【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地   作:◆琳音◆

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02. 夜更けの逃避行

 ナーサはこわばった身体を起こした。濡れたままの頬がひんやりと冷たい。

 よろめきながらも洗面台の前に立ち、思わず笑ってしまった。鏡に映るその顔は、目の周りが腫れ上がり、とても自分とは思えない。

 冷たい水で顔を洗い、しばらく目元を冷やすと大分マシにはなったが、それでも──もう二度と、以前と同じ顔には戻れない気がした。

 何も知らず、与えられたものだけを信じ切って笑っていたあの頃には戻れない。

 

 部屋の隅に置かれたトランクを開けて、荷物の分別を始めた。教科書などの学用品、制服のローブと最低限の衣類以外は全てベッドの上に積み重ねていく。

 その中に右手だけ残された革手袋を手に取り、ナーサはまじまじと見つめた後で無造作にベッドに放った。

 続いて、お守りのようにずっと首に下げていた懐中時計のネックレスを外し、衣類の上に置く。

 

 随分と軽くなったトランクを片手に、ナーサはもう一度部屋を振り返った。

 ホグワーツに入学するまで、一番多くの時間を過ごした部屋だ。しかし、そこにもはや想いを留めるものはなかった。

 

 けれど──目は吸いつけられるように、もう一度ベッドの上へと戻る。

 ため息混じりにトランクを置き、ネックレスを拾い上げて、首にかける。シャラ、とチェーンの音が不思議と気持ちを落ち着けた。

 そして革手袋をつまみ上げて、きつく握りしめると、ポケットの中にしまい込んだ。

 片方だけの手袋──もう身に着けることは二度とないのに。思い出すだけで胸が痛んだが、それでも置いていくことはできそうになかった。

 

 玄関ホールからボーン、と置き時計の鐘が響く。それを合図にナーサは静かに部屋を出る。

 

 屋敷の中は静まり返っていた。何処までも長い廊下には明かり一つ灯っていない。

 月明かりだけを頼りにそろそろと歩き出したナーサは、ふと既視感を覚えた。いつか、こうして深夜の屋敷を歩き回ったことがある気がした。そのせいか、怖さは感じない。

 音を立てないよう、ゆっくりと玄関ホールまで降りていく。

 

 備えつけられた大きな暖炉。その上に置かれた壺から、きらきらと輝く砂を一つまみ握って火に振りかける。瞬時にエメラルドグリーンに変わった火の中に、ナーサは躊躇いもなく飛び込んだ。

 

「漏れ鍋!」

 

 暖炉の中がぐるぐると回りだすのを感じ、ナーサは目を瞑った。トランクの取っ手をつかみ、弾き飛ばされないようにと気を配りながら。

 

 回転が少しずつゆっくりになり、完全に止まるとナーサはゆっくりと目を開けた。もう真夜中だというのに、眩いほどに明るい。

 ふらりと暖炉を這い出ると、赤い顔をした人々が驚いたようにこちらを見てきた。

 

「こんな夜更けにどうしたんだい? あんた、一人? 何処の子?」

 

 心配そうな声音に、ナーサは微笑んだ。燭台の赤みがかった光と、ふんわりと漂う酒の匂い。その二つが泣き腫らした顔をごまかしてくれればいいと願いながら。

 

「ママ達がここに泊まってるんです。

 あたしはちょっと親戚の家に寄ってからきたから、着くのが遅くなっちゃって」

 

 灰を叩き落しながらさりげなく言うと、大人達は納得したように頷き合う。

 

「そりゃ、そうだな。お嬢さんみたいな子がこんな時間に一人で出歩いたりしないか」

「昔に比べて随分治安も悪くなったもんだわね。

 ノクターンの連中が大きな顔して表通りを歩いているし……あーあ、全てがどんどん悪くなっていく一方だよ。あれ以来」

「おいッ! 声が大きい……」

 

 ナーサは彼らに会釈をすると、静かに漏れ鍋を出ていった。

 向かう先はここではない。マルフォイ邸にいられなくなった以上、ナーサの居場所はホグワーツ以外になかった。

 夏休み中はいられないと聞いたことがあったが、行く当てのない生徒を追い返すはずもないと思った。

 

(ロングボトム先生は植物の世話があるから、夏休み中ずっといないことはないはず。

 先生に頼んでみよう……本当のことは話せないけど、何か……それらしい理由を考えなきゃ)

 

 ナーサはふと目が覚めたように立ち尽くした。足取り軽く出てきたはいいが、道が分からない。

 漏れ鍋から駅までは歩いて行ける距離だと思っていた。上を見ながら歩けば、駅の影は見えるはずだと思っていた。けれど、暗い上に方向も分からない。

 

(一旦『漏れ鍋』に戻って、道を訊く?

