試験結果が貼り出されたあの日から一週間が経った。
自分の根幹が揺らいだというのに、日常が流れていくのがナーサには信じられなかった。
ホグワーツに入学したばかりの頃、慣れない生活の中にもあった日々のきらめきはすっかり失われてしまった。何を食べても味がせず、誰かと話しても笑顔にはなれなかった。
あれ以来、リラルドの姿は一度も見かけていない。
大勢の前で騒ぎを起こしたから謹慎処分になっているのだとジャニスが教えてくれた。
けれど、ナーサはそれ以上知るつもりはなかった。自分の前に姿を見せないでくれれば、それで十分だった。
気温は夏に近づき、どんどん暖かくなっているというのに、ナーサの心は冬に逆戻りしていた。
深い雪の中に倒れ込んで目を瞑れば、どれだけ楽になれるだろうか……。
*
ある日、授業が終わって談話室に戻ると、誰かが声を上げて泣いていて、ソファの前には人だかりができていた。
誰だろう、と思う気持ちが全くなかったわけではない。ただ、それでもナーサは足を止める気にはなれず、人垣をすり抜けて女子寮へと向かおうとした──その時。
「リンジーと、デニスが……! 何でっ……」
飛び込んできた、その名前にナーサは息を呑んだ。
人の脇をすり抜けて前へ進むと、ソファで泣き崩れている女子が見えた。メイクがぐしゃぐしゃになっているのが痛々しい。
イアン・マクドゥガルが彼女の前にしゃがみ込み、肩を揺すぶっている。がっしりとした体格で、いつも自信に満ちているように見えた彼が、今にも倒れそうな顔色だ。
「チャーリー、頼む。もう一度……分かるように言ってくれ! リンが、誰に連れられていったって?」
「『ルクスの鎖』の……制服だった……呪文学の授業中に、急に……入ってきて。
けど、どうしてっ? リンジーとデニス、何かしたっ? 二人は……も、もう帰ってこないの……?」
リンジーの同学年の生徒達が口々に叫んだ。
『クラス違いの恋』『ミスター・ヤックスリー』『アズカバン投獄』──切れ切れの単語が飛び交い、ナーサは咄嗟に両耳を塞ぎ、女子寮への階段を駆け上がった。
心臓が跳ね上がり、胸を激しく叩く。うつ伏せにベッドに倒れ込み、きつくシーツを握りしめた。
(クリスマス休暇に、デニスは『誰か』に襲われた……リンジーは、ケイレブを疑っていた。
それに、ケイレブは……あの日、グリフィンドール寮の近くにいた……まるで、リンジーを見張りに来たみたいに)
校長室に潜入する手がかりをくれたデニス。
アドバイスをくれて鼓舞してくれたリンジー。
善良な二人。ただ、寄り添っていただけの恋人達……あの二人に、もう二度と会えない──。
口から悲鳴とも吐息ともつかない音が漏れた。
ナーサはベッドの周りのカーテンを閉め切り、布団の中に潜り込んだ。
*
それから、さらに数日が経った。
今度はスリザリンのミスター・ヤックスリーが消えたというニュースが持ちきりになり、その数日後にはグリフィンドールからイアン・マクドゥガルが忽然と姿を消した。
ミスター・ヤックスリーが、マクドゥガル兄弟を『ルクスの鎖』に売った。イアンも引っ張られていったに違いない。マクドゥガル家は高名な純血の一族なのに、体制に反逆した。
そんな無責任な噂がまことしやかに流れていたが、一週間ほど経った夜の大広間に、ケイレブ・ヤックスリーとマクドゥガル兄妹が連れ立って現れた。
スリザリンのテーブルは整然としたものだったが、他の寮……特にグリフィンドールは大騒ぎだった。皆が食事そっちのけで立ち上がり、マクドゥガル兄妹の無事をこの目で確かめようとする。
三人は騒ぎには目もくれず、まっすぐに前方の教職員テーブルへと向かい、アンブリッジ校長に何事かを告げた。
すると、ショッキングピンクのローブを纏った校長が立ち上がり、ガマガエルそっくりの大きな口でにんまりと笑った。
「皆さん、とても喜ばしいお知らせですわ。
こちらにいらっしゃるミスター・ケイレブ・ヤックスリーと、ミス・リンジー・マクドゥガルが、ご身内だけでの婚約を交わされたそうです!」
一瞬の沈黙の後、スリザリンのテーブルから拍手喝采が上がった。遅れてレイブンクロー、ハッフルパフからもまばらな拍手が上がった。
けれど、グリフィンドールの大半の生徒は力なく膝を折り、前方にいるマクドゥガル兄妹に視線を送った。
ナーサも信じられない気持ちで三人を見ていた。
リンジーは婚約者の腕に手を預け、気丈な微笑みを浮かべていたが、今にも倒れそうに見えた。それに、イアンはまるで自身の葬式に出席しているような顔をしている。
そして、ケイレブは──気遣わしげにリンジーの横顔に見入っていた。彼女もその視線には気づいているだろうに、婚約者と目を合わせることはなかった。
