が立っていた。
「やあ、マルフォイ。それに、ヤックスリー」
「ロングボトム先生……!」
心からの安堵の声に、リラルドの眉が引き攣るように動いた。
「よかったら一緒に食事しないかい? 昨日から徹夜で植物の世話をしていて、人との会話に飢えてるんだ」
「はい、喜んで」
ナーサは反射的にそう答えてしまっていた。
その瞬間、靴底が石床を叩く小さな音が響いた。ハッと振り返ると、見捨てられた子どものような目でリラルドは立ち尽くしていた。
その視線に射抜かれ、ナーサは小さく息を呑んだ。
答え方を間違ってしまった。まるで、彼以外の誘いなら喜んで受けるように聞こえたのではないだろうか。
ロングボトム先生はリラルドに向かって微笑みかける。
「ヤックスリー、君もどうかな。
大丈夫。今日はレモンバームとローズマリーのオイルを念入りに塗ってきたんだ。ほら、土臭くないだろ?」
先生はそう言い、リラルドに両の手のひらを見せた。先生の手はカサついて白ばんでいる。
彼は一瞬目を見開き、それからフンッと鼻先で笑った。
「先生の手には、もう土が染み込んでますよ。そんなもんじゃ、消えない……でも、まあ、努力は認めます。いつもよりはずっといい」
「はは。手厳しいな。だが、褒め言葉として受け取っておくよ」
薬草学なんざ、クソつまんねぇ──いつかリラルドが言っていた暴言を思い出して、ナーサは小さく笑った。口は悪いけれど、彼の場合、言葉だけが全てじゃない。改めてそう思った。
テーブルの端に先生が座ると、リラルドの目がじっとナーサを見つめた。先に座ると、すぐ隣に彼が来る気がして、まごついてしまう。
すると、先生がリラルドに笑いかけた。
「ヤックスリー、私の隣においで。君とは一度ゆっくり話してみたかったんだ」
その言葉にリラルドの身体が一瞬硬直した。
温かい言葉が自分に向けられたのが信じられないというように目を瞬かせ、見る間に顔が紅潮していく。
僅かに遅れて、ぎこちないが確かな微笑が浮かんだ。
小さく頷くと、彼は大人しく先生の右隣に掛けた。普段は教授にさえ反抗的な態度を見せる彼の、意外な顔だった。
ナーサは先生の斜め向かいの席に腰を下ろした。少し距離がある分、安心できる。春風が胸を吹き抜けたように頬が緩んだ。
ふと視線を上げると、リラルドもほんの僅かに口の端を上げていた。
先生はシチューをよそい、まずはナーサに。次にリラルドへと渡した。
ナーサはスプーンに手を伸ばしかけ、革手袋の存在を思い出した。ここのところ、着けているのが当たり前になっていて失念していた。
汚さないように慎重に外すその手元を、リラルドはじっと見つめていた。
「二人とも、学年末試験の準備は進んでいるかい?」
「はい。できれば、首席を目指したいと思っています」
ナーサは背筋を伸ばして、囁いた。少し勇気が要ったが、口にしてみると、目標が一層はっきりとした気がした。
「強力なライバルがすぐ隣にいるね。君はどうだい、ヤックスリー?」
「座学の総合得点なら、彼女に分があると思います」
リラルドはナーサに目線を移すと、軽く身を乗り出してニヤリと笑った。
「実技なら絶対負けねぇけどな」
「ねえ。もしかして、あたしが座学だけのガリ勉と思ってる? 実技だって負けないんだから」
ほんの一瞬、空気が変わった。二人の間の重たい空気が溶け、あの図書館で並んで勉強していた頃に戻れた気がした。
それからしばらくの間、三人は和やかに食事を続けた。先生が日常の他愛のない話題を振ってくれるから、気まずい沈黙が訪れることもなかった。
ふと目が合えば、リラルドは照れくさそうに目を逸らし、ナーサも同じようにスプーンを見つめて微笑を浮かべた。直接的な会話はなかったが、それだけで十分幸せだった。
その穏やかな時間が終わりを告げたのは、対面に座っていたスネイプ先生が、静かに立ち上がった瞬間──黒い滝のように影がせり上がった途端、リラルドの目に陰りが生じた。
食べかけのパンを皿に戻し、名残惜しそうにロングボトム先生とナーサの顔を順に見た。
「ご一緒できて楽しかったです、ロングボトム先生……マルフォイ」
そう言い置いて、リラルドは席を立った。滑るような黒いローブの裾を追って、彼は行ってしまった。
春先の温もりが、つむじ風にさらわれるように消えていく──冷ややかな空気だけがテーブルの上に取り残された。