歴史から消された校長、アルバス・ダンブルドア。
黒塗りの歴史書で大きな収穫があったものの、それ以降の調査は難航していた。
第一に、学年末試験が間近に迫っていた。
首席になるという目標を達成するために、これまで以上に勉強に打ち込む時間が必要だった。
第二に、黒塗りの歴史書の延長回数の制限が迫っていた。
アシュタロス・クラウチは延長十回で尋問の対象になると言っていたが、延長はすでに七回。『十回で尋問』なら、あと三回で境界線だが、安全なのは残り二回まで──また決定的な何かを掴むまで、安易に延長するのは避けたかった。
第三に、リラルド・ヤックスリーとの関係ですり減ってしまったナーサの精神は、勉強以外に何かに打ち込む気力が残っていなかった。
「無理することないよ。もうじき長い夏休みじゃん。あんたの家はすごい歴史があるし、もしかしたら帰省で手がかり掴めるかもよ!
……きっと今は休んだ方がいい時期なんだって」
ジャニスはそう言って、ナーサを少しも責めなかった。
その言葉に甘えて、無心で試験勉強に没頭することにした。またリラルドに会って心を乱されるかもしれないと考え、勉強は全て寮の部屋で行った。
ルームメイト達との関係もヒビが入ったままだったが、彼女達の方でもナーサを避けてくれた。互いに気まずい思いをする時間は最小限で済んだ。
二ヶ月は飛ぶように過ぎ、試験は無事に終わった。季節はすっかり春から初夏に向けてうつろぎ、暖かくなっていた。
ベッドサイドテーブルの引き出しにしまい込んだ、片方だけになってしまった革手袋。
ナーサは少し躊躇いつつも、久しぶりに右手にはめてみた。
(まだ、こんなにブカブカ……)
指先が余ってしまう大きな手袋を見下ろすと、乾いた笑みが浮かんでくる。
時間が経てば、ぴったりになるのだろうか。
今は噛み合わないリラルドとの関係も、時間が解決してくれるだろうか。
「ナーサ!」
ジャニスが部屋に駆け込んできた。
ナーサは素早く革手袋を外して、静かに引き出しにしまい込んだ。
「試験結果が貼り出されてたよ! あんた、一年生の首席だよ。やったね!」
「本当っ?」
「ほら、一緒に見に行こ!」
大広間へと続く廊下の壁一面に学年別の試験結果が貼り出されていた。もうとっくに情報は出回っていたらしく、大勢の生徒達で人だかりができている。
一年生の結果は大広間に近い側だった。一年生はまだ自分達の成績に関心がないのだろう。人もまばらで、前の方にいくのは容易かった。
「ほら、見て!」
ジャニスに袖を引かれて見ると、確かにトップに自分の名前がある。ナーサは息を呑んで見つめると、小さく拳を握りしめた。
「……すごい。本当だ」
「もっと喜びなよ! 澄ましちゃってさ」
ジャニスに肘で突かれ、ナーサは軽く俯いた。頬が勝手にピクピクと動くのを止められそうになかったし、同じく成績を見に来た一年生に顔を覗き込まれるのが恥ずかしくもあった。
落ち着いてもう一度掲示を見上げると、リラルド・ヤックスリーの名前は五番目にあった。
総合得点こそナーサの首席は揺るがなかったが、科目別で見ると『闇の魔術と防衛術』では大きく水を空けられている。ナーサの得点も満点に近くはあったが、彼はそれを遥かに上回る120点以上を叩き出していた。実技でどれだけ高難度のことをやったのだろう。
(やっぱり、すごい……リラルド。
伝えられたらいいのに……話しかけたら、もう迷惑だよね。でも……)
その時、七年生側の人混みがどっと湧いた。
「ケイレブ様、圧巻の首席獲得おめでとうございます!」
「さすがはミスター・ヤックスリー!」
ケイレブ・ヤックスリーとその友人達が人の波を割り、掲示を見上げるところだった。満足そうに頷く横顔は、以前と少しも変わらず柔らかい。
(ケイレブも首席だったんだ。
今なら皆の目がある……開心術を使われることもない、よね)
「ジャニス、少しだけ待ってて。あたし、ミスター・ヤックスリーと少し話してくる」
「……大丈夫?」
「もう、最後だから。ちゃんと話しておきたいの」
深呼吸しながら七年生側に向かっていくと、友人と話していたケイレブと視線がぶつかった。
彼は軽く目を見開いたが、次の瞬間には穏やかに笑んだ。あの図書館での一件など何もなかったかのように、彼の方からも歩み寄ってきた。
その瞬間、ナーサの心は花びらのように綻びた。
ケイレブとの間に築かれた深い溝は、いつの間にか埋まっていた。
つられて、ナーサの顔にも微笑みが浮かんだ。
あと少しで彼と話せる──そう思った瞬間、ケイレブの顔が何かの気配を嗅ぎ取ったかのように奇妙にこわばった。
それが何故なのかを考える間もなく、ナーサは誰かに肩を掴まれた。痛いほどの力に顔をしかめた瞬間、身体がグルンと回転していた。
よろめいたナーサの前に立っていたのは、リラルド・ヤックスリーだった。
血の気のない蒼白な顔。仮面のように硬い表情。ほんの数ヶ月前まで誰よりも近かった少年が、別人のような冷たい顔をしている。
「ふざけんなよ、てめぇ……」
喉を絞められたように声が出ない。
息を呑んだナーサを見る、澄んだ青空のような瞳が爛々と輝いている。
反射的に後ずさろうとした次の瞬間、彼の口から無数のスコットランド英語が飛び出した。まるで殴るような強さと、速さ。
『ignore』『high an’ mighty』──音も潰れて、何を言っているのか正確には分からない。
けれど、責められていることだけはひしひしと感じられる。まともに息を吸えない。
試験結果を見ていた皆が、何事かとこちらを見てくる。
リラルドは一瞬言葉を切り、眉間にしわを寄せた後で『mis……bairn!』と締めくくった。
『bairn(子ども)』という当たり障りのない単語につけられた『mis……』という音の響きがあまりにも不穏で、ナーサは無意識のうちに懐中時計を握りしめていた。
──あれ、ヤックスリーの末っ子と、グリフィンドールのマルフォイ?
