デニスに校長室の場所を聞いたその日に、ナーサはジャニスと二人で四階をくまなく探し、一時間ほどでなんとかガーゴイル像を見つけることができた。
陽が長くなってきたとはいえ、廊下にはすでに西陽が差し込み始めていた。廊下に居並んだ物々しい甲冑達が、今にも動き出しそうな不気味さをたたえていた。二人は大広間から遠い方の角を曲がったところで待機することにした。
「アンブリッジっていつも夕食に来るの、早かったよね」
「うん。早い時間でもいなかったことないよ」
爬虫類のような冷たい目を思い出し、ナーサは生唾を呑み込んだ。校長室に入るのは自分一人と決めたのに、いざその時が迫ると胃が痛くなってきた。
時計台から五時を告げる鐘の音が聞こえてくる。深呼吸していると、ジャニスが軽く手を握ってきた。彼女の手も小さく震えていた。
「じゃ、これから極力喋るのはやめよう。この城、音が響くから……きっとアンブリッジが出てくる音にも気づけると思う」
それから二人は物音が聞こえるのを待った。階段を行き来する足音が近づいた時だけ、顔を伏せ、ゆっくりと一階分階段を上り下りした。
すれ違う生徒に監督生がいなかったのは幸いだった。もし、ケイレブのような洞察力のある人なら、たちまちのうちに何かを企てていることに気づかれたかもしれない。
五時半過ぎに遠くから重たい物を引きずるような音が鳴り響いた。ナーサが廊下の端からそろりと顔を覗かせると、ガーゴイル像の陰からピンクのローブが見えた。
ナーサはジャニスを手招きし、一つ頷いた。
ヒールの音が石の床に鳴り響き、少しずつ遠ざかっていく。きっと大広間への階段に向かっているのだ。
じりじりと熱くなる胸の痛みを抱えたまま数分待つと、ヒールの音は聞こえなくなった。
二人はゆっくりとガーゴイル像の方へと歩いていった。
四階は『闇の魔術と防衛術』の教室くらいしかなく、場所もかなり離れているためか、廊下に生徒の姿は全くといっていいほどない。
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて。私は大広間側の階段に行って、もしアンブリッジが戻ってきたら何とか引き止めるよ」
ジャニスが廊下の向こう端に行ったのを見届けてから、ナーサは合言葉を口にした。
「『ニーズル』」
ガーゴイル像がズズズッと鈍い音を立てて床を滑る。まるで嫌々だが、避けてやるといった風だった。
像の裏に隠されていた壁がさらに左右に割れ、ぽっかりと空いた空間には階段が見えた。それも上へ向かって動いている。
豆粒のように小さくなったジャニスに手を振ると、ナーサはおそるおそる動く階段に飛び乗った。歩く必要もなく、勝手に上へ上へと向かっていく。
塔の外周をなぞる螺旋階段の一番上まで来ると、階段は緩やかに止まった。目の前にある樫の扉を形式通りにノックすると、部屋の主はいないはずなのに扉が開かれた。
高鳴る心臓を押さえながら足を踏み入れた先は、ふんわりと砂糖菓子のような甘い匂いが漂っている。
無機質な石壁に覆われた部屋の外とは反対に、中はチカチカするようなピンク一色で、ナーサは一瞬ここに来た目的も忘れて見入ってしまった。
アーチ状になった高い天井はその侵食を辛くも免れていたが、下半分は無残だ。
権威あるはずの机や椅子までピンクに染まり、ご丁寧にレースのクロスが垂れ下がっている。ふかふかしたクッションは繊細な猫の刺しゅうが施されたレースカバー。
ソファの前に置かれたサイドテーブルには、アフタヌーン・ティー用の金のデザートプレートと、リボンをつけた可愛い猫のぬいぐるみ……部屋の主を思い出し、ナーサは思わず口を覆った。
「誰だね、君は」
唐突に響いた男性の声に、ナーサはビクンと跳ね上がって周りを見回した。部屋には誰もいない──はずだった。
「最近の生徒という者はまったく……校長の留守中に不届き極まりない」
また同じ声が降ってきた。ナーサはハッと頭上を見上げた。円形の壁の高い位置に掛けられた、たくさんの肖像画……そのほとんどが目を瞑っていたが、たった一枚だけナーサを冷ややかな目で見下ろしている男性がいた。黒髪に、山羊のような口髭を生やしている。
ナーサは唾を呑み込み、ローブの裾をつまんでお辞儀をした。
「悪戯をしにきたわけではありません。
ここにいらっしゃる方は皆さん、歴代のホグワーツ校長先生でいらっしゃいますね。
一九八一年にホグワーツ校長を務められた方にお会いしたくて参りました」
肖像画達は狸寝入りしていただけだったようで片目を開けたり、隣の肖像画とヒソヒソ声で話し始めた。
ざわつく肖像画達の中で声を上げたのは、先ほどの黒髪の校長だった。
「無礼な生徒だ。教えを請うなら、まずは名乗るのが礼儀だと思わんのか? それとも、そんな道理も分からぬ『穢れた血』なのかね?」
「フィニアス、そんなことはなかろう。ここにはもうマグル出身者は入学できないのだから」
フィニアス──どうやら、それが黒髪の校長の名前らしい。ナーサは彼の顔をひたと見つめた。
「名乗れば、周りに迷惑が及ぶかもしれません……だから、言えません。申し訳ないです」
「はん。そんな者に何かを教えようとするかね。
いいか。我々、歴代のホグワーツ校長は、現役の校長に仕える義務があるのだ。君のこの問題行動も当然報告の対象だ」
──フィニアス、まだ下級生じゃないか!