拍手が静まるのを待って、アンブリッジ校長は両手を掲げた。
「闇の帝王は魔法使いの繁栄を願われております。クラス・エースの尊い血が枝葉を伸ばしゆくこの瞬間を、皆さんも祝いましょう。
そして、お二人に倣って、皆さんも血を純化させ、魔法使いの血を増やしてゆくのです!」
ナーサの指先からスプーンが滑り、ガシャンとみっともない音が響き渡った。自分の周囲だけでなく、アンブリッジ校長までもが見咎めるように視線を送ってきた。
けれど、それが他ならぬナーサ・マルフォイだと気づいた途端、校長のつり上がった目が見る間に和らいだ。
何かに抗議するために音を立てたわけではない。ミケイラとリラルド・ヤックスリーの姉弟が遅れて大広間に入ってきたのに気を取られただけだ。
椅子に腰を下ろす瞬間、リラルドの顔がグリフィンドールのテーブルに向けられた。
目が合う寸前で、ナーサは皿に視線を落とした。傷ついた素振りを見せたくなくて、震える指でパンを千切って口に運んだ。まるで砂を噛んでいるようだった。
ジャニスと遅くに寮に戻ると、談話室では皆がリンジーを取り囲んでいた。誰ひとりリンジーの顔色を気にかけていないようだったが、彼女はそれでも笑顔を絶やさなかった。
「尋問されてるんだと思ってたよ! なのに、いきなり結婚っ? どういうことなの、リンジー?」
「……ふふ、ごめんね。
実は、随分前からケイレブとよりを戻してたんだ。
彼が卒業して離れ離れになる前に、どうしても婚約だけでもって急かすから」
リンジーは淀みなく話す。その左手の薬指には婚約指輪が光っていたし、彼女は幸福そのもののような顔をしていた。
けれど、薄茶色の目にはまるで生気がない。まるで手折られた薔薇のように……美しいが、今にもしおれそうに見えた。
「ミスター・ヤックスリーとは本当お似合いだったもんね。おめでとう!」
「婚約指輪、見せて。
いいなー。あんなにイケメンで、センスもよくて、お金持ちで……完璧すぎる『ケイレブ様』が婚約者なんて羨まし〜い」
「そういえば、デニスはどうした? こっそり付き合ってたんじゃないの?」
誰かの声が響いた途端、リンジーの口角が不自然に上がった。
「ルクスの尋問員の人と一緒に、お芝居に協力してもらったの。デニス、元々海外で美容師をやりたがっていたじゃない。ボーバトンへの留学を条件に、私の恋人役を引き受けてくれたんだ」
「へえ、そうだったんだ〜。
でも、残念! デニスがいなくなったら、誰にヘアセットしてもらったらいいの?」
「デニスも水臭いよな。ルームメイトの俺達にも内緒で、荷物まで置きっぱなしにして行くなんてさ」
「……ふふ、それはケイレブに言ってよ。デニスは私達の都合に巻き込まれただけなんだから」
じっとリンジーを見つめていると、視線に気づいたのか、彼女はハッと目を見開いた。その頬に見る間に朱が差したと思うと、彼女はそっと目を伏せた。
ナーサはジャニスと目を見交わした。
周りは誰も疑問に思っていない。けれど、二人にはリンジーが伏せた裏側が僅かに透けて見えていた。
*
ホグワーツ特急に乗る前日は、七年生の修了式だった。
ナーサは式が始まる一時間以上前から、地下から大広間に続く階段の前で立ち尽くしていた。すれ違うスリザリン生やハッフルパフ生が一体何だろうと振り返ってきたが、今はそれすらも気にならない。
友人に囲まれたケイレブ・ヤックスリーが、廊下の向こうに見えた。ナーサに目を留めた瞬間、華やかな笑顔が凍りついたように見えた。
足を止めた彼に歩み寄ると、ナーサは息を吐いた。
「ケイレブ、ご卒業おめでとうございます」
「わざわざ会いに来てくれたのか、ナーサ」
「お忙しい日にすみません。少しだけ時間をもらえませんか?」
ケイレブは友人達に先に向かうよう促すと、思い出したように目を細めた。
「勿論だ。私も、君と話さなければならないと思っていたんだ。
……玄関ホールに行こうか。ここは人が多すぎる」
サファイアのように深い青の瞳を、ナーサは静かに見つめ返した。
あの図書館での出来事以来、また思考を覗かれるのを恐れていた。今となっては不思議なほどに、ナーサはケイレブと二人になるのを怖がっていない自分に気がついた。
リラルドに投げつけられた言葉の意味を調べてからというもの、感情が失われたせいかもしれない。
式典の前の玄関ホールには誰もいなかった。燃えさかる松明に照らされているというのに、そこはひんやりとした空気に満ちていた。
「リラルドのことは本当にすまない」
出し抜けにケイレブは直立不動の姿勢のまま、深く頭を下げた。視線を落としたまま、彼は続けた。
「あいつは……ずっと君に無視されたと思って溜め込んでいたんだ。
それに君の前で、我が家の醜態を見せてしまった……あんなところ、見せるべきじゃなかったのに」