 でも、絶対におかしいって思われる……家に連れ戻される。それは、嫌……!)

 

 すれ違った男がじろじろと眺めてきて、ナーサは息が止まりそうになった。ポケットの中で杖を握りしめながら、ナーサは駆け出した。

 心臓の音がうるさく、足がもつれかける。

 何処かに身を隠そうと路地に入り、必死に駆け抜ける。

 

(怖くなんかない、マグルなんか。

 でも、魔法を使ったら居場所が知られる……)

 

 気づいた時には袋小路にいた。

 カツン、と背後から靴音が響き、ナーサは跳ね上がりそうになった。さっきの男だろうか。

 

 ナーサは震える両手で杖を持ち、前に突きだした。歯を食いしばり、怯えた様子を見せないように自分を奮い立たせた。

 

「──こんなところで何をしている?」

 

 杖明かりが狭い路地を照らし出し、ナーサは思わず目を細めた。光ったのはナーサの杖ではない。

 やけに古風なコートを羽織った黒髪の男だった。髪もヒゲも長く、年齢はよく分からない。ただまっすぐ伸びた背筋を見たところ、そう年寄りではなさそうだ。とても背が高い。

 

 男は確かめるようにナーサの顔を見つめると、杖先を少し下げた。目を焼く痛みが和らぎ、ナーサはふっと息を吐いた。

 

「驚かせてしまったようだね。口は利けるかい?」

 

 綺麗な標準英語だった。その一言だけで、教養のある魔法使いだということが分かる。

 ナーサはほんの僅かに緊張を解いた。

 

「……何故、追ってきたんですか」

「小さな子がこんな遅くに一人で歩いていれば、誰だって気にする」

 

 男の言葉に躊躇いは感じられない。誠実な響きだった。

 けれど、ナーサはすんなりと信じることができない。自分に害をなす人間でなくとも、魔法省の役人ではないか。マルフォイ家の追手ではないかと勘ぐってしまう。

 

「放っておいてください……一人でも平気です」

「平気ではないだろう。そんなに怯えて。今にも泣きそうな顔をしている……家まで送ろう」

 

 ナーサは乾いた笑いを漏らした。

 

「……家は、ありません。

 ホグワーツに行きたいんです。駅の場所が分からなくなってしまって……道を教えてもらえますか?」

 

 男は何故か痛ましげに眉を歪めた。

 

「残念だが、駅には行けてもホグワーツには帰れない。新学期が始まるその日まで、迎えの汽車は来ないんだ」

「そんな……」

 

 ナーサは杖を下ろし、力なくトランクに片手を置いた。

 二ヶ月近く、ロンドンで過ごすことはできない。1クヌートだってお金を持ってきていない。

 俯くナーサを男はしばし見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。

 

「ここは長々と立ち話をするところじゃない。ロンドンの夜は子どもにはそぐわぬ場だ。どうするかは君が決めるんだ。

 まずは、漏れ鍋に戻るか、だ。知らせが行けば、誰かが迎えに来るだろう。

 または、頼れる友人の家を訪れるか」

 

 ナーサは黙ったまま、首を振った。

 家に連れ戻されるのは論外だ。

 頼れる『友人』なんて一人もいない。ジャニスなら、もしかしたら──けれど、何処に住んでいるのかも知らない。親しい『ルームメイト』だけど『友達』と思っているのは自分だけかもしれない。

 ぐしゃりと頭を押さえたナーサに、男は声を落とした。

 

「……君が望むなら、私のところで夜が明けるまで身体を休める手もある」

 