──何。試験に負けたのが悔しかった?
無責任な言葉が、二人を中心に波のように広がる。
「リラルド、お前……今、何と言った?」
背後から北風のような声が通った瞬間、ガンッ──鋭い音を立てて、リラルドの身体が掲示の反対側の壁に叩きつけられていた。
一瞬遅れて、周囲から悲鳴とも歓声ともつかない声が広がった。
杖を構えたままのケイレブが、壁に磔状態にされたままの弟の方へ向かっていく。
リラルドは手足を振り回し、べたりと貼りついた身体を剥がそうと躍起になっていた。けれど、ギラリと光る目は兄に向けたままだ。
「うるせえ! てめぇに何か言われる筋合いはねぇ……! 全部てめぇのせいだ、ケイレブッ!」
噛みつくような口から唾が飛ぶ。
ケイレブの身体が一瞬硬直したように見えた。だが、彼はすぐに冷ややかな声で続けた。
「ナーサに謝れ。今すぐに」
「……俺は事実しか言ってねぇよ。てめぇが俺に教えたことだろうが! 離せ……って言ってんだろが!」
バチンッ──。
鋭い音が空気を伝ったと同時に、見えない何かが頬を掠めた気がした。
周囲のざわめきがうねるように大きくなり、思わず駆け寄ったナーサは、ケイレブの頬から細く血が伝うのを見た。
兄弟の間には確実に一歩分の距離が空いていた。リラルドは杖も持ってなかった。けれど、制御を外れた魔力が、見えない刃となって兄を襲ったのだ。
ケイレブは無言で手を傷口に当て、微かに濡れた指先を見つめた。
「お前は、ヤックスリー家の名に泥を塗りたいのか」
静かなその声の奥底には、抑えきれない感情の影が見え隠れしていた。
その途端、リラルドが腹を震わせながら笑い出した。両手で髪を掻きむしるように動かすと、剣先のように人差し指をケイレブに突きつける。
「てめぇは何でも正しいってか? 俺や、あいつに何したのか、ここでぶちまけてやるかっ?
胸張って言えんのかよ! 守る守るって言ってよ……! てめぇがぶっ壊してんじゃねぇか、全部!」
「黙れ」
「『ネイト』のことだって守れなかったくせに!」
その名が飛び出した途端、ケイレブの顔から一気に血の気が引いた。理性の檻が、音もなく崩れ去った瞬間だった。
「黙れッ──!」
いつも穏やかなケイレブが感情を剥き出しにした姿を、ナーサは初めて見た。まるでリラルドの激情の炎が燃え移ったかのように。
掲げた杖先が光を集約し、真昼の太陽のように眩い。
──誰か、先生呼んできて!
