イースター休暇が終わり、ホグワーツはまたざわめきと笑い声に満ちた。けれど、その喧騒の何処にもナーサの居場所はなかった。
リラルドとの亀裂は、もう修復できないところまできてしまった気がする。
『もしかしたら』と願った希望は、落としたガラス細工のように粉々に砕け散ってしまった。欠片を拾い集めたところで傷がつくばかりで、元通りに直せる見込みもない。
寮ではアリッサも、グレイスも、メイジーもひどくよそよそしかった。
ナーサが部屋に入ると会話が止まったり、挨拶も滅多に返ってこない。窓の向こうの室内を見ているように、赤々と燃えた暖炉も、賑やかな声も遠く感じた。
唯一の救いは、力を貸すと約束してくれたジャニスの存在だ。
休暇明けの翌日。彼女に導かれ、三階にある『嘆きのマートル』のトイレに向かった。
誰も寄りつかない陰気なゴースト、マートルは運がいいことに何処か別な場所にいるようだった。
ジャニスは個室一つ一つを開けて、誰もいないことを確認してから一番奥へと手招きした。二人で小さな個室に入り、鍵をかける。
「あのこと調べてみたよ。
父さんもなかなか口を割らなくて……うちに置いてる本を漁ったり、父さんのオフィスに押しかけて、古い新聞を片っ端から漁ってみたんだよね。
そしたら、一九八一年にものすごい数の魔法使いが亡くなっていることが分かった」
「一九八一年……?」
母の生まれ年だ──気づいた瞬間、ナーサは拳を握りしめた。忘れかけていた母の年齢が、頭をよぎる。
ジャニスは手帳の間から折り畳んだ一枚の新聞を取り出し、慎重に開いていく。相当古いらしく紙は傷んで、色褪せている。
「どの日もお悔やみ欄が、すごいことになってたの……見てよ、これ」
日付は十一月五日。ガイ・フォークスの日だ。
サラッと見たお悔やみ欄末尾の『ウィーズリー家』は、保持していたマグルの車が引火した爆発事故に巻き込まれた、とあった。
ナーサはその一節の『家族八名』という文字に目を留めた。そして、その下に小さく記された一行を読んだ途端、心臓が一拍飛んだ気がした。
(生後二ヶ月の女児、ジニーは行方不明……?)
母の名前ジネヴラの愛称は『ジニー』。
母の生年。生後二ヶ月の赤ん坊。行方不明。
突飛な考えが思考を支配しているのに気づき、ナーサは首を振った。
『ジニー』という愛称は決して珍しくない。一般的なのは『ヴァージニア』だろう。本名が『ジニー』の人だっている。
(……違う。そんなはずない……考えすぎ、だよね)
ナーサは冷えていく指先を擦ると、濡れた布のように纏わりつく胸騒ぎを振り払った。
「ねえ、お悔やみ欄って普通はどのくらい?」
「魔法使いだけのリストだし、お悔やみ欄がないことも珍しくないよ。日によってばらつきはあるけど、多くて五人くらいじゃないかな。
なのに、この年は毎日十人以上が死んだり、行方不明になってる。おかしいでしょ? それも殺人とか物騒なものじゃなくて、家庭での不幸な事故とか……そんなのばかり」
ナーサはゴクンと喉を鳴らした。
不自然すぎる。まるで不幸な事故はあったけれど、世の中はご覧の通り平和ですと言わんばかりだ。
「それって……改ざんされてる?」
目を凝らせば、その痕跡が何処かに潜んでいる気がして、ナーサは新聞から目が離せなかった。
ジャニスは全ての行を読み直すように、すいっと指を滑らせた。
「……うん。真実の鋭さが、感じられない。整えられた紙面って感じがするよ。
そっちは何か分かった?」
一瞬、サー・ニコラスの深刻そうな顔が頭をよぎったが、ナーサは頷いた。ジャニスの耳に手を当て、可能な限り声を落とした。
「誰からかは言えないけど、歴代のホグワーツ校長を調べてみるように言われたの。もしかしたら……一九八一年に校長だった人が分かれば、何か手がかりが掴めるかも。
ただ、一週間図書館を調べたけど、校長の記録を見つけられなかったの」
ジャニスは便座の蓋に腰かけると、グシャグシャと頭をかき乱した。
「うーん。本からは調べられないとなると……どうすればいいかな」
新聞を元通りに畳んだ時、ふと、お悔やみ面の裏側に写真が載っているのに気がついた。