 思わずナーサは男を見上げた。目が合った一瞬、男の瞳が葛藤に揺れたように見えた。

 

「気分を悪くさせてすまない。

 寛げる場所とは言い難いが、それでも鍵のある部屋を提供することはできる。必要があれば……食事も」

 

 ナーサは小さく喉が鳴る音を聞いた。

 従わせるのではなく、選ばせようとする大人が悪い人間とは思えない。けれど、素性の知れない男の家に行くのが、どれだけ危険なことかもよく理解している。

 軽々しく天秤にはかけられない。

 男はすっと視線を外した。

 

「君が答えを出すまで、私はここにいよう。

 それも嫌なら……立ち去る。よく考えて、結論を」

 

 ナーサは疲れ切った頭を巡らせ、やがて一つの疑問に辿り着いた。

 

「……何故、そんなにもよくしようとするんですか。

 あたしが誰なのか、知っているんですか?」

「──知っている」

 

 反射的に拳を握りしめ、ナーサは後ずさった。けれど、硬い壁が押し返してきた。

 もう、逃げ場はない。

 

「祖父の使いですか? あたしを……連れ戻そうと」

「違う。私は誰の命令も受けていない。今夜ここにいるのも、私の意思だ」

 

 ひと呼吸置いて、男は続けた。

 

「……昔、君と会ったことがある」

「え?」

 

 予期せぬ言葉にナーサは目を見開いた。その反応を見て、男はそっと目を伏せた。

 

「覚えていないのも無理はない。君は幼かったし、大変な時だった……それに、今もそうだろう」

「……どなたですか?」

「レグルス・ブラック」

 

 ナーサは射抜かれたような衝撃を受けた。

 『純血一族一覧』や『生粋の貴族──魔法界家系図』に書かれていた。ブリテンの魔法族の中で最も歴史ある一族、ブラック家──その当主の名前が、確かレグルスだった。

 会った記憶はない。けれど、その名は不思議と心に響く。

 

「ブラック家の、ご当主──あなたが」

 

 畏怖を込めて囁くナーサに、レグルスの顔が僅かに陰った。

 

「滅びかけた一族だ。当主など……立派なものじゃない」

 

 何処か恥じ入るような声音に、ナーサは目を瞬いた。純血なのに血筋を誇らない人を、初めて見た。

 そして、同時に『マルフォイの血』を誇れなくなった自分と響き合うものも感じた。

 この人も同じだ。何処にも自分の居場所がない。

 

「……承知しました、ブラック卿。

 今夜一晩、お邪魔させてください。ただ、失礼とは思いますが、杖は預けませんし……手放しません。

 それでも、よろしいですか?」

 

 地位の高い魔法使いほど、武器を携行するだけでマナー違反となる場がある。それも相手は純血の名家の当主──この申し出だけで無礼と断罪されても不思議ではない。

 けれど、レグルスは即座に頷いた。

 

「勿論だ。

 誰にも告げずに行くのは不安だろう。一度『漏れ鍋』に戻って店主のトムに声をかけていってはどうかな」

「……いいえ、それだけは。

 祖父には決して行き先を悟られたくありません。もう二度と……あの家に戻るつもりはないので」

 

 ナーサは思わず懐中時計を握りしめ、そんな自分に気づいて姿勢を正した。

 

「君の判断に委ねよう。

 私の家はここから二十分ほど歩く。少し入り組んでいるから、私が先を歩こうと思うが、どうだろう」

「……あたしは杖を握ったままですが、よろしいのですか?」

「勿論だ。夜のロンドンは安全とは言い難い。警戒するに越したことはない。さあ、行こう」

 

 レグルスは躊躇することなく背を向けた。

 背丈は祖父と同じくらいはある。広い背中に、長い手足。けれど、レグルスの歩調はゆったりとしていた。トランクを片手に持ったナーサが十分についていけるほどに。

 そうして時折振り返り、また歩を進める。近すぎず、遠すぎず、一定の距離を保ったままだ。

 

(おじいさま……ううん、『あの人』はあたしが遅れていないか、寒くないか、気にかけたりしなかった)

 

 ひんやりとした風が流れる夜だというのに、何故かナーサは包み込まれるような温みを同時に感じたのだった。

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