──あの女がどんな罰則を与えるか、考えてもみろ!
フィニアス校長は歴代校長の中でも変わり者なのか、ナーサを擁護する声が多数だった。
鬱陶しそうに耳を塞ぎながら、フィニアス校長は目を眇めた。
「特別扱いなど、ためにならん。自分のしでかしたことは、自ら償うべきだ」
ナーサは他の校長達に目を移した。
「皆さんは……! このホグワーツが変わったと思われませんか? このままでいいと思ってるんですか?」
この人達も、かつては生徒のために尽力した人達なのだ、だから、ナーサを庇おうとしている。それなら話が通じるかもしれない──そう思って、声を張り上げた。
「今の校長先生は……組分けの儀で、新入生に気絶魔法をかけました。騒いだ生徒の見せしめに……それは普通なんですか? 許されることなんでしょうか!」
何枚かの肖像画はナーサから視線を逸らした。何かを口ごもったり、怯えたような目を向ける肖像画もあった。
フィニアス校長は髭を弄りながら、フンと鼻を鳴らした。
「愚かな生徒には、時として鞭も必要ではないかね」
ナーサは思わず口を覆った。
生徒を導くのではなく、従わせる──その発想が、あまりにも自然に語られたことが恐ろしかった。
(昔から……ホグワーツは、こうだったの?)
固い石の床が突然砂に変わったかのように、足元がグラついた。一九八一年以前から、この学校は腐敗していたのだろうか。
「いいや、フィニアス。それは違うだろう」
フィニアス校長のすぐ横にある肖像画が言った。ナーサがこれまで見たことがないほど皺くちゃの老人だった。
「ミス。ここに一九八一年に校長を務めた者はおらんよ。肖像画は作られなかったのだ」
「作られなかった……?」
ナーサの心臓が大きく飛び跳ねた。
フィニアス校長が肖像画のフレームに両手を叩きつけ、真横を睨みつけた。
「アーマンド、余計なことを教えるな!」
「私は長くホグワーツに仕えた。今の有り様をよしとすることはできん……皆はどうだ? アンブリッジのような女に校長を任せて悔しくはないのか?」
アーマンド校長は意外にもしっかりと通る声で他の校長達に問いかけた。
──仕方ない。今のような世の中では。
──そうとも。アルバス・ダンブルドアがいれば、こんなことにはならなかったが。
「アルバス・ダンブルドア……?」
波のように広がるざわめきの中で、ナーサはその名前を確かに拾った。
そして、ハッとした──。
黒塗りの歴史書。塗りつぶされた人名らしき部分を透かして見た文字の一部は『Dum……』と書かれていた。
フィニアス校長は歯ぎしりをするように叫んだ。
「ええい、余計なことを言うなというのに!」
「もしかして……アルバス・ダンブルドアという人が、欠けた校長先生なんですかっ? どうして、その方は肖像画を作られなかったんでしょうか。教えてください!」
ナーサはアーマンド校長の真下に駆け寄り、訴えた。
一瞬肖像画達の囁き声が途切れ、彼が震える唇を開きかけた──だが、響き渡ったのはフィニアス校長の神経質な声だった。
「ええい、それ以上聞けば、今すぐアンブリッジを呼びに行く! 脅しではない! さもなくば、すぐにここを出ていけ!」
校長室の外を指し示し、口角泡を飛ばして怒鳴るフィニアス校長が次の瞬間、肖像画から消えた──ナーサは息を呑み、後ろも見ずに校長室を飛び出した。
動く階段は来た時とは逆に下へ下へと動いたが、大人しく乗っていることはできず、一段飛ばしで駆け下りていった。
階段室を飛び出すと、待ちかねていたようにガーゴイル像が元通りの位置に戻っていった。
荒い息を吐いたまま、しゃがみ込んだナーサのところに足音が駆け寄ってくる。
「ナーサ! どうだった?」
ジャニスだった。半ば抱えるようにナーサの身体を支えると、廊下の角まで歩いていく。
「……分かった……名前……。
このまま図書館に行きたい。ジャニス、付き合ってくれる?」
「勿論だよ! よくやったね……!」