写真は話せない。けれど、もしかしたら。
「──肖像画。ある程度の地位にある人って肖像画を描かせるよね。校長先生の肖像画ってないのかな?」
「ありそう! あんた、すごいじゃん、ナーサ!」
勢いよく立ち上がったジャニスが、両手を取った。
ナーサはシッと人差し指を口に当て、首を振った。ジャニスが慌てて口を塞ぐと、声を落として続けた。
「あるとしたら、校長室とか?」
「校長室か……何処にあるんだろ。
そういや、デニス・マクガバンが、クリスマス休暇明けに呼ばれたって言ってたっけ」
デニス──聞き覚えのある名前を頭の中で思い巡らせ、ナーサはハッとした。
「もしかして、ミス・マクドゥガルの『友達』の?」
クリスマス休暇の帰省の汽車でケイレブと見た、二人の親密な空気。リンジーの髪を結い上げていた少年の優しい手つきと、目の奥に秘められた熱。その直後、茫然自失していたケイレブ。
クリスマス休暇中に彼が襲われたと言って、泣きじゃくっていたリンジー。その直後に会ったケイレブは……本当に何も知らなかったのか、白を切っていただけなのか、ナーサにも分からなかった。
「デニスに聞いてみよっか。さりげなく校長室の様子とかさ」
「でも……『何を』調べてるのかは、あまり知られたくない。自分の目で確認したい。
寮じゃなく、こういう……人けのないところで話せたらいいけど」
黒塗りのある歴史書を借りただけで監視がつく──クラウチの話を思い出し、首筋に震えが走った。
ジャニスは腕組みをして、目線を落とした。
「ここ、女子トイレだしね。さすがに……いや、でも待てよ。あそこなら」
ジャニスが提案したのは、四方をアーチの列柱に囲まれた中庭だった。冬場は吹き抜ける風が容赦なく肌を切りつけ、皆がそそくさと小走りになる場所だ。
大分日も長くなったとはいえ、白味を帯びた日差しは明るいだけで暖かみが感じられなかった。今日から四月になったというのに、春の風はまだ遠い。
浅く溶け残った雪は、思った以上に足音が響いた。
木の陰に身を隠しながら、ナーサとジャニスは二の腕を抱いて震えていた。コートを着て、マフラーを巻きつけても、カチカチと歯が鳴るほど寒い。
「こ、このままじゃ……凍っちゃうんじゃない?」
「き……きつい〜。ナーサ、今、何時か分かる?」
「三時……三十五分……!」
「ちょ、ちょっと待ってて。あと十分もしたら……」
回廊の向こうから誰かの声が聞こえてきて、慌てて歯を食いしばる。止まらない震えに、白い息がふわりと立ちのぼる。こんな風にしていて隠れていると言えるだろうか。
大勢の足音が通って消え、さらに待つこと数分……いや、数十分だろうか。鼻はツンと冷たくなっていたし、足は感覚がなくなってきている。タイツの下の素肌はきっと紫色になっているに違いない。
声を出すのもつらく、うつむいているとまた話し声が聞こえてきた。
「……本当に?」
「ああ。君は心配しすぎだよ」
声が近づいてきた。雪を踏みしめる重たい足音が伝わってくる。ナーサはジャニスと顔を見合わせた。
「ヤックスリーが何かしたなら正直に言って……まさか、あいつに脅されてるの?」
ナーサは目を見開いた。凛としたスコティッシュ・アクセント──リンジー・マクドゥガルの声だ。怒りよりも不安が滲み出ている。
ほんの僅かでも身じろぎしたら、足元の雪が鳴りそうで、ナーサは固まっていた。
すぐに溜息混じりの声が響く。
「そんなわけないって。
君は……あの人のことになると、冷静じゃいられないんだな。そんな人じゃないって君が一番知ってるだろ」
「もうっ……なんで、あんたの方があいつのことを信じてるの!
ケイレブの優しさは見せかけなの。全部演技なの……! 騙されないでよ、デニス!」
ギュッ、と一際重たい足音と同時に叫びが漏れた。まるで自分に言い聞かせるような必死さが感じられた。
何処かの木の枝から、音を立てて雪が落ちた。デニスが消え入りそうな声で続けた。
「僕は……あの人を本気で好きだった君を信じてるんだよ」
その言葉を聞いた途端、伸びたリンジーの影がビクンと跳ねた。
(……これ以上、聞いてちゃ駄目!)
