ロングボトム先生と別れた後は、一人で図書館へと向かった。
他の場所同様に、ここにも生徒の姿はなかった。けれど、もとより静かな場所だから違和感はない。むしろ、この静寂に溶け込むようにすると、心が落ち着いた。
気づけば、足は自然と奥側にある学習室に向かっていた。そこはリラルドとスコットランド英語のやりとりをしたり、一緒に勉強した馴染みの場所だった。
今は何の約束もしていない。彼はついさっきスネイプ先生の後を追った。それなのに無意識のうちに同じ道を辿っていた自分に気づいて、ナーサは足を止めた。
高々と居並んだ書架を振り返る。午後の日差しを受け、微かに舞う埃が金の粒のようにきらめいている。
その幻想的な光景の中、黒い影を一つ、視界の端に捉えた。
(──リラルド?)
トクトクと早鐘のように胸が鳴る。
もしかしたら、自分を追って彼が戻ってきたのではないか。そんな淡い期待が胸をかすめ、ナーサはそちらに足を向けた。
けれど、悠然と姿を現したのはアシュタロス・クラウチだった。
いくつもの分厚い本を抱えたその姿に、ナーサは息を呑み、それから小さく息を吐いた。
残念だったのか、安堵なのか──自分にもよく分からなかった。
(でも……この人にも近づいちゃ、駄目なんだ……)
祖父の言いつけを思い出し、ナーサはバッグを胸元に引き寄せた。
けれど、避けるまでもなかった。
一瞬だけ視線を交わしたクラウチは遠くに立ったまま、視線を落とし、何かを考え込んでいるように見えた。
心に小さなさざ波が立ったが、それもすぐに凪いだ。
ナーサは歴史の書架のところまで進み、高い段を見上げた。自分の背丈よりも低い段はとっくに読んでしまっている。
その時、隣の書架付近に置かれていた金属製の脚立が目に入った。四段もあるそれは、自分の身長よりも高い。
畳み方もよく分からないまま、根元を両手で持ち上げてみた。革手袋越しにも、ひんやりとした鉄の硬さと冷たさが伝わってくる。少し重たかったけれど、何とか運べそうだった。
本棚にぶつからないよう横歩きしながら、歴史の書架まで運んだ。それから金属の段に足をかけ、一段一段と慎重に上っていく。踏みしめる度に金属が軋み、静寂に吸い込まれるように消えていく。
天板の上に乗っても、最上段の棚にはまだ届かなかった。
ナーサは棚に手をかけ、軽くつま先立ちをしながら一冊一冊、背表紙を確認していった。
気になるタイトルに手をかけ、軽く指を手前に動かす。けれど、みっちりと詰まった本はほとんど動かなかった。
脚立がきしりと小さく鳴った。
(あと、もう少し……!)
力を込めようと、重心を前に移したその瞬間、足が頼りなく宙に浮いた。
反射的に体を戻そうとしたが、今度は脚立の上部を足で払ってしまう。金属が大きく軋み、不自然に浮いた脚立が倒れていくのがスローモーションで見えた。
そして──次の瞬間、けたたましい音が静まり返った図書館に絶望的に響き渡った。
荒い息が肺を満たす。ナーサは自分の背丈よりも遥かに高い棚に片手だけでしがみついたまま、指先にじわりと汗を滲ませていた。
杖は右ポケットの中だ。今の姿勢では、左手では届かない。
布地の余った革手袋がずるりと滑り、次の瞬間、悲鳴がこぼれた。
開いた自身の手が、何物も掴めず、落ちていく──。
ギュッと目を瞑ったが、衝撃は訪れなかった。
そろりと片目を開くと、身体が地面すれすれのところで宙に浮かんでいた。横髪がふわりとたなびき、ローブの袖口も、裾も、波のように揺れている。
それは、まるで大きな水滴の中に閉じ込められているような感覚。
「──大丈夫か?」
少し離れたところで、アシュタロス・クラウチが杖を構えていた。浮遊呪文で助けてくれたのだ。そう気づいた途端、ドッと汗が噴き出した。
「……ありがとう、ございます」
足がゆっくりと床についた途端、不意に重力が戻った。支える身体の重みを思い出して、脚がガクガクと震えだす。