まだ夕食の時間帯だから、校内は閑散としていた。図書館のある二階へと急ぎながら、ナーサは道すがら、ジャニスに校長室での出来事を共有した。
「へぇ、一体何をした人なんだろうね。ホグワーツ校長が歴史書に載るなんて」
「『ダンブルドア』ってあまり聞かないファミリーネームじゃない。だから……もしかしたら純血の家系じゃないかって思って。
純血なら本人じゃなくても血縁者の情報が見つかる可能性があるでしょ。そこから探れば、もしかしたら黒塗りじゃない情報が見つかるんじゃないかって思うんだけど、どう?」
「なるほどね……時間はかかるかもしれないけど、ありだね。
夏休みになったら、私はもう一度父さんのオフィスを探ってみようかな。新聞からも拾える情報はまだまだ多そうだし」
「ごめんね、夕食時に……お腹空いてない?」
「いいよ。あとで一緒に厨房行こうよ! あんた、行ったことないっしょ?」
「ううん。イースター休暇の時に行ったよ。サンドイッチやケーキなんか、どっさりもらっちゃった」
図書館へ続く廊下に差し掛かったのは、ちょうどそんな話をしていた時だった。
大広間が近くなったせいか、遠くざわめきが聞こえてくる。
その時、背後から誰かの声が響いた。けれど、黒塗りの秘密のことでいっぱいだったナーサの思考は、それを関係のない音として弾いた。
次の瞬間、廊下に鋭いスコットランド英語が響いた──振り返るには少し遠すぎる距離。
ナーサは思わず足を止めた。
怒り……いや、焦燥だろうか。激情に任せた言葉は短縮され、音が潰れている。おまけに廊下を反響し、本来の音の響きが分からない。
(……この声、リラルド──)
ただ、耳を打った瞬間、涙のしずくが目元に跳ねた。さらに二つ、三つ……数えることもできなくなるほど、ほとばしる。
遅れるナーサを振り返ったジャニスの顔が、ナーサの顔を見て凍りついた。その視線が一瞬ナーサのずっと後ろに向けられ、戻された。
「もしかして、あれ……ヤックスリー? あんたに何か言ってた?」
石床を蹴る金属音が迫ってくる。見なくても全身が存在を感じている。振り返ればいいのに、ナーサの意思を離れて勝手に涙をこぼす目をどうしたらいいのだろう……。
震える手でポケットをまさぐり、ハンカチが手に触れた時──靴音はすぐ背後にあった。
ジャニスが「あっ」と短く叫んだ瞬間、左手を取られる感覚──ナーサは反射的にそれを振り払った。
同時に、左手が急に軽くなり、ひやりとした空気が素肌を撫でた。
──パサリ。
音を立てて床に落ちたものを追った瞬間、澄んだ空色の目と視線が交わった。彼の食いしばった歯がほんの僅かに緩まり、失敗を見咎められた子どものような顔になった。
ナーサは咄嗟に左腕で顔を半分覆い隠し、ジャニスに駆け寄った。
「……行こ。早く」
ジャニスは心配そうに何度かナーサとリラルドの顔を見比べながら、声を落とした。
「いいの?」
「……ここにいたくない。お願い」
ジャニスはすぐに頷き、ナーサの背中に手を回して小走りになった。
足音は追ってこない。よかった。
ナーサが唇を歪め、鼻をすすった──その時。
「Dinnae ye dare ignore me! Look at me, aye!」
まるで罵声のような音が響き渡った。怒鳴り声なのか、それとも……混乱した頭ではそれを正確に読み取れなかった。ただ、鋭く投げつけられた言葉の温度だけが、胸を覆った。
ナーサにも音しか聞き取れない、スコットランド英語……けれど、最後の言葉だけは、はっきりと分かった。
(『俺を見ろ』って──見たよ。
名前だって、呼んだ……勇気を出して。
でも、やめろって言ったのは、そっちじゃない……なのに、どうして、今なの?)
肩が震えてしまう。自分を形作る大切な部分が永遠に失われてしまったかのようだ。
ジャニスの手に不意に力がこめられた。それに甘えて目を瞑ると、熱い目元にハンカチを当てた。
あの汽車での涙とは違う。こんな顔をリラルドに見られたくなかった。v