ナーサは陽光のように輝く髪を見つめた。彼の弟と全く同じ色味のブロンドを。
「『mistress’s bairn』──彼が言ったのは、この単語で合っていますか?」
ケイレブの肩が跳ねた。思わずのように上げた顔は驚愕の色に染まっている。
「何故……聴き取れた、のか?」
「調べました。どうしても気になって」
ケイレブは次に言うべき言葉を探して、唇を震わせていた。いつも流暢に話していた彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
「本当にすまない。あんな汚い言葉を吐くなんて許されることじゃない。ヤックスリー家を代表して謝る。本当に……申し訳ない」
「あれはリラルドのデタラメ……とは言わないんですね、やっぱり」
ナーサは自然と口元に笑みが浮かんでくることを不思議に思った。
もしかしたら──本当の絶望を味わうと、これ以上傷つかなくてもすむように身体が反射するのかもしれない。だとしたら、これまでリラルドが見せてきた、場に似つかわしくない笑いも理解できた気がする。
もう、それを本人に確かめることはできないけれど。
「頼む、ナーサ……弟を許してくれ。
リラルドは、君が全てだった。入学する前から、ずっと君だけを見続けて……あの時も、私から君を守ろうと」
ケイレブの言葉には切実さが感じられた。まるで、母親に縋りつくような響き。いつか──彼が大広間でリンジーに訴えかけた言葉に似た温度を感じた。
それでも……ナーサは懐中時計のネックレスを握りしめた。
「あたしも、リラルドのことが誰よりも大切でした。
彼は、あたしを変えようとしなかった。マグルの中で育ったことも、慰めたりするんじゃなくて……そのまま受け容れてくれた。
赦されるってこういうことなのかって思った。
それなのに……あたしを優しく包み込んでくれた音で、あたしを深く切りつけてきた。
もう、信じられない……」
「──ナーサ」
もうケイレブの目を見ることはできなかった。目線を落とすと、彼がきつく拳を握りしめているのを見た。
そして──その一瞬、左手に光るものを認めた。
「……ミス・マクドゥガルと婚約されたんですよね。
あの日、デニスと彼女が消えた時……あなたは何をしていたの? どうして、あの人は幸せそうじゃないの?」
ケイレブの手が急にほどけた。
「リンジーは混乱しているんだ……色々とあったから。
けど、時間をかければ、傷は癒える。私が、癒やす。
真実薬が示したんだ。彼女の心の奥底には常に私がいたと。彼女は、最後には必ず私のところに帰ってくる」
ひどく甘く優しい声が耳を撫でた途端、ナーサの背筋に悪寒が走った。疑いも躊躇いもそこにはなく、確信めいた言葉だった。
ナーサは小さく喉を鳴らした。
「──真実薬。
あの日、あなたはあたしの心を覗いた。守るためと言ったけど……人の心を暴くのに抵抗がないんですね」
吐息のような淡い笑いの気配がした。
「君も、覗く側の気持ちは分からないだろう」
思わず見上げたケイレブの目は何処までも穏やかだった。
宝石箱に大事にしまい込んでいた宝物が、精巧なイミテーションだったと知る──子どもは皆、そんな風に傷つきながら大人になっていくのかもしれない。
「あなたは優しい人だった……本当に。
実のお兄さまだったら、どんなにいいだろうと思っていました」
「……そうか。
私にとっても、君はもう一人の妹同然だった。この先の未来にも当然のように側にいてくれるものだと思っていた。
実に残念だよ、ナーサ。心からそう思う」
彼と言葉を交わすのは最後だろう。
その瞬間、ナーサの脳裏を駆け抜けたのはケイレブと、そしてリラルドと過ごした温かな時間だった。
もう、あのチェリーシロップソーダを飲んだ時間は、二度と戻らない。
「あなたと、リラルドと過ごした時間は夢のようなひと時でした。けど……もう、目を覚まさなきゃいけないって気づいたんです。
さようなら、ケイレブ。本当に大好きでした」
ナーサは言い終えると、背を向けた。彼の方からも答えは返ってこなかった。
一年生編はここで完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
次回からは二年生編に入ります。
二年生編では、ルシウスやジニーとの関係、ヤックスリー兄弟の変化、そしてナーサにとって大きな存在となるレグルスやリリー、新たな友情などに焦点を当てていきます。
二年生編は全70話で、執筆済みです。
個人サイトおよびpixivでは先行掲載中ですが、ハーメルンではpixiv掲載分に追いつくまで、これまで通り隔日22時に投稿予定です。
pixiv掲載分に追いついた後は、週1更新へ切り替える予定です。