阿鼻叫喚の中、誰かの声が耳に入った。
二人を止めなければ、と思った。けれど、身体が言うことを聞かない。息が上がって、どうしようもなく苦しい。
その時、視界の端を温かみのある色がよぎった。ストロベリーブロンドの艷やかな巻き髪。
「お兄さま、リル! 二人ともどうかしてる……! やめてよ、本当!」
ミケイラ・ヤックスリーだった。素早く兄と弟の間に割って入り、自身も杖を引き抜いた。
ケイレブは杖先を僅かに妹から逸らした。けれど、構えはそのままだ。
「ミカ、下がれ」
彼はかすれた声で命じたが、ミケイラは退かなかった。両手を広げ、弟の姿を自らの身体で隠そうとする。
「嫌! 何でリルを傷つけるの! 悪いのは皆、あの子じゃない!」
ミケイラの指が自分に向けられた瞬間、ナーサはヒュッと喉を鳴らした。膝がガクガクと震えだす……まるで呪いをかけられたかのように。
ケイレブの目が、ナーサに向けられる。ほんの一瞬憐れみと後悔の色が宿った視線は、すぐに妹へと戻っていった。
「リラルドが彼女を侮辱した。ヤックスリー家の一員として恥ずべき行いだ。
決してミス・マルフォイのせいではない」
「こんな大勢の前で兄弟喧嘩なんかして、恥ずかしくないとでも思ってるのっ? お兄さま、リルが六歳も下なのを忘れてる! これ以上は私が許さないから!」
三竦みのようにヤックスリー兄弟が身動きせずに睨み合っていると、大広間側から物々しい足音が迫ってきた。
「こんなところで何をやっている」
話し声がピタリと止んだ途端、囁くように低い声が落ちた。スネイプ先生はナーサを一瞥し、それからヤックスリー兄弟へと目を移す。
「ヤックスリー……三人ともだ。我輩についてくるのだ。今すぐに」
ケイレブは無表情のまま杖を下ろし、ミケイラは安堵したような顔で……そして、リラルドは今なお燃えるような目で兄を睨みつけていた。
ローブのポケットに両手を突っ込み、スネイプ先生の後について真横を通り過ぎる一瞬、その目は不自然にナーサから逸らされた。
足に根が生えたかのように身動きができないままでいると、周りの視線が突き刺さる。
不意に肩を叩かれて、ナーサは跳び上がった。
ジャニスだった。唇をわななかせ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ナーサ……ごめん。私、動けなかった……」
その言葉は金縛りを解く反対呪文のようだった。緩んだ口元から熱い吐息が漏れる。
「そんなこと、ない。来てくれてありがとう」
歩くたびに世界が頼りなく揺れるようだった。けれど、ジャニスが手を繋いでくれたから、ふらつくことなく歩くことができた。
──兄弟でマルフォイ嬢の取り合い? 前もあったよね。
──さっきの、何て言ってた? 誰か分かる?
──マルフォイ、やっば! 魔性の女じゃね?
ひどく敏感になった耳が、色んな声を拾ってしまう。ナーサは毅然と顔を上げ、意識して口角を上げた。傷ついた時こそ、その傷を隠さねばならないと思った。
階段を上っていく最中、ナーサの頭の中を投げつけられたスコットランド英語が何度も蘇る。思考にこびりついて離れない『mis……bairn』という言葉。
「……ジャニス。あたし、図書館に寄っていくね」
「それなら、私も」
「ごめん。あたし、一人だけで調べたいことがあるの……一人じゃなきゃ、駄目なの」
こんな時だというのに……いや、こんな時だからなのか、ナーサは知りたかった。
リラルドが──あの包み込むような優しい音で傷ついた心を癒やしてくれた少年が、自分に何を言ったのか。ケイレブが何故あそこまで怒ったのか。
ジャニスは止めても無駄だと思ったのか、ナーサの身体を抱きしめた。その仕草は冷えた身体に、ほんの一瞬温みを思い出させてくれた。
名残惜しそうに離れるジャニスが背を向けると、ナーサは図書館に足を向けた。
*
心臓の音が落ち着く前に、ナーサは図書館にいた。
まずは古くからのスコットランド英単語の辞書を引き、『bairn』の意味から調べた。これはナーサの思った通り、スコットランド英語で『子ども』という意味の口語でしかなく、特に侮蔑的な意味はなかった。
けれど、あの投げつけられた音の響きと、ケイレブの怒りはその裏にある何かを確信させた。
(単語の組み合わせだ。『mis……』は形容詞?)
今度は標準英語の辞書を開き、しっかりと聞き取れた『mis……』から始まる形容詞を拾い集める。
(『misbegotten』……出来損ないの、かな。でも……しっくりこない。確かにひどい言葉だけど、古典的な言葉みたいだし。
『misplaced』……場違いな? ううん、『bairn』とは合わない。
『misguided』……的外れな、は違う。音が長すぎる。
あれは、もしかして形容詞じゃない? 『bairn』と組み合わせたスコットランドの慣用句?)
今度はスコットランドの方言集を調べ始めた。
何度も頭を捻りながらページを繰り、やがて一つの単語を探り当てた。
『mistress’s bairn』──婚外子。妾の子。
(そんな、まさか……)
指先が震え、危うくページにしわをつけてしまいそうになった。ナーサは目を見開いたまま、その単語を何度も指でなぞった。
自分を産んだ時の母の、若すぎる年齢。父の中途退学。
けれど、おかしい。例え若年とはいえ、子どもができたなら結婚したはずだ。
──ママはね、これから……毎晩、おじいさまと一緒に過ごすの。
不意に蘇った言葉は幻想ではない。いつか、何処かで耳にした母の声。
(パパは……パパじゃない? じゃあ、あたしは……『誰』の子ども?)
胃の中身が迫り上がり、ナーサは椅子から崩れるように床に落ちた。両手で口を覆い、なんとか衝動を抑えようとする。
写真一枚すら飾られず、禁句のように父の名を徹底的に排除してきた家。母を屋敷に閉じ込め、誰とも会わせようとしなかった祖父。
父のことを訊いた時のスネイプ先生の態度に、それを自然と遮ったケイレブ。卒業記念年報を探しに行く時の、リラルドのおかしな態度。
そして、先ほどのケイレブの激昂──全てが腑に落ちた。これまで心に留めていた小さな疑問の数々が、全て線となって結ばれた気がした。