01. 消された父
ホグワーツ特急が、緩やかに九と四分の三番線プラットホームに滑り込む。駅員が杖を片手に客車のドアを開けていくと、待ちかねていた生徒達が一気にホームに雪崩込む。
皆が家族と抱き合う姿を見守りながら、ナーサはコンパートメントから足を踏み出すことができなかった。
もし、今、ホームに祖父の姿を見つけたら──衆目の前であっても堰き止めていた感情がほとばしりそうな気がする。それが怖かった。
コンパートメントに一人残ってくれていたジャニスが、名残惜しそうにトランクに手をかける。
「また休み明けにね、ナーサ」
「……うん。休暇明けに、またね」
「お互い……あのこと、しっかり調べようね」
ジャニスはこそっと耳元で囁くと、勢いよく外へ駆けていく。振り返り、窓越しにひらひらと手を振る彼女の姿は、すぐに雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
それから二十分も経つと、ホームの混雑が緩和されてきた。
車掌が見回りに来るかもしれない。そろそろ出ようかと重い腰を上げた時、ふと窓の向こう──薄暗がりにも際立つサンゴールドブロンドが目に飛び込んできた。
ケイレブ・ヤックスリーと、その傍らには彼の婚約者のリンジー・マクドゥガル。少し遅れてミケイラとリラルド・ヤックスリーの姿もあった。
ナーサは思わず息をひそめてしまった。
窓越しに気配が感じ取れるはずがない。それなのに、ほんの一瞬リラルドが足を止めたのを見た途端、重石をつけて沈めていたはずの想いが、胸の奥で僅かに動いた。
ヤックスリー兄弟の後ろ姿が消え、ホームからはどんどん人けがなくなっていく。深呼吸を一つして、ナーサはトランクを片手にホームに降りた。
周りを見回したが、祖父の姿は何処にもない。
痺れを切らして帰ったのだろうか。そんな不安が胸を渦巻く中、きびきびと近づいてくる者があった。マルフォイ家に長く仕える執事の一人だ。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
恭しく礼をとると、執事はさりげなくナーサの手からトランクを預かった。
「おじいさまは、来てらっしゃらないの?」
「はい。あいにくと大事な仕事が重なったようでして」
マグルを蔑む祖父の様子を思い出し、ナーサは俯いた。
一刻も早く苦行を終わらせたいとばかりに、一度も振り返りもせずに先を行った後ろ姿。
それでも──以前はスケジュールを調整して、送り迎えはしてくれたはずなのに。
ナーサはギュッと拳を握りしめた。暖かくなってきたはずなのに、まだロンドンの夜は寒かった。
*
半年ぶりに足を踏み入れたマルフォイ邸は、クリスマス休暇の時以上によそよそしさを感じた。まるで屋敷自体に拒まれているような、何とも言い難い違和感。
執事から食事の用意ができていると告げられたが、ナーサは先に祖父への謁見を申し出た。
おそらく、それは想定内のことだったに違いない。
執事の先導で、ナーサは祖父の書斎へと案内された。
「ご当主さま。お嬢さまがお戻りになりました」
執事が書斎のドアをノックし、そう声をかけるや否や、入るよう促す声がかかった。ドアノブを回した執事が、脇に退く。
ナーサは僅かに空いた空間に吐息を漏らし、ゆっくりとドアを開ける。キィ、と微かな軋みが耳を突いた。
祖父は書棚の前に立っていた。
すでに壮年を越えているというのに背筋は伸び、染み一つない肌にはたるみもない。魔法使いは寿命が長いとはいえ、老いというものを寄せつけない。まるで氷の彫像だ。
「ただいま戻りました、おじいさま」
ナーサは儀礼的にそう言い、丁寧にお辞儀をした。
祖父は軽く頷き、静かにナーサを見つめ返した。まるで、ナーサが何をしに来たのか、とうにお見通しのように。
「……お聞きしたいことが、あります」
声は震えていなかった。そのことにナーサは少しだけ安堵し、ふと笑い出したくなった。祖父に恥ずかしいところを見せられない──そんなことを無意識に思った自分に嫌気が差した。
「あたしは、本当は……誰の子なのでしょうか」
口にした途端、空気が音を立てるように沈んだ。