みっともなく倒れるわけにはいかないと、ナーサは懸命に本棚に手を伸ばして身体を支えた。
クラウチは礼の言葉には何の反応もしなかった。ただ、金がかった琥珀色の目を細めて、ナーサを静かに見つめていた。その目からは感情というものが一切読み取れない。
けれど、そこには狼や、ライオンのような光が宿っていた。荒々しさではなく、気高さの象徴のように。
「その本、何度借りた?」
「……え?」
ナーサは頭上を仰いだ。取ろうとした本は、前に大きく迫り出したまま、棚の上に残っている。
すると、彼は静かにナーサのバッグを指差した。
「黒塗りのある歴史書のことだ」
まるで何が入っているのか、見透かしているかのような鋭い目だった。ナーサはバッグを抱きかかえて、思わず後退った。
ケイレブもこだわっていた、この歴史書──クラウチも何かの意図を持って、ここにいるのではないか。さわさわと冷気が肌を滑り、粟立たせていく。
クラウチはナーサの怯えに気づいたのか、握ったままだった杖をポケットにしまった。
「旧体制の頃の歴史書には検閲がかかっているんだ。借りるだけで監視の対象だ。
延長五回で、周囲の人間にも疑いの目が向く。延長十回で『ルクスの鎖』の尋問員が飛んでくる。
興味本位なら、やめた方がいい。『マルフォイの娘』なら多少は大目に見てもらえるかもしれないが、それでもきっと怖い目に遭う」
「何でそんなこと……」
ナーサは思わず喉を鳴らした。
クラウチの声にはおよそ温度が感じられない。抑揚のない口調には微塵の揺らぎもなく、まるで未来を見透かす予言者のような重みがあった。
──弟は何でも『教えて』くれるからね。
脳裏に蘇る、あの日のケイレブの声。いつもと同じ柔らかく優しい声だったのに、まるで──ケイレブの姿を借りた何者かのような語り口だった。
ナーサは思わず両耳を塞いだ。
閉ざされた聴覚に、もう一つの声が響く。
──何処まで監視すりゃ、気が済むんだよ!
図書館で聞いたヤックスリー兄弟の言葉が、パズルのようにピタリとはまった気がした。
「監視……ケイレブは。あの人が、監視なの?」
目をすがめたクラウチは、深く鼻から息を吐いた。呆れたのでも、馬鹿にしたのでもない。ただ、何処までを明かすかを推し量っているような躊躇いを感じた。
「……彼だけじゃない。このホグワーツの……いや、この国のありとあらゆるところに目と耳がある。それがいつ使われるかは誰にも分からない」
「どうして……あなたは、そんなことを知ってるの?」
震える声で訊くと、彼は恥を忍ぶように目を伏せ、ポツリと呟いた。
「僕の父が、取り締まる側だから。
そして……僕もそれを知る立場にある。忠告はしたぞ、ミス・マルフォイ」
クラウチはふいっと目を逸らした。立ち去ろうとしていることに気づいて、ナーサは咄嗟に引き留めようと、思わず一歩踏み出した──その足先が、床に転がったままだった脚立に当たる。
吐息のような、か細い悲鳴が口から漏れた。
弾かれたようにクラウチが振り返った。その視線が、手を当てた膝に向けられる。それは本当に一瞬のことで、見てはならぬものを見たかのように目を伏せ、すぐに顔を背けた。
ナーサは立ち上がって、膝の汚れを払った。顔を赤らめたまま、思い切って疑問を口にする。
「あの。もしかして昔、何処かでお会いしたことありますか?」
「僕と……君が?」
彼はゆっくりと目を瞬いた。まるで蝶の羽ばたきを思わせる動きだった。
「ええ。どうしてか分からないけど、初めてお見かけした時から、ずっと懐かしい気がして」
不意に、琥珀色の瞳が光を帯びた。空気が揺らぎ、ナーサは大きく息を呑んだ。
それは、怒りなのか。哀しみなのか。彼の目に様々な感情の影が駆け抜け、まばたきをするほんの僅かの間に跡形もなく消え失せた。
「……いいや。きっと人違いだろう」
クラウチは無機質な声で答えると、踵を返した。今度こそ、彼は振り返らなかった。