ジャニスが袖口を押さえようとしたが、それを振り払ってナーサは木陰から出ていった。
「……あの!」
リンジーとデニスは弾かれたように振り返り、どちらからともなく繋いでいた手をほどいた。
ナーサは思わず顔を赤らめた。
「ごめんなさい……出ていくタイミングが、分からなくて」
「ちょっとデニスに話があって、待ち伏せしてたの……二人がいつもここに来るの、知ってたから。デートの邪魔するつもりじゃなかったんだけど」
木陰に半分身体を隠したままのジャニスがこぼした。
デニスはバツが悪そうに目を逸らし、リンジーは腕組みして素っ気なく言った。
「……デートじゃないって。ただの友達。
それで、デニスに何の用?」
ナーサはデニスに視線を移した。
「あたし達、校長室に行きたいんです。場所を教えてもらえませんか?」
ナーサの言葉にデニスは探るような目を向け、リンジーの表情は一瞬で険しくなった。
リンジーはナーサの両肩に手を置くと、低く囁く。
「……探偵気取りで嗅ぎ回るのはやめときな。組分けの儀で、グレイスがどんな目に遭ったか、忘れた?」
「探偵気取りなんかじゃないよ。もちろん組分けの儀のことだって忘れちゃいない……だって私達のルームメイトだよ」
ジャニスは勝ち気な眉を歪め、尖った声で言った。
ナーサも頷き、リンジーの手をそっと外した。
「あたし達……不当に取られたものを、取り返したいだけなんです」
リンジーは溜息を一つ吐くと、ひたとナーサを見つめた。
「マルフォイ。やるなら、あんた一人でやりなさい。あんたは捕まっても罰せられないから」
「どうしてですか?」
リンジーは一瞬唇を噛み、それからはっきりと言った。
「『血の盾』があるからね。マルフォイの名前は偉大だから。多分、アンブリッジも魔法省も、あんたに手を出すことはできない。
そんなもの、望んでないと思うけどね……本人の意思なんか、関係ないの」
ナーサは目を瞬いた。ふと、アシュタロス・クラウチも同じようなことを言っていたのを思い出す。
『マルフォイの娘』なら多少は大目に見てもらえるかもしれない──あれは、こういう意味だったのだろうか?
「僕もそう思う。ジャニス、君には階級の後ろ盾もない。
捕まったら普通に罰せられる。それも過酷な罰をね……それが今のホグワーツで、今の社会だ」
ジャニスの顔からサッと血の気が引いた。それは寒さのせいとばかりは言えない。
新聞記者の娘で、自身もジャーナリスト志望のジャニスには、それが真実だとうっすらと分かっていたのだ。
ナーサは背筋を伸ばし、きっぱりと言った。
「ご忠告ありがとうございます。あたし、一人で行きます」
「ナーサ! 私、ちゃんと覚悟できてるよ!」
縋りつくようなジャニスの叫びだった。恐怖を呑み込んで、それでも消え入りそうな勇気を灯そうとしている。
そうと分かるだけに、ナーサは自分の身体の一部を切り捨てるような痛みを感じた──それが彼女のためだと信じているのに。
「……元々、あたしの調べものだったでしょ。もう十分すぎるくらい手伝ってもらったもの」
「二人だから、こんなに進んだんじゃない。最後まで付き合わせてよ……!」
「こうするのはどうかな」
穏やかな声で割って入ったのはデニスだった。
「まさか、アンブリッジがいる時を狙うわけじゃないだろ? 留守を狙うなら見張りがいるんじゃないか、ジャニス?」
「そっか。そうだよね!
ナーサ、それならいいでしょ。協力させてよ、これは私のジャーナリスト魂にもかかってるの!」
もっともな提案だった。けれど、もしジャニスを巻き込んで、彼女に残虐な罰が与えられたら──きっと自分が傷つく以上に後悔するに違いない。
ギュッと手を握りしめてうつむいたナーサから、意気込むジャニスへと視線を移すと、リンジーは口の端を軽く上げた。
「……気合い入ってんじゃないの。嫌いじゃないよ、そういうの。
マルフォイ。ここまで言われたんだから、この子も連れて行ったら。確かに見張り役はいた方がいい……ジャニスは機転が利くし、打ってつけだよ」
「校長室の入り口は四階のガーゴイル像の前。
合言葉は『ニーズル』だったかな……まだ変わってなきゃだけど……。
悪いけど、これ以上は僕達も手を貸せない。幸運を祈るよ、二人とも」
デニスとリンジーが回廊の向こうへ消えると、ナーサはジャニスと向き合った。
「……狙うならアンブリッジがいない時だよね」
「校長先生は毎日学校にいる。ただ、食事の時は大広間にいるよね。朝と昼はあたし達も授業があるし」
「うん。決行は夕食だ」
ナーサは首元のチェーンに指を絡め、懐中時計をギュッと握りしめた。
「……怖くないって言ったら嘘になるけど、これは絶対に知らなきゃいけないことだと思うの」
「二人なら、きっと大丈夫だよ。成功させよう」
その声を聞いた瞬間、胸の痛みが少しだけ和らいだ。ナーサは深く頷いた。
風に押されるように、二人は並んで歩き出した。