祖父は眉一つ動かさない。コチ、コチ……ナーサの胸元で、懐中時計が静かに存在を主張していた。
ナーサは思い切って、一歩前へと踏み出した。
「答えてください。
あたしは、お父さま……ドラコ・マルフォイの娘ではなかったのですか?」
「──何を今さら」
低く、断定的な声だった。
「お前がマルフォイの血を継ぐ唯一の子であることに変わりはない。それ以上、どんな答えを望む?」
その言葉を聞いた瞬間、ナーサの胸にかろうじて留まっていた血筋への誇りが、音を立てて崩れ去った。
「……仰るのはそれだけ、ですか」
かすれた声が自身のものとは思えない。
ナーサは全身の震えを意識しながらも、倒れまいと足に力を込めた。
「何故、教えてくれなかったのですか。
あたしは、ずっと……信じてきたのに……」
「お前は誰よりも優れた血統を誇る。その事実で十分だろう」
謝罪はなかった。後悔も、ほんの僅かの躊躇いすらも。
ナーサにとっては、それが全てだったのに。
父ドラコと暮らした、あの遠い記憶は一体何だろう。自分は、何を支えに生きてきたのだろう。
「誰から何を聞いたかなど、深くは追及しない。
しかし、今少し自覚を持て。お前はこの家を継ぐ唯一の者だ。些事に惑わされれば足を掬われかねん」
「……些事?」
その瞬間、耳の奥から金属音が鳴り響き、ナーサの内側で何かが弾けた。
冷たい灰色の目を見据え、ナーサは声を絞り出した。
「こんな家──こんな家を、誰が継ぎたいと思うの」
鼻から漏れる、深い吐息──感情の見えない面に、ほんの僅かに浮き上がる綻び。
その正体を見定めようとした次の瞬間、乾いた音が鳴り響いた。ぐらりと視界が揺れ、頬が熱を帯びる。遅れて、痛みが押し寄せてきた。
「分をわきまえろ」
祖父は──いや、ルシウスの声は冷ややかだった。打った手のひらを見下ろし、ふいっと目を逸らす。
「そんな口の利き方を、誰が教えた。不愉快極まりない」
床板が軋む。息を呑んだナーサは、思わず両手で頭を抱えて後ずさった。
その途端、跳ね返るような勢いでドアが開けられた。母だった。見開いた目で室内の様子を一瞥すると、ルシウスとナーサの間に割って入った。
「ナーサにひどいことをしないで!」
身を挺して庇ってくれる母の姿に、目が燃えるように熱くなる。けれど──ナーサは力なく笑った。
「ひどいことって……もう、ずっとされていたんだよ、ママ。
ねえ……あたし、パパの娘だって信じてたよ、ずっと……。
でも、あたしは……『その人』の娘なんでしょう。どうして、黙ってたの……?」
言葉が詰まり、視界が滲んだ。まばたきをするたびに、熱いものが頬を伝った。
振り返った母の顔は、歪んでよく分からない。けれど、その白さだけは痛いほど伝わった。
「もう……あたし、消えてしまいたい……」
「ナーサ……!」
母の両腕に閉じ込められて、ナーサは存分に涙をこぼした。例え世界が残酷だろうと、この小さな空間だけは安全な場所だと思った。
「ごめんなさい……あなたにそんなことを思わせてしまって……ママのたった一人の愛しい子、どうかそんな風に自分を責めないで。悪いのは全部私なの……」
涙は母のローブが吸い取ってくれた。ナーサはそっと身体を離した。
「……ママ。一緒に、この家を出よう」
母の顔が凍りついた。小さく喉を鳴らしたと思うと、視線を外して、唇を噛みしめる。
「……それは、できない」
「どうして」
母は応えなかった。視線だけが頼りなく部屋を彷徨い、やがてルシウスの元へと辿り着く。
その瞬間、ナーサは理解した。
母にとって一番大事なのは父ではなく、そして自分でもないのだと。
「……そう。ママは、あたしよりもその人の方が大事なの」
「違う! ナーサ、違うの……!」
ナーサはもうそれ以上話す気にはなれなかった。
家族だった二人に背を向け、廊下へと飛び出した。自分の部屋に駆け込み、鍵をかける。
ドアに背をもたせて、ナーサは子どものように声を押し殺して泣いた。
(……もう、この家にはいられない)
やがて、ドアをノックする音が響いても、微かな足音とドレスの衣擦れの音が遠のいても顔を上げられなかった。